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まぁなんだ…、結局愛だよね

1 :考える名無しさん:2006/11/12(日) 02:29:16
愛って何なのかって話しだよ。存在範囲はどっからどこまででどこにでもあるものなのかって話し。
あ、人が存在してるって前提でね。なくて論が展開できる人はしてくだされ。
ある特定の女を…、とかある特定の存在にとか、んなのは求める答ではなくね。でもそのあらゆる存在形態を表すならオツケーだね。愛の存在について語らって頂きたい…

2 :重複につき誘導:2006/11/12(日) 02:36:17

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1086785637/


3 :考える名無しさん:2006/11/12(日) 23:08:10
んなこたどーでもいいから、たまには外の空気すえよ

4 :考える名無しさん:2006/11/14(火) 04:25:47
愛は無償である

5 :あのね:2006/11/15(水) 00:37:03
愛って、見返りを求めないただ与えるだけっていうよね。
このこと、経験的に知ってる人いないかなもちろん哲学的でもいいけど。
一般的に、分かりやすくいえたらもっといいけど

6 :短パン:2006/11/15(水) 00:51:48
「似て非なり」とも言うな?
無償のように見えて、すかぁーし、スガシカオw

いや、いいな。森山直太郎の次くらいはいいな。

7 :考える名無しさん:2006/11/15(水) 00:55:53
>>1
この世界に本当に必要なものは
「愛」なんかじゃない。

「慈悲」だ。

8 :THE グル:2006/11/15(水) 01:40:42
いいですか、
「愛」とはときに、「行為」と混同されがちなものでありまして、
多くの人は、
自分の行為を愛であると考えます。
しかしながら、
「行為」は愛ではなくプレゼントに過ぎないんです。
ですから、
プレゼントに対してはお礼を言わなければなりませんし、
プレゼントである以上お返しをしなければならないんです。
そのため、
行為を受けるということはつらいことであり、
愛と行為の区別がつかなくなり互いに齟齬が生じてしまうことがあるんです。
今まで愛のしるしに彼女に贈り物を続けてきた人が、
やはり、愛はものじゃないんだと考え、プレゼントをすることをやめると、
彼女は自分の誕生日を覚えていないんではないかと考えるようになり、
他の人はいっぱいくれたのにあの人は私にくれない、愛していないんだと、
愛と行為の区別がつかなくなり、
またその反面、
自分の趣味にあっていて、しかも値段が高いものをプレゼントしてもらったりすると、
「自分を理解してくれた、これは間違いなく愛だ」と感じる人がおられますが、
これも愛と行為を間違ってしまった例でありまして、
当然その行為を受け続けることで、
いつかは大きな負担となり、お互いを苦しめることになるんです。
そしてそれらの正体はその実「エゴ」に過ぎないんです。
では「愛」とは何かと申しますと、それは即ち精神であり、感じることでありまして、
ビジョンを生きることなんです。
ビジョンとは「エゴ」の反対側にあるものでして、、
生まれてきた目的であり、欲望の彼岸なんです。
これが今では定説です。
どうかしましたか?



9 :考える名無しさん:2006/11/15(水) 01:54:09
黙れ雑魚
愛とは表現するものだ

10 :THE グル:2006/11/15(水) 02:17:21
>>9
いいですか、
>愛とは表現するものだ
とおっしゃっておられますが、
愛はパフォーマンスではないんです。
といいますのも、
自己表現してそれで相手の理解を得ようとすること自体が、
即ち、愛ではなく行為に過ぎないからなんです。
カントに依るならば、
他者への愛とは、
即ち感覚的と実践的に基づくものの二つに大別されますが、
特に後者においては道徳的とみなし、
自己が他者を人格として愛することを指します。
しかしながら、
傾向性的な愛としての感覚的愛は特定の欲望に走らせ、
理性と対立して「エゴ」に走らせてしまうため、
結局は愛という名の行為を強いることでしかないんです。
これが今では定説です。
どうかしましたか?

11 :ang:2006/11/15(水) 02:28:08
愛の定義ってどうして必要なのさ

12 :ang:2006/11/15(水) 02:29:25
愛の定義ってどうして必要なのさ

13 :短パン:2006/11/15(水) 02:32:18
「慇懃無礼」だと、言っている。
『いいですか、』
何が、どぅいいんだよ?
流石、グルだ。
でも、みんな飽きちゃった。
過去の汚物w
新しく、やんなさいな。
いわば、「読み手の為にも」な。
繰り返しが好きなら、ここでやって通せないと知れよ。神様w
伝達者のわりに、ボキャブラリーが少ないのよねぇ〜w

ほぃ。
そんな感じかよw


14 :THE グル:2006/11/15(水) 02:40:11
>>11
いいですか、
それは、
生きることの定義とおなじ理由からなんです。
どうかしましたか?

15 :THE グル:2006/11/15(水) 02:50:02
>>13
いいですか、
>『いいですか、』 何が、どぅいいんだよ?
とおっしゃられておりますが、
グルが、
そう問いかけるのは提言があるからであり、
何がと聞かれれば、
それは即ち「定説」なんです。
どのようにいいのかではなく、
よろしくご理解いただけましたかの意味なんです。
また、
>でも、みんな飽きちゃった。 過去の汚物w 新しく、やんなさいな。云々。
と言われておりますが、
これは諌言として真摯に受け止めておくんです。
まあ、スタイルはスタイルとして変えようはありませんが、
さらに定説の充実に精進するんです。
これが断言できます。
どうかしましたか?



16 :短パン:2006/11/15(水) 03:08:21
なるほど。
やっぱり、アンタは(も)「すげぇ」な。(居ついてるだけの事はあるよw)

なかなか、こうは切り返しの文言は書けない。(何処の誰とも知らぬ糞に。)
「慇懃無礼」も、そこそこ極めれば、人の心をつっつくんだね?
ちょっと、勉強させて貰いました。(しかし、胡散臭さは、そのままにw)

・・・そぅそぅ、人は変われない。
「布教家」にくせして、随分謙虚だわw
その通り。人の心、どれだけ世の中が変化しようと、そぅそぅ追従するものじゃないし、
出来ないし、するつもりが、そもそも無い。

宗教が胡散臭いと提起されたのは、多分「布教」という、営業を始めたからだ。
これは、もっとずっと、知られようと知らざれようと、おごそかでなくていいのだが、
「静かに死者を見送る」と、すれば。むしろ、解って貰えたはず。

「広めよう」と。その時に、なんか、間違えたんだろうな?
おんどれ、神様も気をつけるんだな?



17 :考える名無しさん:2006/11/15(水) 03:23:08
ホルモン

18 :考える名無しさん:2006/11/15(水) 03:35:10
>>14
うーん…
なるほどねぇ。
ならば「愛の定義」ってより、「いかに大切な人と上手くすごすか」という問いかけとして受け止めればいいのかな? 「愛」=恋よりも良いものでより目指すべきもの、という構図が前提になってる?



19 :THE グル:2006/11/15(水) 03:35:34
>>16
いいですか、
>宗教が胡散臭いと提起されたのは、多分「布教」という、営業を始めたからだ。
とおっしゃっておられますが、
それはおっしゃる通りなんです。
当然のことながら、
宗教は布教することで、
自らの信仰で良いとされる価値観を広めていくことが善であるされていますから、
こうして他者を感化し広めること自体は宗教の自性的なものなんです。
それは仏教では慈悲といわれ、
キリスト教では隣人愛といわれるものなんです。
しかしながら、
短パンさんが敢えてカッコ付きで「布教」とされているように、
昨今の宗教の一部には、
自らの組織の利益を追求するあまり商業に走る傾向を露わにして、
その言わば金策に走る行為自体の多寡が、
信者の信仰心を測る度合いであるかのように間違って解釈されている様に思うんです。
そうしてそうした行為には本当の意味での愛は感じられなくなり、
日本では特に胡散臭いと捉えられてしまうのだと思うんです。
まあ、同じ轍を踏んで形骸化した愛を説かないように、
グルも気をつけるんです。
これが今では定説です。
どうかしましたか?

20 :THE グル:2006/11/15(水) 04:05:26
>>18
いいですか、
>ならば「愛の定義」ってより、
>「いかに大切な人と上手くすごすか」という問いかけとして受け止めればいいのかな?
とおっしゃっておられますが、
それはちょっと違うんです。
といいますのも、
「愛」や「人生」というものは、
当然のことながら、
個々において目に見える形でのそれらの形態は異なります。
ある人にとって「愛」を感じることがそのまま、
他の人にとって「愛」を感じることとイコールではないのと同じように。
人の生きる意味も様々です。
しかしながら、
それらに共通する根底は同じものなんです。
それは即ち、
「愛」を語ることと「生」を語ることは同義であるということでありまして、
我々が論じ、見つめるべきはそうした表象的なことではなく、
もっと内面的で、本質的なところにあるんです。
そしてそれは、
あなたがあなたとして生きていることの意味、目的なんです。
ライオンはライオンをやるたった一つのことのために生まれ、
ツバメはツバメをやるために生まれてきているため何不自由なくライオンやツバメができますが、
人間はそうではありません、人間は人間として生きていくだけでなく、
あなたでなければいけないんです。
ですから当然、人それぞれの生きる意味、目的はすべて異なるため、
それに気付いたときに特別であるが故の恐れと孤独感を感じることになるんです。
「愛」とはそれを埋めることであり、それこそがここで語る前提となっているんです。
どうかしましたか?

21 :考える名無しさん:2006/11/15(水) 04:27:17
>>20

よくわかりません。
なんとなく感じるのは、閉ざされた内側で色々考えているのではないかと思う。
心の外の世界と連動しつつ、同時に内的に深めてゆかないと、上手に思考をまとめることはできないと思います。

ヘーゲルの弁証法のねっこはそこにあると思う。

22 :THE グル:2006/11/15(水) 04:54:14
>>21
いいですか、
止揚する態度も時には必要ですが、
「愛」や「生」を定義したり、
語る上でその方法は時に気をつける必要があるんです。
といいますのも、
「愛」と「行為」、感覚的「愛」と実践的「愛」などにおいては、
まったく立場が異なるため、
それらの区別なしに止揚すること自体がナンセンスだからなんです。
しかも、
前者には当の本人が「行為」を「愛」であると勘違いしやすいものであるため起こる間違いと、
後者には欲望的に基づくか道徳的に基づくものかで、
まったく相容れない逆の立場であるという問題があるからなんです。
どうかしましたか?

23 :考える名無しさん:2006/11/15(水) 05:02:43
>>20
>人それぞれの生きる意味、目的はすべて異なるため、
>それに気付いたときに特別であるが故の恐れと孤独感を
>感じることになるんです。「愛」とはそれを埋めることであり

ホントですか?個体で目的が異なると気がつかない赤ちゃんでも母親の
愛を求めるよ。
人だけじゃなく動物だって親と子供の目的は個体として異なるよ。
母ライオンは狩りに行き、子ライオンは遊んでる。そして愛を求める。
それに、人間以外の動物は何不自由無く生まれながらの生を生きると言うけど
それも嘘っぽい。ほ乳類は狩りや泳ぎを親と一緒に行動して学習しないと
出来ないと言うしね。ほ乳類には、子供を育てられない親もいる。
人以外の動物でも、愛には後天的な学習が必要なとこってあると思うよ。
君は、個体が他の個体から快を求めるという面と、どのように快を与えれば
良いかと試行錯誤する後天的な学習という面を混同させて考えてるんじゃない
の。

24 :考える名無しさん:2006/11/15(水) 05:31:09
THEグル氏は愛という言葉への憧れがあるのだ。
愛という言葉への憧れがTHEグル氏の心にある。
それがすべて。

25 :考える名無しさん:2006/11/15(水) 12:31:00
もっと
かんたんに教えてくださいな

26 :考える名無しさん:2006/11/15(水) 12:50:27
>>20:THE グル
>ですから当然、人それぞれの生きる意味、目的はすべて異なるため、
>それに気付いたときに特別であるが故の恐れと孤独感を感じることになるんです。
>「愛」とはそれを埋めることであり、それこそがここで語る前提となっているんです。

ライオンやツバメはこのことに気付かないということですよね?

27 :考える名無しさん:2006/11/15(水) 13:26:48
愛は思いやり 以上

28 :考える名無しさん:2006/11/15(水) 13:32:33
26さん 納得!


29 :THE グル:2006/11/15(水) 13:59:22
>>23
いいですか、
赤ちゃんは「愛」そのもので生まれてきて、
「愛」(即ちビジョン)を生きるんだということを知っています。
しかしながら、
父親や母親、あるいは自分のまわりの大切な人が、
「愛」を生きていない時に恐れを感じます。
これは即ち、「愛」することへの恐れでありまして、
「愛」するためにだけ生まれてきたのにそれがやり遂げられない。
そのことに対する恐れなんです。
ですが、
ライオンやツバメというのは、
悩みなんてものはありません。
なぜならば、
ビジョンしか生きてないからなんです。
ライオンがジャングルで、「待てよ、一度太平洋で泳いでみようか?」なんて思わないわけですし、
ツバメがモグラを見て、「一度土の中を走ってみようか?」とは思ったりはしないわけです。
ところが、
人間はそうではありません。
「俺を誰だと思ってるんだ、それぐらいできるさ」や「お前になんか負けてたまるか」、
そう言って、生きている人がいる。
これはちょうど、ライオンが水泳をできないからといってまずいと感じたり、
ツバメがモグラを見てコンプレックスに陥るなんてことといわば同じことなんです。
人間は人間として生きていければいいのに、あなたがあなたのように生きればパーフェクトなのに、
子供を愛さない親はいませんが、子供を愛しているがゆえに願いを持っています。
しっかり勉強して、いい学校に入って、いい会社に就職して・・・社会のためになる人になってほしいと、
しかしその度が過ぎたり、あるいは欲望からくるものならば、それを受け続ける子供は病んでしまいます。
どうかしましたか?

30 :THE グル:2006/11/15(水) 14:03:24
>>24
いいですか、
グルは「愛」を生きています。
ですから、悩みなんてのは無いわけです。
愛という言葉は青い鳥のように追いかけるものではないんです。
自らの内にあって感じるものなんです。
これが今では定説です。
どうかしましたか?

31 :考える名無しさん:2006/11/15(水) 14:13:50
>>24の言っていることに近いが。
グル氏は自分好みの「愛」を定義して、そこから外れたものは「私はそれを愛と呼ばない」と言っているだけだろう。
それは個人としての定義なら確かにいい。
だが他者に理解を求めるような、まして普遍性を主張できるような定義だろうか。
俺は「愛」と「エゴ」は別に対立も相反もしないと思うよ。

32 :THE グル:2006/11/15(水) 14:24:37
>>26
いいですか、
>ライオンやツバメはこのことに気付かないということですよね?
とおっしゃっておりますが、
これはある意味では正しいんです。
なぜならば、
ライオンやツバメは自らが生きる目的のためにだけ生き、
ライオンはライオンとして、
ツバメはツバメとして生きているからなんです。
人間のように人に好かれるために何かしようとして劣等感を感じたり、
愛を分かち合えないからといって泣いたりはしないわけなんです。
人間は理性を持っているが故に、
ほかのものに疑いをもって自分の存在と位置を確認したがります。
「なぜ生きているだ、どこから来てどこへ行くのか」という大きな疑問から、
「あのひとは私を理解してくれてない、
性格が合わないんじゃないか」という疑問だったり、
そうして色んなものと自分の差異を確認しながら、
自分が何者であるかを常に悩みます。
またときには、
自分が正しいと信じている「愛」を押し付けてしまうこともあります。
理性的であるがゆえに生まれ出ずる恐れや孤独、
人間とはこうした特別な存在であるために、
ライオンやツバメのようにはなかなか生きることができないんです。
これが定説です。
どうかしましたか?

33 :考える名無しさん:2006/11/15(水) 14:33:03
すべて受け入れろ!!

34 :考える名無しさん:2006/11/15(水) 14:35:07
すべてを受け入れるんだ!

35 :考える名無しさん:2006/11/15(水) 14:36:26
俺の野太いのを受け(ry

36 :THE グル:2006/11/15(水) 14:43:45
>>31
いいですか、
>俺は「愛」と「エゴ」は別に対立も相反もしないと思うよ。
とおっしゃっておられますが、
それは大きな間違いなんです。
といいますのも、
もし仮に「愛」と「エゴ」が近いものならば、
他者の「エゴ」をあなたにつきつけられても、
あなたはそれを幸福であると感じ、
「愛」であるかのように思うということと同じことだからなんです。
先ほども書きましたが、
親は子供を「愛」するがゆえに持っている当然の願い。
それがなぜ子供に伝わらないのか、それが親にはわからない。
その原因がそもそもその願いにあるのだということも。
願いというのは親として当然じゃなく、「エゴ」なんです。
「お願いだからそんな職業に就かないで。」「そんな人と付き合わないで。」
「こんな人と付き合って。」それらはみんな親の「エゴ」なんです。
でもそれをやめろというと、
「私がこれほど言っても聞かないのに、これ以上言わなかったらますます悪くなる一方じゃない。」
それはおっしゃる通りですが、
「愛」と「行為」が違うように、
「愛」と「エゴ」も違います。
願い(「エゴ」)を押し付けるものは「愛」ではありませんし、
自分の「エゴ」の通りに無理やり子供を育てるならば、
表面的には良いかもしれませんが、
いずれは必ず失敗しますし、子供が病気になってしまうんです。
これが今では定説です。
どうかしましたか?

37 :考える名無しさん:2006/11/15(水) 15:00:14
>>36
ええとですね。
エゴの押し付けが相手に幸福と感じさせない場合を理由に愛とエゴを区別しているようですが、
「愛」というもの自体必ずしも相手を幸福しないとわたしは思います。
あなたが愛と呼ぶものはあまりにも神聖で理想的な「愛」ですが、わたしはそれを愛の一形態としか考えません。
愛する、愛を与えるというのはすでに「行為」であり、
また愛を与えることによって相手が幸福になることを望んでいるならば、それはすでに「願い」です。
あなたはエゴや願いにも良いものと悪いもの(道徳的にですが)があることを忘れている。
愛と行為は明確に分離しえない。
愛と願いも明確に分離しえない。
他者愛とエゴも明確に分離しえない。
わたしはそう思います。

38 :THE グル:2006/11/15(水) 15:40:48
>>37
いいですか、
>「愛」というもの自体必ずしも相手を幸福しないとわたしは思います。
とおっしゃっておられますが、
相手を不幸にするものの名前を「愛」とは呼ばないんです。
それは即ち、
「エゴ」に過ぎないからなんです。
先ほどの親の例で行きますと、
親は「願い」を「愛」あるゆえのものであるとして疑いません。
そしてその通りに子供が生きることが、
その子供の幸せであると心の底から思っています。
ここにおいて「行為」は親の「愛」であると混同されます。
多くの人は自分のそうした「行為」を「愛」として数えてしまうんです。
しかしながら、
「行為」はプレゼントに過ぎませんから、
お返しをしなくてはなりません。
誠実な人であれば誠実な人であるほど、
何かを受け取るということはつらいことですし、
「愛」と「行為」の区別が付かずにますます自分をわからなくしてしまうんです。
その典型的な例が親子関係です。
親と子供の思いが食い違ったりするのはなぜか、
両方がわかってくれないと言って悩んでいる。
その根っこが「愛」なのにもかかわらず。
親が子供に「エゴ」を無理に生きて行かせても、
カエルの入った水桶を徐々に熱していくと、
死ぬまでご機嫌に泳いでいるように。
じわじわ本人も気付かぬうちに疲れ、
気付いたときには病気になっていたり、動けない自分がいるんです。
これが今では定説です。
どうかしましたか?

39 :考える名無しさん:2006/11/15(水) 15:44:06
↑天才

40 :考える名無しさん:2006/11/15(水) 16:08:53
>>38
何故、相手を不幸にするものを愛と呼ばないのか。それがわたしには分かりません。
それは「愛とは神聖なものだ」という根拠なき前提がなければ成り立ちません。
親の願いは、エゴだけでもなければ愛だけでもありません。
愛とエゴが入り混じったものです。
二極化はその中間にあるものを見逃します。

41 :あのね:2006/11/15(水) 21:00:05
愛(見返りを求めないただ与えるだけ)ってわからないかなぁ?

よし もうちょっと待ってみよう


42 :考える名無しさん:2006/11/15(水) 21:16:05
ところで>>32は、ライオンやツバメになったことあるの?

43 :THE グル:2006/11/16(木) 09:59:30
>>40
いいですか、
>何故、相手を不幸にするものを愛と呼ばないのか。それがわたしには分かりません。
とおっしゃっておられますが、
もし仮にそうであるならば、
ストーカーの行為もまた「愛」であると言っていることと同じことなんです。
そして、
それを理解しないいわゆる被害者のほうが「愛」に気付けていないだけであると、
しかしながら、
それは「愛」ではありません、
これは「愛」に含めてはいけないんです。
独善的な「行為」すら「愛」に含めてしまうならば、
他者の「エゴ」を拒否することすら否定せねばなりません。
それは最早、
ただ相手の「エゴ」に従属することでしかなく、
自らのアイデンティティを見失いかねない恐れすらあるんです。
また、
>二極化はその中間にあるものを見逃します。
と言われておられますが、
これは大きな間違いなんです、
この原因は、
それらのどちらか一方が強まればどちらかが弱まるといった、
共変関係を「愛」と「エゴ」の相補性にあると勘違いしたことから起こるものでありまして、
それら自体は此岸と彼岸の関係のものなんです。
これが今では定説です。
どうかしましたか?



44 :THE グル:2006/11/16(木) 10:05:12
>>42
いいですか、
>ところで>>32は、ライオンやツバメになったことあるの?
とおっしゃっておられますが、
もちろんグルは、
ライオンやツバメになったことはないんです。
ですが、
私達は彼らが持っていない理性を持つがゆえに、
彼らの境遇を忖度することができるんです。
もし彼らが、
我々と同様に理性によって自分の境遇に疑問を抱くなら、
彼らもまた、
自らの内に悩みを持ったことでしょうがね。
どうかしましたか?

45 :考える名無しさん:2006/11/16(木) 13:44:43
>>43
あのですね、なぜ他者のエゴを拒否することすらしてはいけなくなるんですか?
相手を不幸にする愛もあると仮定するならば、そういう類の愛は拒否するべきと考えるのが当たり前でしょう。
「どのような愛でも全て受け入れるべき」などという前提を作った覚えはありません。
だいたいそれは道徳的に「それをしてはいけない」と言っているだけです。
ストーカーが持っているのは自己愛です。
それゆえに愛の一種です。
愛とエゴの関係については説明不足だったので補足します。
あなたは「愛」と「行為」を区別しますが、現実において人はどう行動するべきか選択し続けなければなりません。何もしないということすら選択肢の一つなのですから。
しかし人は神でないので未来は分かりません、自分が最善と思ってやった行為が必ずしも最善の結果を出すわけではない。
人には相手の気持ちが分からない。
ただ、「こうじゃないかな?」「きっとこうだ」と予想するのみです。
母親と赤子で例えてみましょう。
まず赤子が泣く。赤子は乳が欲しいのかもしれないし、おもらしをしてしまったのかもしれないし、単に寂しくなっただけかもしれない。
泣き声を聞きつけてやってきた母親は何をすればいいのか?
何をすれば赤子が泣きやむのか?
赤子の本当の気持ちが分からなくても、何かしなければいけないので可能性の高そうなことを予想し、行動する。
その結果が正しかろうと間違っていようと、「それはエゴの押し付けだ。何故なら行為はエゴだもの」
とあなたは言う。
確かに、愛というものが神々の世界にしか存在しないものならばそうなのかもしれません。
しかしそうだとしても赤子を泣きやますためにはエゴを押し付けなければいけない。わたしはそのエゴを否定しない。
そういったエゴの押し付けを重ねる末に「エゴの押し付け=愛」と勘違いしてしまう母親も確かにいるでしょう。
しかしそれは母親が悪いだけで、エゴそれ自体が悪いわけじゃない。
愛と願い、行為、エゴは明確に分離しえないとわたしは言いました。
それは人間の不完全さゆえです。
わたしにはあなたのいう愛が神聖すぎてこの世に存在しないような正三角形に見えます。
ただ正三角形と違うところは、あなたはあなたが唄う愛以外を「それは愛ではない」と切り捨てるところです。

46 :考える名無しさん:2006/11/16(木) 14:10:37
言葉の定義をあいまいにしたまま話を続けてもロクなことがないということのいい見本だな。

47 :考える名無しさん:2006/11/16(木) 14:59:56
>>45
>愛と願い、行為、エゴは明確に分離しえないとわたしは言いました。
>それは人間の不完全さゆえです。
いいですか、
なぜ、人は不完全なのか?そこが問題です。

48 :考える名無しさん:2006/11/16(木) 15:12:59
>>47
不完全という言葉は、「神のような存在と比べると不完全」という意味で使いました。
人間は未来のことが分かりません。
相手の気持ちが分かりません。
ただ予想するのみです。
最善の結果を期待して行動しても最善の結果が出せるかどうかは分かりません。
それゆえに不完全、と説明したつもりでした。

49 :考える名無しさん:2006/11/16(木) 15:52:31
>>43
いいですか、
愛には自己愛と人間愛と言う、全く相反する異質な愛が有るんですよ。
それを感じ取れないと愛を語れないんですよ。
どうかしましたか?

50 :考える名無しさん:2006/11/16(木) 18:43:29
>>一番あほな人
相反しない。

51 :考える名無しさん:2006/11/16(木) 19:13:43
>>43>>49の最低辺決戦を望むのは俺だけではないはずだ。


52 :49:2006/11/16(木) 19:40:07
>>51
いいですか、
論議は勝ち負けに拘る、と言う低い次元は必要が無いんですよ。
正しさを決めるのは他人ですからね。
どうかしましたか?


53 :考える名無しさん:2006/11/16(木) 21:42:26
>>52
まあ確かに勝ち負けに拘ってたらそんなに負け続けられないよな。

54 :考える名無しさん:2006/11/18(土) 01:09:17
いいですか、
勝つことは他を負かす、他に痛みを与えることですね。
負けた方の痛みを思うと勝つことの心の痛みを感じませんか?
人生は勝ち負けに拘らず、マイペースでゆったりと暮らしましょうよ。
何も憎むこともなく、自然体でね、
どうかしましたか?



55 :THE グル:2006/11/18(土) 02:26:06
>>45
いいですか、
>あのですね、なぜ他者のエゴを拒否することすらしてはいけなくなるんですか?
とおっしゃっておられますが、
あなたは>>40において>>38を否定する形で、
>何故、相手を不幸にするものを愛と呼ばないのか。それがわたしには分かりません。
とおっしゃり、
また、
>親の願いは、エゴだけでもなければ愛だけでもありません。
>愛とエゴが入り混じったものです。二極化はその中間にあるものを見逃します。
とおっしゃいました。
即ち、
あなたは、相手を不幸にするものすら「愛」に含めたことによって、
>>38でグルが批判した親の「エゴ」による一方的な願いが、
子供を苦しませることすら「愛」と呼んだことになります。
だからそれが正しいならば同じ理由から、
ストーカーの行為もまた「愛」であると言っていることと同じことであり、
独善的な「行為(エゴ)」すら「愛」に含めてしまうならば、
他者の「エゴ」を「エゴ」だからという理由で、
拒否することすら否定して「愛」であると首肯してしまうことになり、
そうした「愛」に「エゴ」を含めることはナンセンスであるといっているんです。
それから、
>ストーカーが持っているのは自己愛です。 それゆえに愛の一種です。
と言われておりますが、
これはグルが最初からしてきたように「愛」の本質について言及しているのに対し、
あなたは一つ次元の大きい枠で論じていることから起こる勘違いなんです。
自己愛は愛という言葉がつくからといって「愛」と同じ次元で論じ様となさってますが、
それはまるで人間と猿の本質的な違いについて論じているのに、
いやそれらは同じ霊長類に含まれるのだと指摘するのと同じことなんです。
これが定説です。
どうかしましたか?

56 :考える名無しさん:2006/11/18(土) 03:00:40
↑杜玖椀も知らないソカ厨wwww発狂wwwwww

57 :THE グル:2006/11/18(土) 03:01:41
いいですか、
さらに補遺として、
>>45の後半部についても指摘しておくんです。
ここでのあなたの勘違いは、
「行為」と「行動」の混同なんです。
それはこの部分、
>あなたは「愛」と「行為」を区別しますが、現実において人はどう行動するべきか選択し続けなければなりません。
>何もしないということすら選択肢の一つなのですから。
とこの部分、
>赤子の本当の気持ちが分からなくても、
>何かしなければいけないので可能性の高そうなことを予想し、行動する。
>その結果が正しかろうと間違っていようと、「それはエゴの押し付けだ。何故なら行為はエゴだもの」
>とあなたは言う。
あなたはただ単に「行為」を「行動」に読み換え、
サルトル的実存論で自己決定において「行動」なしにはありえないことから、
「行動」があるなら=「行為」がある=「エゴ」なんて図式で論じてらっしゃいます。
グルがこのスレで「行為」とあえてカギ括弧で括って使い続けてきたのは、
それはただ単に行動としての行為という意味ではないと強調するためなんです。
それは今までの文章を正しく読んでいただければ、
単に「行為」イコール「行動」で論じてはいないことがわかると思うんです。
どうかしましたか?

58 :THE グル:2006/11/18(土) 03:15:05
>>46
いいですか、
それは、
もっともなご意見ですね。
相手のリテラシーの能力に期待を置き過ぎると、
時に認識の差がおきたりするので困ることがあるんです。
また、
なるべく平易に論じようとするのが、
かえって蛇足的な文章が増え誤解を生むときもあり、
逆に、
カチカチの文章では読み手を選びますからね。
これはなかなか難しい問題なんです。
どうかしましたか?

59 :THE グル:2006/11/18(土) 03:27:17
>>49
いいですか、
>愛には自己愛と人間愛と言う、全く相反する異質な愛が有るんですよ。
とおっしゃっておられますが、
それらは、
確かに大きなカテゴリーとしての愛には含まれるでしょう。
しかしながら、
それはグルが一貫して論じてきた本質としての「愛」、
あるいは「愛」の本質とは同時に論ずることができないものなんです。
また、
さらにカテゴリーをどんどん広げていけば、
おっしゃるような自己愛も人間愛も、
あるいは愛と名の付くものはすべて含めることができるでしょうが、
その大きな枠では本質というものを論じるときには不適当に大きすぎます。
なぜならば、
本質を語る上で大事なのは「愛」の分析的視点であって、
「愛」の拡大解釈ではないからなんです。
ですから、
なるべく余計なものはふるい落としていき、
小さなカテゴリーで論ずることが必要なんです。
どうかしましたか?


60 :あのね:2006/11/18(土) 04:05:53
>>5について論じてもらえませんか THEグルさん

61 :THE グル:2006/11/18(土) 04:51:18
>>60
いいですか、
では、>>5について語ってみるんです。
ですがその前に、
グルの語ってきた「愛」の本質についての言及と、
まぜこぜになさらないことに留意あるいは注意してもらうことを前提とするんです。
>愛って、見返りを求めないただ与えるだけっていうよね。
>このこと、経験的に知ってる人いないかなもちろん哲学的でもいいけど。
とおっしゃっておられますが、
もしこれをアガペー的無条件の絶対愛のことだとするならば、
それは人間には実践不可能であるから、
経験的に知っている人はいないことになります。
これは前にもどこかで論じたことがあるのですが、
サルトルに依るならば、「実存は行動に先立つ」のであって、
なにかを行動しようするときにその前にすでに心では、
それについて知っている(決定されている)ということでありまして、
相手がこうすれば良くなる、喜ぶという行為、
それはそうすることが良いと知っていて、それは相手からも賞賛されることであることを前提条件とした、
自己満足を満たすための行為に究極的にはなってしまうからなんです。
このことは、ピアジェが言うところの、
人間にはシェーマがあるという考えからも分かります。
それは、次に何をする次に何をすると常に判断・決定し続けているということに他なりません。
だから自己にとって”よい”とするものしか、
実は行動していないといってしまっても必ずしも間違いではなく、
他者のための自己犠牲すらもそれをすることが相手にとって良いし、
自分にとってもそれは評価されるべき”よい”ことであると理解していなければ起こりえません、
ですから、誤謬を恐れずに言うならば、もし完全な無条件的愛を行えるのは、
シェーマを持たないロボットのようなものにしか行い得ないかもしれません。
他人が嫌だと言ったら無条件に停止することでしか自分を含まないものはないのかもしれないんです。
それは非人間的なものに聞こえますが、
そう感じてしまうのは人間がやはり”よい”を基準に考えてしまうことの証左でもあるのかもしれませんね。
どうかしましたか?

62 :考える名無しさん:2006/11/18(土) 05:07:26
>>55
>子供を苦しませることすら「愛」と呼んだことになります。
なりません。
「相手を不幸にする愛もある」と仮定しても、
相手を不幸にする=愛
には論理的になりません。
それにわたしは別にエゴを拒否することを否定していません。

要点と思ったところだけに反論させてもらいます。
あなたは愛の本質について語っている。
が、自己愛は別次元、つまり自己愛は愛の本質ではないと考えている。
ですがわたしは自己愛こそがあらゆる愛の本質だと考えています。
それゆえに「的外れな指摘」という指摘自体が的外れだと言わざるおえません。
「いや、それは同じ霊長類だ」
という指摘は正しい。
人間とは何か?霊長類の一種です。
自己愛とは何か?愛の一種です。
他者愛とは何か?それもまた、愛の一種です。
あなたは「愛」について語っているはずなのです。
他者愛のみについて語っているはずでも理想的な愛のみについて語っているはずでもありません。
理想的な愛のみについて語っているならばそもそも>>31のようなレスはしません。
理想的な愛をただ「愛」と呼ぶこと自体がナンセンスです。

63 :考える名無しさん:2006/11/18(土) 05:09:38
>>57
すみませんがまるで分かりません。
「行動」と「行為」をどういう意味で区別して使ったのか教えてください。

64 :THE グル:2006/11/18(土) 06:01:34
>>62
いいですか、
>「相手を不幸にする愛もある」と仮定しても、
>相手を不幸にする=愛には論理的になりません。
とおっしゃっておられますが、
それは大きな間違いなんです。
なぜならば、
そもそも相手を不幸にする「愛」はないからなんです。
それをあなたは自己愛というおおきなカテゴリーから批判している。
これは、
自己愛には「愛」と「エゴ」が入り混じったものと認識しておられるからかもしれませんが、
この時点で要因が2つ内包されていることになり、
「愛」そのものを「エゴ」と比較したカテゴリーの次元より一つ上の次元のものなんです。
分析してゆく過程において大事なのは、
今どの次元同士で論を組み立てているかです。
次元の違うカテゴリーを持ってきて比較すれば、
馬=生物、人間=生物ならば、
馬=人間というよくある論理的パラドクスになってしまいます。
当然生物というカテゴリーには馬も人間も含まれますから、
同類項に括れるのは当たり前で、これは分析したことにはなりません。
ですが同じ次元なら、
5+4=9
7+2=9
ゆえに5+4=7+2ということは可能です。
ですから、
勝手に次元を変えたカテゴリーを持ってきて批判なさるのはこの場合無意味なんです。
どうかしましたか?

65 :THE グル:2006/11/18(土) 07:26:49
>>63
いいですか、
>「行動」と「行為」をどういう意味で区別して使ったのか教えてください。
とおっしゃられておりますので、
もう少し簡単にご説明差し上げるんです。
先ほど来、述べてきましたように、
「行為」が「行動」とイコールならば、
それはただ単に行動とイコールになりますから、
行動するなと言っているのと同じことになってしまいますが、
グルの言う、
「愛」とは区別されるべき「行為」は、
「行為」そのものが「愛」であると、
あるいは「行為」の内に「愛」は存在すると錯覚させるものでありまして、
それには「エゴ」が大きく関わっております、
即ち、
前にした例のように、
「行為」はプレゼントと置き換えることが可能なんです。
ですから、
誠実な人であればあるほど、
プレゼントされたらお礼をしなければならないように、
あるいは、
相手によっては受け取ることが苦痛なように、
それがたとえ贈る方の善意であっても、相手には負担になります。
このことはまた、
「行為」が「愛」とイコールではないということにも結びつくんです。
これが今では定説です。
どうかしましたか?

66 :考える名無しさん:2006/11/18(土) 13:57:24
>>64
ですから何故相手を不幸にする愛はないと言い切るんですか?
あなたはその根拠を最初から提示できていない。
ただ「相手を不幸にするものを愛と呼びたくない」と言い続けているだけです。

次元云々を言いますが、わたしは「愛」について語っているつもりです。
そしてあなたもそのつもりのはずです。
自己愛を馬、他者愛を人間、生物を愛と例えるのならば我々は生物を論じているはずなんです。
正直に言ってあなたは
「最初からわたしは理想的な愛のみについて語っていたんだ!」
と言いたいのかもしれない。
だとしたらそう言えばいい。
愛自体を定義することにも説明することにもなりませんが、少なくともわたしの反論は無意味になりますよ。

>>65
結局どこが違うのかよく分かりません…。
行為はエゴであるが、行動は必ずしもエゴではないというような違いですか?
そもそも相手が苦痛になることを理由に行為は愛ではないと結論していますが、
それは行為が最良の愛の形ではないだけだと思います。
ほんの少しでも誤りがあればそれはもう愛ではないのですか?
わたしはそうは思いませんね。
あなたの意見は全体的に極端化が過ぎているように思えます。
あなたは「誠実」な人ほどプレゼントを貰うと苦痛になるという。
それは少し違います。
誠実で、尚且つ相手を愛していない人がプレゼントを貰うと苦痛なのです。
行為がエゴであろうと行為によって愛は伝わります。
それはどう説明しますか?あるいはその愛を錯覚と言いますか?

67 :THE グル:2006/11/18(土) 14:40:48
>>66
いいですか、
>ですから何故相手を不幸にする愛はないと言い切るんですか?
とおっしゃっておられますが、
これはもう何度も、
例を交えながらご説明差し上げてきたつもりですが、
もし仮に「愛」の本性に相手を不幸にするものさえ内包されるとするならば、
ある人からある人への一方的な独善的愛や利己的な愛すらも「愛」とされねばなりません。
ですがこれは「愛」そのものを語っているというよりは、
「愛」と”勘違いした”人たちの「行為」を語っていることでしかないんです。
また逆に問うならば、
あなたは何を根拠に相手を不幸にする「愛」があるとおっしゃっておられるんでしょうかね?
そうするとあなたは、
自己愛云々と、急にカテゴリーの枠の幅を変えて論じようとなさる。
これはまったく無意味な指摘でありますが、
それでも敢えて論ずるならば、
それは単に自己愛を「愛」と”勘違い”していることについての言及に過ぎないわけです。
それから、
>自己愛を馬、他者愛を人間、生物を愛と例えるのならば我々は生物を論じているはずなんです。
なんて言っておられますが、
これはもう無茶苦茶ですね、あなたの読解力を疑ってしまうんです。
間違いの一つは、
馬=生物、人間=生物、ならば馬=人間というパラドクスは、
論として成り立たない例として挙げているのにそれに当てはめようとしてしまっていること、
もし当てはめるならば、>>64の後者の次元が同じもの同士で組み立てた、
数式の三段論法の例と同じモデルの方で提示せねばなりません。
さらにもう一つは、
あなたの言うように自己愛を馬、他者愛を人間、生物を愛と置き換えると、
自己愛=愛、他者愛=愛、ならば自己愛=他者愛となり、
矛盾以外の何ものでもないことが明らかだからなんです。
どうかしましたか?

68 :考える名無しさん:2006/11/18(土) 15:02:06
>>67
なんでおまえら「AはBである」を「A=B」と捉えてるの?頭悪過ぎ。

69 :考える名無しさん:2006/11/18(土) 15:04:06
>>67
愛というよりも愛の一種だと申し上げているんですよ。
「愛の一種」ではなく「愛と勘違いしたもの」になる根拠を言ってくれなければ答えになっていません。
自己愛が愛の一種でないとすれば何なのですか?
わたしは自己愛=馬、他者愛=人間、愛=生物と例えましたが、
生物=人間、馬と例えてはいませんよ。
読解力がないのはあなたの方ではないかと思わざるおえません。
同一法というものは
A=Bであり、尚且つBが「ただ一つしかない」場合のみ成立してB=Aになります。
あなたが三段論法の欠陥にわたしの例えを無理矢理当てはめようとしているだけです。
わたしが相手を不幸してしまう愛もあると仮定する根拠は、全ての愛は自己愛によって発生し、変容すると考えているからです。
自己愛ゆえの行為が相手を傷つけてしまうことはある。これは同意していただけますね?
それゆえに相手を不幸にする愛もあると仮定しています。
わたしとあなたは自己愛が愛の一種であるかそうでないかのみ論じるべきだと思います。
それ以外は些末です。

70 :THE グル:2006/11/18(土) 15:15:09
>>66
いいですか、
さらに続きとして、
>行為はエゴであるが、行動は必ずしもエゴではないというような違いですか?
とおっしゃっておられますが、
これはまったくの誤解でありまして、
なぜそこに行動を持って来るのかすら理解に苦しむんです。
そもそも当初から「愛」と「行為」について区別はしてきましたが、
「愛」と行動では論じてきてはおりませんし、
>>65において「行為」と行動が違うことも改めて申し上げたんです。
また、
>〜それは行為が最良の愛の形ではないだけだと思います。
>ほんの少しでも誤りがあればそれはもう愛ではないのですか? 云々。
と言われておりますが、
まずこの誤りが何を指しているのか分かりかねますし、
「愛」そのものを論ずる上で、
「行為が最良の愛の形ではないだけだ」と論ずること自体の意味を図りかねます。
それは即ち、
99パーセントの愛の形とは?70パーセントの愛の形とは?45パーセントの愛の形とはと、
無意味に主張するのと同じことなんです。
こうしたことは、最初から正しく読んでいただけるならば、
いかに無意味で的外れな主張であることが分かるんです。
それから、
>誠実で、尚且つ相手を愛していない人がプレゼントを貰うと苦痛なのです。
>行為がエゴであろうと行為によって愛は伝わります。
とも言われておりますが、これも大きな間違いなんです。
『相手を愛していない人』とはいったい何のことなんでしょうか?
ここの文の中にすでに愛が語られてしまっている(定義付けられている)ことが前提となっている。
また『行為によって愛は伝わります。』と一方的に思い込んでいるのに過ぎないことも、
既に回答済みなんです。
どうかしましたか?

71 :THE グル:2006/11/18(土) 15:23:17
>>68
いいですか、
グルは、
馬イコール生物、人間イコール生物、馬イコール人間の例を、
間違った三段論法の例として、
そして、パラドクスであることを前提で論じているんです。
どうかしましたか?

72 :考える名無しさん:2006/11/18(土) 15:25:30
>>71
はい、あなたの頭がどうかしております

73 :考える名無しさん:2006/11/18(土) 15:29:07
>>70
あなたは行為の語義を説明するだけで、行動の語義は説明してくれません。
ですからわたしには行為と行動の明確な違いが分かりません。
それゆえに的外れな推測をしてしまったようですいません。
行為と行動の語義、そして両者の違いをご説明願います。
確かに「愛」だけを説明するならば、行為云々について語る必要はありません。
しかしあなたは行為を理由に愛とは何かと結論付けようとする。
それゆえに行為とは何か?という議論も必要なはずです。
何か間違ったことを言っていますか?

「愛」を論じているのに先走って「相手を愛していない人」と表現してしまったのは完璧にわたしの非です。
すいません。
「行為によって愛が伝わる」という言い方も不味かったです。
正しくは「行為によって愛が伝わることもある」です。
同様に、あなたは行為によって愛が伝わらない“場合”を理由に「行為が愛を伝えるという考えは一方的な思い込みに過ぎない」と結論付けていますが。
正しくは「行為によって“必ずしも”愛は伝わらない」という答えしか導き出せません。
やはり極端化が過ぎているように思います。

74 :THE グル:2006/11/18(土) 15:40:08
>>69
いいですか、
>愛というよりも愛の一種だと申し上げているんですよ。
>「愛の一種」ではなく「愛と勘違いしたもの」になる根拠を言ってくれなければ答えになっていません。
>自己愛が愛の一種でないとすれば何なのですか?
とおっしゃっておられますが、
それは愛という単語がつけば、
なんでも愛の一種であると言い、愛だと主張なさっているのと同じに過ぎません。
ですが、
そうしたことは本質とはまったく関係のないことなんです。
また、
「愛と勘違いしたもの」になる根拠はもう何度も例を交えて繰り返し述べていますように、
要点だけ申しますと、それがプレゼントである「行為」かどうか、
あるいは「エゴ」によるものなのか否かなんです。
それから、
>わたしは自己愛=馬、他者愛=人間、愛=生物と例えましたが、
>生物=人間、馬と例えてはいませんよ。
といわれておりますが、
それならばあなたは>>64の三段論法の例の趣旨を最初から理解していないと言わざるを得ないんです。
それに付随して、>>66でのあなたの言及、
>自己愛を馬、他者愛を人間、生物を愛と例えるのならば我々は生物を論じているはずなんです。
自体が何を根拠に指摘しているのかさえ分かりかねます。
これは明らかに、>>64の馬=生物、人間=生物、ゆえに馬=人間を受けてのもののはずだからです。
どうかしましたか?


75 :THE グル:2006/11/18(土) 15:45:16
>>72
いいですか、
それは残念ですね。
どうかしましたか?

76 :考える名無しさん:2006/11/18(土) 15:52:58
>>74
別に愛という語がつくから自己愛を愛の一種としているわけではありません。
何度も言っているように自己愛こそが愛の本質と考えているからです。
それがエゴであるかどうかと言いますが、
あなたは「行為はエゴであり、相手を不幸にするから愛ではない」と言い、
「相手を不幸にするものは愛ではない。何故なら相手を不幸にするものはエゴだから」
と同じことを言っているだけです。
結局「愛と勘違いしたもの」になる理由にはなっていません。
例の趣旨も何も、最初からあなたの例自体が的外れなんですか。
「馬=人間になってしまうからおかしい」と言われても、
「そうですね、だからそうにはなりません。三段論法には欠陥があります」としか言えません。
生物を論じているとする理由は生物を愛と例えているからです。
意味不明なことを言い出さないでください。

77 :THE グル:2006/11/18(土) 16:26:28
>>73
いいですか、
>行為と行動の語義、そして両者の違いをご説明願います。
とおっしゃっておられますが、
ではさらに分かりやすくご説明差し上げるんです。
まず前提として、グルがあえてカギ括弧で括っているものは、
テクニカルタームとして扱っているものなんです。
ですから、カントの使う「批判」が一般的に使う批判と意味を異にするのと同じように、
区別して使っているんです。ですから「行為」と行為はコンテクストが異なります。
そのためいくつか例を出したり、
どういうコンテクストを持つのかをなるべく明確に説明することにしているんです。
それらを踏まえたうえで、行為と行動について言及するならば、
行動には行為”しない”も含めて内包することができるがゆえに、
行為よりももっと大きな枠組みと捉えておりますから、
行動については特に言及はしていないんです。
では、行為と「行為」の違いは何かと言えば、
後者には「プレゼント」と置き換えることができるという意味を持たせているんです。
また、「愛」即ち、本質としての「愛」に対するものとして、
「エゴ」に依るものとしての「行為」を意味づけているんです。
それから、
>正しくは「行為によって“必ずしも”愛は伝わらない」という答えしか導き出せません。
とありますが、これもちょっと違うんです。
「行為」はどういう形であれ、また意識しているとしていないにかかわらず相手に強いるものなんです。
お礼だったり、貸しを作ったという気持ちであったり、気持ちに答えねばならないという考えだったり様々です。
まったく気持ちがない「プレゼント」なんてありませんから、
それを受け取る方には大なり小なり負担になるんです。
そして前に挙げたカエルの例の結果が関連してきます。
また、あなたの言われる「行為によって愛が伝わることもある」は、
「プレゼント」なしには伝わらない、あるいは俗に言うなら「プレゼント」で繋ぎ止める愛の存在も内包しますが、
それって「愛」の本質なのかということになってしまいますから、
「行為」は「愛」ではないと明確に分けているんです。
どうかしましたか?

78 :THE グル:2006/11/18(土) 16:58:57
>>76
いいですか、
>何度も言っているように自己愛こそが愛の本質と考えているからです。
と言われておられますが、
「愛」の本質が自己愛であるならば、
他者を自己愛で染めていこうとすることも許容してしまいます。
それを世界の人々が実践するならば、
やりたい放題を許容することに他なりません。
また、
個々人によって自己愛の対象は異なりますから、
時には他者と自らの自己愛同士、
あるいは方向性や価値観の違いから激しく対立することもあるかもしれません。
ですが、
それら自己愛が「愛」の本質になりえるかといえばそうではなく、
「愛」という名の「エゴ」を主張し続けているだけに過ぎないんです。
確かに「愛」には主体となる自己が必要ですから、
自己は存在しますし、自己愛もあるでしょうが、
だからといってそれが「愛」そのものの本質ではないんです。
また、
>あなたは〜結局「愛と勘違いしたもの」になる理由にはなっていません。
と言われておりますが、同じことを言っているだけではなく、
同じ様なことを何度も聞かれて、
ご説明しているのだから当然同じような回答になるんです。
そして、
グルが>>64で出したやってはいけない三段論法の例は、
あなたご自身が、
次元の違うもの同士で無理やり論じてみたり、
勝手にカテゴリーを変えて論じてみたりとなさっておいででしたので、
次元の違うカテゴリーで括って論じることがいかに無意味かを指摘する意味で用いているんです。
どうかしましたか?

79 :考える名無しさん:2006/11/18(土) 17:01:43
毎週教会に行って愛を説かれているクリスチャンが
戦争と言う人殺しを平気で出来るのは何故か?
是非ご教授願いたい。

80 :THE グル:2006/11/18(土) 17:32:24
>>79
いいですか、
残念ながら、
クリスチャンでないので本当のところは分かりかねますし、
また、
この戦争というのも宗教戦争なのか、
侵略に対する自衛戦争なのか、
どういう種類の戦争についてなのか分かりませんが、
まあ、
アウグスティヌスやエックハルトの認識や
スピノザが言うように、
「神への愛は同時に人間に対する神の愛」であって、
その愛すべき人間の集まりである家族、国家ひいては神の安全を及ぼすものがあれば、
それを愛すべき人たちとは分けて、
敵であるとみなすことによって大義を得ているからかもしれませんがね。
どうかしましたか?

81 :考える名無しさん:2006/11/18(土) 17:59:07
>>77
大変分かりやすい説明をありがとうございます。

「プレゼント」なしには伝わらない愛と言いますが、
「行為」なしに伝わる愛があるのでしょうか?
「行為」なしでは伝わらない愛が愛の本質ではないならば、
「行為」なしに伝わる愛が愛の本質なのでしょうか?
あるいは愛とは本質的に相手に伝わらないものなのでしょうか?

82 :考える名無しさん:2006/11/18(土) 18:11:44
>>78
>他者を自己愛で染めていこうとすることも許容してしまいます。
いいえ、そういう意味で言っているのではありません。
「自己愛が本質だが、高度な道徳によって共同体向けに進歩したもの」が他者愛と考えています。
暴力とスポーツに隔たりがあるように、自己愛と他者愛にも隔たりがあります。
スポーツの本質は暴力だからといってルールは無視できません。

>「愛」という名の「エゴ」を主張し続けているだけに過ぎないんです。
何故そう結論付けるんですか?
この際訊いてしまいますが、あなたにとって愛の本質とは何なんですか?

三段論法の例が持つ趣旨は理解しました。
しかしわたしは異なる次元やカテゴリーで論じたつもりはありません。

が、これは泥沼にしかならないので三段論法云々についてはもう止めましょう。

83 :THE グル:2006/11/18(土) 18:53:30
いいですか、
>>80で、
>国家ひいては神の安全を及ぼすものがあれば
と書きましたが、
これは打ち損じでありまして、
正しくは、
>国家ひいては神の安全を脅(おびや)かすものがあれば
なんです。
ここにおわびして訂正しておくんです。
どうかしましたか?

84 :THE グル:2006/11/18(土) 19:19:37
>>81
いいですか、
>「プレゼント」なしには伝わらない愛と言いますが、
>「行為」なしに伝わる愛があるのでしょうか?云々。
とおっしゃっておられますが、
先ほども軽く触れましたが、
「行為」しないということは、
行動をしないということではありません。
だから、「行為」する行動をしないことのなかに「愛」を感じることができる。
それが本当の「愛」であるというわけです。
あるいはもらう方が、
受け取らないでいられる状況をつくらねばなりません。
親子関係においては、
ときに親は愛するがゆえに持つ「願い」を、
子供に押し付けて子供を苦しめてしまうことがあります。
あるいは、この「願い」は「行為」と置き換えてもらってもかまいません。
親はそれを「愛」だという、
ですが子供には負担になり得てしまうものなんです。
じゃあ、親には「行為」しないで「愛」を伝えることはできないかといえば、
そんなことはないんです。
親にしてあげられる唯一のこと、
それは子供が生まれてきた目的を生きられるようにしてあげられることなんです。
どうかしましたか?

85 :THE グル :2006/11/18(土) 22:38:54

いいですか、

チンチンシュッシュッ チンシュッシュッ

これが断言できます。

定説なんです。




86 :考える名無しさん:2006/11/19(日) 01:36:13
>>84
「行為」する行動をしない(という行動)のなかで「愛」を感じることができる場合というのが上手く想像できません。
具体的に例を提示していただけると助かります。

>あるいはもらう方が受け取らないでいられる状況
これもよく分かりません。
「プレゼント」がエゴになってしまうのは拒否したとしてもやはりそれが負担になってしまうからではないのですか?
「相手の善意を踏みにじってしまった」と罪悪感を覚えさせてしまうからではないのですか?
というかもらう方が拒否できる状況を作ればよいのなら行為自体が悪いわけではなくなると思うのですが。

子供が生まれてきた目的とは何なんですか?
子供が生まれてきた目的をどうやって親は知るんですか?
あるいは子供が生まれてきた目的は普遍的な何かなのですか?
生きるためには、生きられるようにするためにはあらゆる「行為」を押し付けなければいけませんけど。
「生きられるようにしてあげられること」は行為のような気がするんですが…。

87 :龍宮:2006/11/19(日) 07:00:59
今日は雨か

88 :考える名無しさん:2006/11/19(日) 07:55:00
愛というと何かベタベタした感じだな。押しつけがましくてウザったい。
偉そうな愛理論の中に自己中心的な甘えと他者への抑圧を隠している。
「礼儀」とか「尊敬」という言葉が気に入ってるよ。距離感がしっかり
あるから。
どうも愛というのは重苦しくて苦手だ。距離感が近すぎる。

89 :考える名無しさん:2006/11/19(日) 16:09:41
愛には距離が無い。それ故に愛は反面で盲目的な執着と憎悪を産み出す。
主体を融解させ主体同士を合一させて、子供のような甘えの心理を相互で
共有し、下手をすると破滅的な関係になる。愛は狂気である。
「礼儀」「敬意」「感謝」には距離があり、愛の盲目性と執着と憎悪を
回避する心である。主体と主体を融解させず、自立と依存のバランスこそ
が重要だとする中庸の心に大事を置く。愛の狂気はウザったいし気持ち悪い。
人が愛に狂うのは避けられないが、なるべくなら上手く避けたいもんだ。
テレビドラマも小説も心理学も教育評論家も歌も、愛の重要性ばかりを説かず、
「礼儀」「敬意」「感謝」をもっともっと説くべきだ。

90 :考える名無しさん:2006/11/24(金) 00:49:22
知的ルサンチマンに苛まれている不貞腐れたバカボンパパみたいなルックスの
初老リーマンが書き殴った酔っぱらいの戯言のごとき「思想批判」を
心の拠り所にしている人間じゃないと、たかだかセコ批判をかわすために
「イスラエル」問題を持ち出さないんじゃないかな。


91 :考える名無しさん:2006/11/24(金) 17:24:16
まぁなんだ

より

あーなんだ

92 :あのね:2006/11/27(月) 19:21:04
愛について一番知っているのは>>1だね。 愛は存在なんですよ。
ただ与えるだけのじゃなくて、愛とはその性質をはじめから持っているんです。
はじめから在るんです。

そのあと、なんやかんやと心が考える(思考)けどそんなのはどんなんでも出てくる。

愛を理解するには、愛の中にいなければならない。無償の愛を続ける中で、心が愛のために使うことを
考えていなければならない。
そうすると愛の全体像がみえてくる。 当然幸福がどういうものかも!!




93 :考える名無しさん:2006/11/27(月) 20:02:05
楽観主義と愚かさは紙一重だ

94 :考える名無しさん:2006/11/27(月) 20:32:53
愛は罪

95 :THE グル:2006/11/27(月) 21:26:46
いいですか、
全てを失って初めて人は愛に包まれるのです。
愛は滅法お高い代物なのです。
皆さんには高嶺の花なのです。
諦めてください。全てか愛のいずれかを。
いいですか、
私は愛を諦めました。

96 :考える名無しさん:2006/11/27(月) 21:42:02
いいですか?

戦法?

いつコンビニ店員のおまえは死ぬの?

97 :考える名無しさん:2006/11/27(月) 22:12:40
いいですか、
全てを失っても尚、暖かく迎えてくれるものそれが愛なのです。
何かを持っていると寄ってくるのは欲ばかりです。
欲は一見愛のようですが、何か失ってみると間抜けでもわかることですが、必ずどこかへ行ってしまいます。

98 :考える名無しさん:2006/12/03(日) 13:01:24
相手の存在を肯定すること
 それに比べれば学歴や成績や収入や性格や容姿などは小さなこと
 愛する相手が存在していてくれるならば

99 :考える名無しさん:2006/12/03(日) 20:54:19
「愛するから愛する」ただそれだけのような気がします。

100 :考える名無しさん:2006/12/03(日) 23:51:30
>>97
>全てを失っても尚、暖かく迎えてくれるものそれが愛なのです。

私は、
全てを失っても尚、暖かく迎えるものそれが愛なのです。
と思ったりもします。


101 :考える名無しさん:2006/12/08(金) 00:42:52
早乙女愛

102 :考える名無しさん:2006/12/09(土) 09:32:56
>全てを失っても尚、暖かく迎えてくれるものそれが愛なのです

そうすると愛は「全て」の中に入ってないワケだ、、、
それ「全て」と言わないんジャマイカ?

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真・スレッドストッパー。。。( ̄ー ̄)ニヤリッ

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