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【第二巻】信長の正室帰蝶・まむしの娘の謎

1 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 20:22:24
織田信長正室濃姫について語りましょう。
濃姫以外の話題はご遠慮ください。
資料にもとづく憶測、推測はOKですが、
たんなる希望的観測や妄想もご遠慮ください。
なお「〜マンセー」など、明らかな誹謗中傷の言葉を慎み、
荒らしはスルーでお願いします。
荒らされないためにsage進行で行きましょう。

前スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1159689153/

参考までに
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B0%E8%9D%B6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7

2 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 20:23:04
>>1
スレ立て乙です

3 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 20:24:22
関連

【美濃】斉藤道三について熱く語れ【マムシ】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1142326248/
悲劇の☆お姫様伝説☆
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1055001525/
姫さま総合スレ  in  戦国時代板
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150038398/
【道三の放った】濃姫(帰蝶)総合スレ【毒苺】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152424560/
織田勝長総合スレ
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1151724055/
美濃斎藤家
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150539318/
*  織田信忠  *
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1156156397/

4 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 20:26:43
テンプレつくるか…

5 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 20:27:08
♪わぁ〜い♪
濃姫を熱く語れる!
>>1さんありがとう!!

6 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 20:28:22
戦国板の濃姫スレに書き込んだ数スレ分コピペするか?

7 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 20:29:27
数スレ ×
数レス ○

8 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 20:29:33
それがいいかもね。>>6よろしく

9 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 20:32:24
わざわざ立て直すことも無かったのでは。。。

10 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 20:33:47
同意
無駄なスレを増やすなよ。

11 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 20:36:20
本スレはこちら

【信長】まむしの娘及び松姫の謎【信忠】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1161082051/

12 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 20:36:33
>>8
了解

>【道三の放った】濃姫(帰蝶)総合スレ【毒苺】
>106 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 Mail: sage 投稿日: 2006/10/17(火) 19:34:56 ID: OA7RbZMl
>しかし、史板の濃姫スレの>>998はかなり読解力がないか
>史実を知らないのだろうか?
>
>徳姫永禄2年誕生は史実だ
>生駒女永禄9年没も史実だと思われる
>短期間で死んでなんかいないんだけどな?
>それを指摘しているのに史板濃姫スレ>>996を読めというのは
>意味分からん。
>
>短期間で死んだと思われている理由も史板濃姫スレ>>992には
>書いておいたんだが、細かく言わなくては分からなかったのだろうか?
>
>武功夜話では
>吉乃は徳姫産褥後病に臥せっていた。
>小牧御殿が完成したので、吉乃に座敷を与えるから来いと言った。
>信長は吉乃の病を知らなかった。
>吉乃は信長の計らいで輿で小牧にきた。
>翌年ほぼ寝たきりのまま小牧で亡くなった。
>となっている。
>
>詳しい年代記述は亡くなった年だけなので、武功の情報を鵜呑みにすると
>産褥後の病を知らなかった期間なんて、長くて数ヶ月だろという風に思われている
>そのため、徳姫出産後すぐに亡くなったかのように言われているが、
>じつは7年も経ってから亡くなってる。
>すぐに亡くなった訳じゃないというのはそういう意味だ。


13 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 20:37:17
>107 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 Mail: 投稿日: 2006/10/17(火) 19:57:42 ID: JS8ZRxZW
>恐らく>>998の言いたいことは、武功夜話は歴史小説だから
>
>吉乃は徳姫産褥後病に臥せっていた。
>小牧御殿が完成したので、吉乃に座敷を与えるから来いと言った。
>信長は吉乃の病を知らなかった。
>吉乃は信長の計らいで輿で小牧にきた。
>翌年ほぼ寝たきりのまま小牧で亡くなった。
>
>のような吉乃に関する記述も嘘だよと言いたいのでは?

>108 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 Mail: 投稿日: 2006/10/17(火) 20:05:45 ID: JS8ZRxZW
>Wiki調べたらこういう記述があった。
>
>「前野家文書」においてすら、吉乃が徳姫出産後の産褥で重症に陥っているのを、
>信長が数年に渡り知らぬ程疎遠になっており、既に完成していた小牧城の御台御殿
>(主は小牧殿と記載されている、正室濃姫の事と推測される)に座敷を与えられ
>移り住んだ後になって、信長は足しげく見舞うようになったなどと記述されており
>
>武功夜話の元になった「前野家文書」だから、これまた信憑性に乏しいけど
>信長は数年吉乃を捨て置いたらしい。五徳を産んだ後産後の肥立ちが悪く
>褥辞退のまま数年間放置され、その後小牧城に移って数ヵ月後に亡くなった
>というなら話の辻褄はあうな。しかし数年間も信長が吉乃の病気を何年も
>知らないというのが、二人の関係を物語っているのに、なんで武功夜話では
>信長最愛の吉乃という話になるんだ?


14 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 20:39:21

>109 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 Mail: sage 投稿日: 2006/10/17(火) 20:06:01 ID: OA7RbZMl
>じゃぁ、>>998はなんですぐに亡くなったといったんだろうなぁ?

>110 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 Mail: sage 投稿日: 2006/10/17(火) 20:08:49 ID: OA7RbZMl
>>>108
>いや、wikiはおそらく、史実はこうだよと言いたいんだと思うよ。
>武功の中には数年捨て置かれた記述はない。
>武功では産褥で臥せっていた事を信長は知らなかったという記述だけ。
>そのWikiの記述は、武功でも数年に渡り捨て置かれた事がわかるのにねって話しが
>出るようになってから付け足されたものだから。


15 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 20:40:42
>>12>>14
乙!

16 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 20:44:47
重複スレ終了

17 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 20:51:40
それで質問ですが、以前のスレの視点から見たら
類(吉乃)の性格はどうなってくるんでしょう。
秀吉とY談したりする、某ブログに書いてあるような
お下品な性格なの?

18 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 20:54:49
武功には確かにそういう記述がある。
某ブログというと、多分あそこというのは分かるが
あそこは小説ネタとして武功に出てくる「キャラ」としての
吉乃を利用するのは面白いと書いていた。
「類」の事は分からないとも書いていたな。

実際には、某ブログで書いているように「類」の事は分からない。

19 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 21:03:17
>>17,18
ある意味晒しになるから特定のブログの事は出さない方がいいんじゃないか?

20 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 21:05:22
>>17 Y談とかのネタ元は武功夜話だからまったく信憑性がない。
性格に関する記述は資料等には皆無なので、憶測だけだけど、
当時の側室制度の常識だと、側室を管理していたのは正室だから、
濃姫が類の人柄や器量を認めて、信長の側におくことを許可しない限り
類は側室にはなれなかったはず。そう考えると類は濃姫が認めるだけの
女性であったろうから、家臣と軽口をたたくような品格のない女性とは
思えない。

類の実家の生駒家は信長の実母の土田氏と親戚関係にあり、血筋的にも
卑しい出自ではないし、一度武家に嫁いでいるのでそれなりの教養や
所作なども身に付いていたろう。

また信長の寵愛をかさにきて、実家の重用などを願い出ているふしもないし
(実際生駒家は信長の時代は武家としてなんの活躍もしていない)、
どういう事情かわからないけど亡くなる前に出家するなど、
子供を産んだ後には信長の側を離れているようなので、野心などもない女性
だったようだ。

武功夜話のような女性像は到底思い浮かばないが、かといって悪い印象も
思い浮かばない。出すぎたところのない、控えめな性格だったから
濃姫も類の子を養子にすることに抵抗がなかったのかなとも思う。

21 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 21:08:14
>>17 そもそも当主の側室と家臣が親しげに口をきいたというのも信じられない。


22 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 21:11:17
>>19をみると、類は自分の身分とか、地位とか
色んなことを弁えてた大人の女性だったのかな

信長が類を見初めたのか?それとも家臣?

23 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 21:12:45
>>21
納得

24 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 21:12:48
重複してんだろ 
お前らまじにいい加減にしろや。 
史板はお前ら専用板じゃね〜んだよ。ボケ

25 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 21:12:53
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26 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 21:14:31
依頼主が馬鹿すぎ

27 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 21:18:57
>>22 信長と生駒家のからみも信憑性のない話だとしたら、当時の慣習どおり
正室の濃姫が自分の代わりに子供を産んでくれるような手ごろな側室を探し、
それを信長に紹介し、信長がその女性を気に入った、という流れだと思う。

正室付きの侍女(実家に権力がない女性を意図的に選んだ)
などが多かったようだけど、当主がどこそこの娘を気に入っているらしいという
噂を聞いて、その娘を口説いてはべらせるようなこともしたらしい。
でもその場合でも素性や性格などを正室が認めてからだけどね。

戦国期は政治的なことから他家から側室を送り込まれることもあったけど、
信長はそういう側室はいなかったはず。全部濃姫の許可を得てはべらせて
側室だったと思う。

28 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 21:21:19
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29 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 21:23:04
>>1
スレタイが気に食わないくらいでイチイチスレ立ててんじゃねーよ
小学生のわがままかよw
削除依頼出して来い

30 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 21:24:42
13 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2006/10/17(火) 20:14:20
マジで松姫もいれんのか勘弁してください
史板濃姫専用スレたてていいか

14 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2006/10/17(火) 20:15:08
>>13 真面目なスレタイでお願いします。
こっちははきだめスレになりそうなんで。

15 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2006/10/17(火) 20:15:53
>>12 今までの松姫論で一番説得力がある。

16 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/10/17(火) 20:16:16
>>13
お願いします。
まともなスレ立てようとしたら、自分もホスト規制でたてられなかったので。


31 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 21:29:14
濃姫も嫁いで7年たっても子供ができないから、側室をすすめるようになったのかな。
それ以前に信長の意思で側室をもとうとか思わなかったのかな?
秀忠&江与のように恐妻に遠慮する夫という感じはしないけど。

32 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 21:33:26
自演が多いスレだな

33 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 21:35:39
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34 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 21:38:31
削除対象アドレス:
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1161084144/(>11で誘導済み)

削除理由・詳細・その他:
6.重複

35 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 22:05:00
>>31
一応信正がいるんだが、信正が本当に信長の子供だったかどうかは
不明なんだよな。
江戸後期の史料から出てくるし、位牌は一度焼失した寺で作りなおされたものらしいし。

36 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 22:09:09
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆注意☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

ここは重複スレです。
濃姫について語りたい人は↓の本スレに移動してください。

【信長】まむしの娘及び松姫の謎【信忠】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1161082051/

37 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 22:17:41
信正は信長の子供の扱いはされてないし、存在を示す資料すら残ってない。
信正の母親は正式な側室ではないからそういう扱いになったのだと思う。
側室として管理されてない女が産んだ子は信長の胤とは断定できないから。
一説によると、斎藤道三が存命中で濃姫に子ができないことから
舅に気をつかって庶子のことを公に出来なかったというけどね。
本当なら信忠より3才上の兄だったわけで、実母の出自なんて生駒氏と
さほど差がないから信孝→信雄以上に、信忠の存在を怨めしく思ったろうよ。


38 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 22:21:42
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆注意☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

ここは重複スレです。
濃姫について語りたい人は↓の本スレに移動してください。

【信長】まむしの娘及び松姫の謎【信忠】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1161082051/

39 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 22:26:18
削除依頼済

40 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 22:27:43
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41 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 22:28:26
ということは、類が正式に信長の側室になったのは
道三が死んだ後ということ?

7年子供ができなかったら、濃姫もさぞ家臣やら身内から
陰口を叩かれたんだろうなぁ。石女とか言われてたのかなぁ。

42 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 22:28:57
自演頑張ってwwwwwwwwwwwwwww

43 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 22:30:16
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆注意☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

ここは重複スレです。
濃姫について語りたい人は↓の本スレに移動してください。

【信長】まむしの娘及び松姫の謎【信忠】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1161082051/

44 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 22:37:05
>>35 信長の子供である可能性が高いと思っている。
信長の庶兄(信正とまったく同じ立場)の娘を正室にしているし、
違うということにしながらも、信長には大いに思い当たることがあったのでは?

信正の生まれた1554年は村木の戦いで道三から援軍をおくられるなど、
道三には恩があり、信正のことを伏せたいと思ったのかもしれない。

45 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 22:40:47
>>41 たて続けに子供を三人も産んだんだから、信長とお類の身体の相性は
かなりよかったろうから、それ以前から側室にあがっていたらぼこぼこ産まれて
いたと思う。信忠が産まれたのは道三の死後翌年だから、そのタイミングに
合わせ、さすがに濃姫も子どもをあきらめて側室をすすめたと考られるかな。


46 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 22:43:50
>>41 3年子なきでも信長もあえて側室を持つことを断行しなかったから、
濃姫が何回か妊娠、流産などを繰り返した可能性はあったのではないかな。
まだ夫婦ともに若かったし、道三のこともあって、できれば濃姫との
間に子供ができることを望んだのかもしれない。


47 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 22:54:15
7年つっても正式に披露したの結構後になってからじゃなかったっけ
世間的に披露は21歳ってどこかで見たんだけど
道三の娘だし、正式に披露するまでヤラせてもらえないと思う
正式披露が21歳だとすると信忠養子って不自然な気がするんだよね
家康は岐阜城を忌み嫌ってたというし、信忠を個人的に嫌ってそうだし
そっち関係で隠されたとかどうよ?

48 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 22:55:12
>>46 あと姫を出産したけど夭折した可能性もある。当時の乳幼児の死亡率は
50%以上。それなら家系図には残らない。

49 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 22:59:29
「若君」は生まれてないという記述があったんだったら、
姫君は出産してるかもしれないんだもんね。
成長してたら記録に残るかもしれないけど(嫁に行ったりして)
残ってないということは、やっぱり夭折か流産とかだったのかもしれん。

50 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 23:03:43
新スレおめでとうで覗きに来たけど
限りなく前スレと同じような書き込みばかり・・・

口開けだから仕方ないか。

51 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 23:04:13
>>47 それって「武功夜話」のここでしょ?

>>ここに目出度く道三入道の息女、帰蝶と上総介の縁組み相調い候。
御輿入れは、弘治乙卯年(元年)吉日の事。
上の郡の者御冥加にあずかり候。絶えて久敷、鶴舞い下り目出度く寿ぎ候なり。

弘治元年は1555年。濃姫が輿入れしてから6年たってる。
恐らく「武功夜話」では濃姫の輿入れ前に信長と吉乃がすでに相思相愛である
ということにしたかったから、歪曲したのだと思うよ。
濃姫の輿入れの年は別の資料からも1549年で、その年に正式な正室として嫁いでいる
というのが事実。

52 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 23:10:22
わー、武功か、スマン、うろ覚えの内容書いて
半年ROMるわ

53 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 02:21:36
>>47
>信忠を個人的に嫌ってそうだし

そういう、誰が誰を嫌ってたみたいな感情面を
憶測で言い出すとキリが無いと思わない?

54 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 02:37:47
濃姫、ねね、千代・・・
子供のできにくい女がまとまって登場したけど(大河ドラマ)、
みんな、ある程度豊かな階級だから、栄養状態が悪いって事じゃないはずだし、
昔は医療が発達してなかったから、
一度流産とかしてできにくくなったりとか、したのかな?

55 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 08:20:15
ねねも一度流産したという説がある。その他の側室では南殿は秀吉の子を
産んだけど夭折したという説もある。淀殿の最初の子も夭折してるから
側室の何人かは流産、死産、夭折、していたのではないかな?
まったくの種無しではないという確証があったので、淀殿の子供も
すんなり自分の子だ信じたと思う。でないとさすがに秀吉も怪しいと思うのでは?
それと淀殿はお市の血を引いて子供ができやすい体質だったいうのもあるかな。
江与なんてまともにその血を引いてるし。

千代は完全な憶測だけど、嫡男もいなかったのに側室を一人もおいていなかったので
一豊がコアな○モだったか、イ○ポだったのではと思ってる。病気や怪我でそうなった
のかもしれないけどね。よね姫の時は千代もあの手この手で頑張ったんだろうな…なんて
勝手な想像してます。

当時の乳幼児の死亡率の高さは身分に関係なくものすごく高くて、むしろ
農民あたりの方が生命力が強かっただろうと思う。伝染病が流行るとあっという間に
大人も亡くなったし、側室制度はそういうこともあって絶対必用だったんだろうね。

56 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 08:36:10
>>55 ありえるね。産まれてすぐに亡くなったらどんなに身分の高い家でも
墓もなく埋めるだけだったらしいし、当然家系図にも残らない。
秀吉が足軽時代の時ねねが何度か流産や死産、無事生まれても間もなく亡くなった
ということが何度かあっても記録すらないわけで、そうこうしているうちに
不妊症になったとも考えられる。

57 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 08:43:15
そう考えると、側室持つまで7年程あったと考えられる信長と濃姫は
そういう事を繰り返していたからこそ、側室を持つタイミングが
遅くなったと考える方が自然だな。

58 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 08:52:17
>>55 あれだけ先手先手の千代が一豊に側室をあてがわないのは不思議。
やはり一豊は・・・モホ衛門?

59 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 08:58:04
信長のねねにあてた手紙はいいよ。
直接的、間接的にねねの機嫌をとってる。
以前思い込んでいた信長キャラだとすごく意外だったけど、
信長が濃姫を京都に連れて行ったり、お祭りに連れて行ったり
濃姫の実母に会いに行ったりしているのがわかったから
奥さんの扱いも上手だから、やきもちのかわし方も上手かったんだろうな、
と今はねねに対する手紙はすんなり受け入れられる。

60 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 13:07:01
>>58
一応娘は一人いたし、千代が先手先手ってあれは大河の設定だろうが。
ただ側室を一人もいないってのは妙だな。
個人の性癖抜きにして男子を作るのは一家の主としての義務なのに
作らないってのはやはり重度の男色家か、負傷もしくは比較的若いうちに
怪我が原因で不能になった可能性はあるな。
上杉謙信も若いころの負傷で不能になったという伝承もあるし。

61 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 14:03:02
>>60 
側室いない=正室への愛が強い、とは一概に言えないのかもね。
信長のように正室に男子がいなければ側室に産ませ、それを正室に
与えて正室の地位を安定させてあげるのが、戦国武将の正室への
愛情の証でもあるのかなと思った。

千代は後年一豊の実弟の子供を養子にしたけど、できれば側室が産んだ一豊の子を
養子として山内家の嫡男として育てたかったろうに、
それすら出来なかったのだから、一豊に男性機能不全などの原因があったのかもね。

62 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 14:48:34
秀忠が側室をおかなかったのも、とりあえず江与が毎年のように子供を
産んでいたからだろうか。女子が続いたけど、そういう時は
当主であっても側室を持ちたいなんて言えないのかな?
奥方が妊娠中はどうしてたんだろう?
その間は禁欲するわけでもなく、普通に夫婦同衾してたのかな??
なんてお下品なことを考えてしまったw

63 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 16:49:43
秀忠は正室に隠してこっそり側室をもってる。
実際側室の産んだ子が後の保科正之に。

64 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 19:09:16
ねねと信長が面会した時に、ねねが秀吉の女癖を愚痴ったから
あの内容の手紙を信長は出したんだろうけど
ねねからしたら、信長が正室を蔑ろにして側室を寵愛してる状態だと
そんな愚痴は言いにくいんじゃないかと思う。
一歩間違うと信長まで批判してるようになっちゃうし。

65 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 19:36:39
>>63 正式な側室という立場の女が産んだ子じゃないんだ。
だから「ご落胤」ということで保科家にこっそり養子になった。
秀忠の子供扱いされなかったから徳川の家系図にものらない子・・・
正室の認めない女が当主の子を身ごもって子ども扱いならないケースは多いよ。

>>64 これかなり鋭い指摘だよね。そう考えると信長と濃姫の関係はとても
模範的な夫婦であったのかなって思うもん。

66 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 10:17:43
信忠が濃姫の養子になったのがいつ頃だったかが明確にわかる
史料はないのでしょうか?


67 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 10:31:51
リアルタイムで書かれた一次史料には無い。
本能寺後に書かれた史料なら前スレに出てたな。
信雄に偏ってる文章の書き方ではあったが。

68 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 10:51:38
>>67 ありがとうございます。
濃姫が信忠を養子に迎えたのは生後間もなくではない可能性も大いにある
わけですね。勝長が濃姫の実子であるという説もあるようですが、
勝長が生まれたと推定される時、信忠は恐らく11〜12才ということなので
その時点で濃姫が信忠を養子に迎えていなかったら、織田家嫡男は
勝長という認識になったと思うんです。
濃姫も早々に勝長を養子に迎える必用はなく、それこそいよいよ
子供をあきらめるような年になってからでも構わないわけで、
そう考えると勝長が濃姫の実子であると考えるのはやはり不自然な
点が多いように思います。
伊達家でも10年近くたって生まれた正室の男子を側室の産んだ長男を
退け当主になっていますし、(それまでは側室の長男を嫡男扱いで厳しく養育した
ということですが)やはり勝長は濃姫の実子ではないだろうと思っています。
ただし姫を産んだ可能性は捨てきれないですね。
成菩提院の御台様平産の記述があるので。

69 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 11:05:28
>>68
養子に迎えた時期については、信長が側室を作った時期が、
婚姻より7年は経っていた事を考えると、生後間もなくかどうかはともかく
それほど育ってからではない時期だった可能性は高いのではないかと思う。
婚姻前や婚姻とは全く関係なく側室を持っていた場合はともかく、
7年待って妊娠しない、又は流産早産夭折などから側室を持ったと
考えられる為だ。
戦国期で明日の命も分からないという時期であれば、
7年生まれて来ない子供を待つよりも、早々に嫡男としないまでも
正室の養子にしておく事は必要。
また、信忠が生まれた前年に道三が亡くなっている事を考えれば、
濃姫の正室としての地位の補強の為に、養子とする事もあり得る。

自分も濃姫が出産したとしたら姫ではないかと思ってはいるけどね。

70 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 12:05:50
>>69 でも信長に何かあってから養子にして嫡男として擁立しても問題ない
のでは?信忠は決まった守役もいなかったし、寺に勉学に行ったというような
武家の嫡男教育を受けた形跡がない。信忠が生まれたとき濃姫はまだ21才だし、
35才あたりをめどに養子にしたのかも。元服の後あたりなら時期的にも
ちょうどいいかなと思うんだが。
道三が亡くなったことで濃姫の子を嫡男にしなくてはいけないというプレッシャーは
なくなったろうから、信忠嫡男決定後に濃姫の実子が産まれても廃嫡してまで
濃姫の子にこだわらなかったのではと思うけど。

71 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 12:51:23
>>70
正式に養子にする=嫡男になるとは限らないので
嫡男候補筆頭になったと考えればよいのだと思う。
また、一人だけ正室の養子にしておけば、信長に何かあったとき
信雄、信孝を巻き込んでの跡目争いも起きにくいと考えることができる。
だから、個人的には生後すぐではなく、2〜3歳での養子ではないかと
推測している。
長男だから優先的という訳ではないのは、信長が次男(三男説もあるが)
であった事を見ても分かる。
優先度は正室長男>正室の長男以下>側室の庶子であったわけで
厳密には庶子しかいなければ、跡目争いが起きる危険性は高くなる。

>信忠嫡男決定後に濃姫の実子が産まれても廃嫡してまで
>濃姫の子にこだわらなかったのではと思うけど。
濃姫の実子にこだわったなどとは書いていない。
7年待ったけれど、無事育つ子供は持てなかったという中で
側室を持ったのだとすれば、半ば正室の子供を諦めて側室を持ったと
考える方が普通ではないだろうか?という事。
また道三の威光が無くなった正室の立場の補強の為にも、
養子にした可能性もあると書いたつもり。
美濃攻略の為にも、濃姫にいてもらった方が信長にはよいが、
当時の織田家にとって同盟関係により都合の良い他家の女性を正室に
という声が家臣から出ないとは限らない。
正室濃姫の実家である斎藤家は、道三の死で敵対関係になっているからだ。
だからその辺りの思惑もあったかもしれないというのは、自分の推測。

72 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 15:23:31
すると勝長が濃姫の実子であったとしても、信忠嫡男というのは
確定だったわけだな。
もっとも生駒御前は亡くなり、当時の生駒氏には政治的な力は皆無だったし、
まさに借腹そのものだったから、養子にして嫡男にしても
濃姫も感情的に問題はなかったろうけど。

ずっと疑問に思っていたのだけど、信忠と松姫が婚約して約6年後に
婚約破棄になっている。年が若かったということで松姫の輿入れを
先延ばしし、織田家お預かりの状態で甲斐にいたそうだけど、信長は自分の
姫を10才なるかならないかで嫁がせたりしているし、なぜ松姫の輿入れが
そんなに長い間据え置かれたの?
夫婦としての実態はなくても、松姫を織田家に迎えて正式に婚姻し、
ある程度の年齢になってから夫婦として生活するということは
できなかったのかな?(秀頼と千姫みたいに)
そのぐら強い絆がないとかなり不安定だったのでは?と思うんだけど。
信玄に何か含みがあって松姫の輿入れの時期を遅らせたかったとか?

織田家にしてみても大切な嫡男の嫁取りがそんな宙ぶらりんのままで
よく何も文句を言わなかったな?と不思議なんだけど。

73 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 16:04:24
>>72 そりゃ最初から隙あらば信長を裏切るつもりだったからだろ?
いざとなったらあっさり同盟破棄をするつもりだったから、
松姫を織田家に渡さなかっただけだ。

74 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 16:58:09
断定口調に萎え

75 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 18:17:05
>>72
勝長が仮に濃姫の実子で、もう少し早くに生まれていれば
嫡男は変わった可能性はあるかもね。

76 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 19:00:50
>>72-74
濃姫・松姫スレに行け

77 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 19:22:39
>>73 仮に松姫が織田家に輿入れした後に、信玄が一方的に同盟破棄に
及んでも、松姫の命の保証は絶対される。
それが戦国の慣わしで、お市の方のように同盟が破棄されたら妻は実家に帰された。
男子が産まれたら婚家に残し、姫は連れ帰ってかまわないという
慣わしもあったし、実家に帰さず人質代わりにするなんていう
卑怯な真似は恥とされ、そんな真似はしなかった。
なので、松姫を織田家に嫁がせなかったのは何か別の理由があったのでは?
信玄の松姫病気治癒祈願の史料も残されているし、身体が弱かったのかな?

>>75
勝長濃姫実子説を前提としたら、松姫との婚約の数年前に生まれていたら
微妙だったかもね。

78 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 20:57:45
>>77
とりあえず松姫に関してはここは完全なスレ違いだから
もう一つの方に返レスを入れておくよ。
あっちにはかなり変なのがいるけどスルーしてね。

79 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 23:10:29
信忠の養子の件だけど、確か実母とされる生駒氏の葬儀の喪主は信雄だった
はず。もし濃姫の養子になっていなかったら信忠がやっているはずだから、
その時点ですでに養子になっていた可能性はなかろうか?
生駒氏が亡くなったのが1566年で信忠が9歳頃となる。
そうなると松姫との婚約の時は10歳か11歳になっていたから、
織田家嫡男として婚約したことになる。
9歳以前のどの時期かは推測不可能だけど、信忠に政略結婚をさせる
必要性を感じたあたりと濃姫の年齢的なことも重なって養子に
したと考えるのは自然じゃないかな?濃姫が30歳の時信忠が7歳だから
そのあたりではないかとふんでいるが?

80 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 00:17:45
喪主が信雄だった記録は久昌寺に残っている史料により分かったんだったよな
久昌寺は久昌寺縁起なんてもんを作った寺だし、信じて良いものか……。

81 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 00:42:25
>>80
喪主が信雄だったという事は、信忠が生駒氏の腹ではないという
可能性にも繋がるような?
もちろん、養子へ行っていたからと解釈すればすむ事だが

82 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 00:52:52
喪主信雄の記録がどの程度信用できるのかはわからないけど
もし後に喪主を創作したんだったら、信雄よりは嫡男信忠にするような気もするし。

83 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 08:25:39
>>80 逆に信忠を喪主としていたなら怪しいかも。嫡男を産んだのが生駒の方
というのがステータスシンボルだったから。


84 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 12:40:37
信じるに足るものであれば、信忠はその時点で養子or生駒の腹ではない
ってことになるのかな?
信雄喪主の話しは、久昌寺に信雄経由で知行を与えられた話しがメインで
それに付随する形で喪主の事が書かれていたと思う。
知行に関しては、別にそれを証明する文献があったんじゃなかったっけ?
信忠が喪主という事にすると、知行が何故信雄経由になるのか?という話しが
出てくると思うが、そういう事が普通だったのだろうか?

85 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 13:29:52
生駒家の氏神である龍神社も信雄の守護神で
信忠は全く関係ないんだよね。
濃姫の養子に入ってしまえば切り離されるというのは分かるけど
後世の記録でしか信忠の生母は信雄と同母と確認できないのは
どういう事だろう。
生駒の前身の土岐が明智の家臣筋という話しからすれば
その関係で生駒女が濃姫に召し抱えられるのは
さほど不思議な事ではないので、そこまで当時の記録から外される
必要性も感じないのだが。

86 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 14:37:48
>>85 信忠の母が生駒御前でないとしたら、憶測だけど、濃姫の侍女あたりを
濃姫が信長に差し出して、信忠を産んだ後濃姫にすぐに渡し、その侍女は
身を引いて実家にでも帰ったとか?あるいは産後の肥立ちが悪くなくなったとか?
どっちにしても側室としてその後あがることなく、城の奥から
姿を消したのではないかな?

正室が別腹の子を養子とした場合、生母とのかかわりはどの程度となるか
他家でもいいから情報が欲しいところだけど。

87 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 14:49:35
ごめん、特定できないけど、将軍家とか大名でも側室腹の嫡男が当主になること
はたくさんいるけど、生母はそれなりに息子から大事にされてなかったっけ?
息子の代になったら生母と生母の実家が台頭して、正室より権力があるような
イメージがあるけど。あれって小説とかの脚色?
少なくとも将軍家ではあからさまにそうだよね。将軍ご生母の威光はすごい。
冠位までもらってるし、大奥でも事実上権力のトップにいられる。
信忠の場合はまだ代かわりしてないけど、生母の生駒氏とはあまりに
距離がありすぎるなとは感じる。
濃姫の養子になったからそうなのかもしれないけど。

88 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 15:02:30
大奥は生母と庶子が密着して育つからねぇ。
それも大奥内で他の庶子と常にライバルと意識しながらだから
それ以外とはちょっと違うんじゃないだろうか?
戦国期でも、奥でのライバル意識はそれなりだっただろうけど
女性しかいない大奥と、周囲の男性の思惑が入るものとでは
ちょっと違うんじゃないかな?

89 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 15:05:57
>>85だけど
土岐じゃなく土田だった。ごめん

90 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 15:10:47
徳川将軍家の嫡男は正室腹でないと正室の養子に迎えたの?


91 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 15:13:11
信雄と生駒家との関わりって強いの?
信長死後、信雄が事実上織田家筆頭みたいになったけど、
その時に生駒家とのつながりってあったのかな?

92 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 15:32:31
つよいんじゃないの?
信雄に付けられて北畠にやられてるくらいだし。
ただ、秀吉にくっついていたので、秀吉の譜代みたいにして出世していく。

93 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 21:24:52
ところで生駒氏が信忠生母だと明記されている信用できる史料は武功夜話以外に
あるの?別に生駒氏でも構わんけどさ。


94 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 21:34:16
手紙といえば信長→ねねも信長の別の側面が垣間見れて興味深いけど、
秀吉→ねねもすごくおもしろかったよ。
「便はでたのか?」とか細々した心配をしてあげて、
まさにラブラブな手紙だった。日常会話を書いてよこしたようなかんじだったな。
同じ手紙だと思うけど、「そちが一番、二番が淀」と書いてあって、
淀はお拾いの母親だからどうたらこうたら(言い訳がましく)と書いてあったような?
秀吉がこういう気遣いをするようになったのは信長から
「側室を持っても正室の機嫌を損ねるな!」ときつく言われたからかな?

95 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 22:20:30
>>93
信用できるというのはどういう意味で?
武功夜話は信用できない史料だから、武功とともに出しても平気な程度の
信憑性でいいの?

96 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 22:52:56
>>86
よくそこまで想像できるね・・・

97 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 22:54:26
>>95 武功夜話は信用できないため史料としての価値を認めていないので、
信忠の生母が生駒御前だとはっきり明記されている、信憑性の高い史料は
ないですか?という意味と思われ

基本的に武功夜話によって生駒御前が信忠の生母という認識が定着したけど
他の側室が産んだ可能性もある。生駒御前は信雄と五徳がいたし、生駒家が
いろいろ画策して生駒御前の名を後世に残したが、信忠生母が
信忠一人しか子供を産まず、すぐに亡くなったような状況だったら、
名前、出自もはっきりせずそのため「嫡子信忠卿モ亦妾人ノ腹也」と
表記されたのかもしれないし。

98 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 23:09:05
>>93
一次史料ではない。
現在、信忠が生駒の腹だと明記されているのは、出所がはっきりしているものでは
「寛政重修諸家譜」があるが、これは1799年に編纂が始まったもので、
その当時の織田家にとって都合の良い記述になっているから、必ずしも
信用できるものというわけにはいかない。

99 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 23:27:59
>>98 でもそれも変だよね。生母の名前ぐらい公的な史料に残っていてもよさそう
だけど。信長のその他大勢の子供たちも全員ではないが、実母の名前は
はっきりしているものもいるというのに、嫡男の実母が明記されていないのは
不思議だ。
武功夜話は「恐らく類が信忠も産んだんだろう」という憶測で作られたもの?

生駒家に伝わる当時のリアルな記録などはないのかな?
江戸時代に編集されたような史料なら生駒家に伝わるものでもかなり怪しいからさ。

100 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 23:37:31
生駒家に残っているのは、逸話も含めて
信雄関連は意外とある。
それこそ、生駒の氏神が信雄の守護神だとか
久昌寺って菩提寺に信雄を通して650貫の
知行を与えられているとか、
生駒女の喪主は茶筅(信雄)だったとか。
当時のリアルタイムに、表に出てきている史料で
はっきりと信忠生母が生駒女と書かれているものは
自分は知らないな。

武功は昭和以降の編纂という説もあるから
リアルタイムじゃない史料には、信忠の生母は信雄と同じと
書かれているものもあるし(それこそ前スレで出ていた文献とか)、
それを元にしていれば、通常信忠の生母も生駒女だと思うのが普通。

反対に、武功の信憑性を疑うようになったから、本当に信忠の生母も
生駒女なのか?という疑問をここの住人が持ったって事で、
それまでは、誰もそんな事を疑った事も無かったんじゃないかな?
疑って調べてみたら、意外にリアルタイムでの記述が無かった……ってことだと思う。

101 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 23:47:51
ちょっと気になってたんだけど、徳姫が信康切腹後徳川から織田に戻された時、
信長の元には行かず、信忠の元に身を寄せたとある。
夫を切腹に追いやったことから信長を恨んでのことかもしれないが、
信忠を頼ったということは同腹の兄だったからでは?とも推測できる。
もちろん信長の許可を得てるのだろうが、どうだろう?

それとちょっと濃姫から逸脱するが、徳姫は徳川に自分の産んだ姫を二人おいて
実家に戻っている。姫が産まれた場合は妻が実家に戻る時は姫も実家が引き取る
と聞いたが、あんなことがあっても家康も徳姫を厚遇しており、姫と引き離すような
ことをするとは考えられないし、徳姫も好き好んでおいていくとも考えられない。
なぜなんだろう?徳姫が産んだ実子でないというなら話はわかるのだけど。


102 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 00:34:43
岡崎からだと信長のいる安土より信忠の岐阜城の方が近いし
信雄は北畠だし、織田家を継いでる信忠の元に身を寄せるのは
仮に同腹でなくても、そんなに不自然でもないような気がするけど。

103 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 00:43:21
>>101
信康切腹については徳川のお家騒動説が最近の見解
実家に引き取るかどうかは家や本人次第だから
必ずしも母が引き取ることは無かったんでは?

104 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 01:14:08
>>101
徳川と織田が戦になって帰されたのとは違うから
姫を残してきてもおかしくはないかな?

105 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 07:57:45
二人の縁組が消滅した時点で、同盟も消滅ということだから、
姫と一緒に送り出すのも徳川としても当然だと思うな。
第一なんで幼子二人おいてこれるんだ?
事実上の人質としておいて行かざるを得なかったとか?
そうでなければ絶対連れて行きますと言うはずだろうに。
特に信長は背略結婚の手駒はいくらでも欲しかっただろうから
徳姫の娘たちは手放したくなかったと思うが。

106 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 09:54:34
>>101信長も娘に対してどう対応してよいやら困るところだし、
徳姫も信長のことを複雑な気持ちでいたろうから、同腹であっても
異腹であっても、信忠の側にいるという処遇は自然だと思う。
弟妹達の面倒も嫡男の務めだしね。

徳姫の娘たちのことは、あの頃の信長と家康の力関係なら
家康は信長の言いなりであったろうから、徳姫自身の意思か
あるいは信長の意思で徳川においてきたとしか考えられない。
家康的にも男子ではなく女子だったから、特別執着するような
存在ではなかったはずだよね。

107 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 10:35:31
>>100 それなら信忠は生駒氏の実子ではないという説も
五分五分でありえる。誰が産んだにせよ、養子縁組後だから「妾人ノ腹也」という
表記されていた可能性もあるし。

ただ信忠が濃姫の実子であるということだけはなさそうだな。

108 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 10:48:05
生駒氏の娘が織田家嫡男ご生母でなくなったら、今までの
定説が全て覆るな。武功夜話なんてただの娯楽歴史小説。
でも信忠の生母が誰であるかということを記した史料は
今後も見つからないだろうな。

109 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 11:09:39
濃姫の名が帰蝶、あるいは奇蝶というのは斉藤家の史料などから確かなの?
すごく好きな名前なんだけど。

110 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 13:14:50
>>106 信長が徳姫と姫たちを引き裂くようなことをするかな?
すでに信康を死に追いやって夫婦を引き裂いているのに。

111 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 13:26:34
>>110
信康に関しては、近年徳川家中のお家騒動という解釈が主流。
信長には、舅という事で徳川が許可、というより事前報告に
来ただけと考えられるので、引き裂いていると考えるのはどうかと。
基本的に、徳川家の中で完結すべきお家騒動が、徳姫が正室だった事で
織田家も絡む事になったと考えればいいと思う。
そうなれば、家同士の諍いで戻されるのではなく、普通に死別で
実家に戻ったと考えればよい。
徳川家には他に嫡男候補が、まだ年少とはいえいたのだから
死を持って廃された嫡男の正室は、とどまられても扱いに困る。
まして、当時の織田家との関係で言えば主従のような関係だった訳だから。
死別の場合は、子供をおいて出てくる事もさほど珍しくはなかった筈。

112 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 13:30:05
>>109
帰蝶は美濃国諸旧記に出てくる。
後年編纂の文献なので、その辺は脚色があるかも。
どちらにしても、身分の高い女性の本名が
出てくる方が稀なので、創作の可能性が高いかと思う。

113 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 13:54:35
>>111 信康自刃は一説には浜松派と岡崎派に二分されつつあった徳川家の内紛が
ことの発端で、信康を盾に反家康の動きが見られたためという。
内紛で足元が揺らいでいる時は織田からも武田からも攻め込まれる
絶好の機会になりかねないので、家康の独断で徳川を守るために
信康と築山殿を始末し、事態を収拾したという話。
実際はこの二人にはなんの罪もなかったような気がするけど、
岡崎派の象徴である二人を処分したために最小限の被害で
すんだのかもしれない。
徳姫の信長への12か条のチクリの手紙とかは後世の創作のようで、
家康の治世になってから、正室と我が子を死に追いやった罪を信長に責任転換
したのではないかな。

そう考えると徳姫も気の毒だが、信康死後家康に恨まれる事なく
あたたかく実家に送り出してもらったことも納得いく。
姫は信康の忘れ形見として家康に託したのかも。
謀反人として処罰された信康の姫を織田家に連れ帰るのも
姫たちに肩身の狭い思いをさえると考慮してのことかもな。

114 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 14:10:40
>>108
信忠に関して言えば、重要なのは
「正室の養子」
これだけなんだからさ、誰が腹でもかまわないんだよ。
だから、普通の史料には生母なんか載せていないのだろう。
ただ、信雄にしてみれば、生き延びた織田家の中で
更に頭一つ出るには、家督を譲られた信忠と同母であるというのが
重要だったから、ことさらそれを強調したと考えれば自然なんじゃ?
大体、信忠の子の三法師と、自分より下と思っていた信孝が
清洲会議で名前が上がって、自分は上がらなかった訳だから、
織田家の中でどう見られてるかは嫌という程分かっただろうからな。

その時生きていた安土殿がどう思っていたのか気になるけどなぁ。
夫信長と、養子信忠の亡き後、どうでもよくなっていたのかな?

115 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 14:11:00
>>113 真相はそうで、本当は家康は内心正室や信康を排斥したがっていて、
そこへ信長が「一体徳川家はどうなってるんだ?」という打診をしてきた
ので、この期に乗じて二人を処分し、信長の顔をたてつつ、自分も
二人を処分できた大義名分ができてほっとした、なんてことかもね。
結局信長に責任をおしつけ、自分が悲劇の父親を演出したところが
大狸所以。

116 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 14:17:21
>>114
仮に勝長が実子であったら、
夫信長、養子信忠、実子勝長か。
実弟斎藤新五郎も加えてやってほしい。

117 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 14:22:58
>>114 清洲会議で信孝当主擁立の根拠は信長の実子ということと、
光秀討伐の功労者ということで候補に、三法師は血筋的な正統性から候補になった。
信雄は本能寺の変後光秀から逃げるようにとっとと伊勢に撤退したので
次男であっても他の大名から推挙を得られなかったため、三法師の後見人
どまり。でも秀吉からは厚遇されていたから、もしかしたら裏で二人が
何かしらの取り決めをしていたのかもとも思えるけど。
濃姫は信忠の子であれば、三法師は義孫にあたるのそれはそれで構わないと
思ったのでは?要は秀吉に対してどう思っていたかだけど、
信長の敵をうった一番の功労者は秀吉だし、複雑だったろうな。

118 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 14:35:24
>>114 >>家督を譲られた信忠と同母であるというのが重要だったから、
ことさらそれを強調したと考えれば自然なんじゃ?

信忠の生母が生駒氏であるという確固たる証拠がないと強調にならないのでは?
信忠が生駒氏の腹であるという記述と信雄の母も生駒氏であるという
記述があってはじめて同腹であるという認識になるけど、
信忠の生母が誰であるかは証明するものは何もない。
したがって信雄と同腹であると強調しても説得力がないということになる。

119 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 14:43:25
>>118 関係者がいなくなってから、生駒家が勝手に生駒氏を信忠公ご生母と
言い出したのかもしれないな。当時の信雄は信忠と同腹ではないということを
よく知っていたのかもしれない。


120 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 15:29:47
>>116
勝長が実子だったとしたら、勝長と同腹と言われている冬姫も濃姫実子の可能性高いんだよな
とすると、側室の子は政略に使って、正室の子は自分が認めた人間の蒲生氏郷に……ってことで
家康は心中穏やかじゃなかったかもしれないな (愛娘を政略に使う気は無いって意味だろうし)
徳姫と信康は同い年で、年齢だけ見ると、むしろ信康より2つ年下の冬姫の方がつりあい
取れてる気がするし

121 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 15:51:49
勢州軍記は信雄と信孝の生母はしっかり書いてるんだよね。
もし信忠と信雄の生母が同じ生駒氏だと当時はっきりと知られてたんなら
信雄の生母も信忠と同じ生駒氏とかって書きたくなるもんじゃないのかな。
信忠の生母が実際に生駒氏だったとしても、勢州軍記が書かれた頃は
あまり知られてないことで、それほど信忠と生駒の接点はなかったんじゃ。

122 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 18:00:44
>>120
冬姫と同腹と言われているのはお次だよ

123 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 18:14:03
もしも信長が征夷大将軍の任に就いたとしたら、源氏の血のみが云々ってのはどうしたんだろう?
そんなことすっとばすくらいの力があったから、平氏を名乗ったままでも就いていたかもしれませんが、
もしも勝長が明智源氏の血をひく濃姫の実子だとしたら、血筋からみたら信忠よりも正統ですよね。

まあ所詮は想像ですが。
信長の後継者は信忠で間違いないと思いますんで。
つくづく本能寺の変はタイミング悪すぎだ

124 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 18:40:43
sageろ。目障りなんだよ重複スレ。

125 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 18:43:58
>>121 信忠の生母を示す当時の史料が存在しないということは、後だし
じゃんけんで言ったもの勝ち。生駒氏なら信長の次男、長女を翌年に
立て続けに産んでいるので誰の目にも不自然ではない。そこで
後年生駒家が半信半疑ながら主張をしだしたということは充分考えられる。
それなら生駒氏が徳姫出産後信長の寵愛もなくなり、奥を下がり、出家し、
ひっそりこの世を去ったのも納得いく。

>>123 Wikiより抜粋
実際に織田信長に「征夷大将軍拝命」の勧めの勅使が来ていることもあり
(これは源氏でよいなら平氏でも、とも理解できる。
もちろん、源氏、平氏より貴種の藤原氏も同様。)、現実的には源氏でなければ
将軍になれないというのは根拠がない。
また、頼朝以降に限っても、摂家将軍や皇族将軍の例があり、
現実に清和源氏に限られていない。

秀吉は征夷大将軍になれなかったのではなく、それより地位の高い
関白になれたので構わなかったのではということだ。

源氏云々が本当で、仮に勝長の子が濃姫の子であっても、女系の場合はどうかな?
血は引いているが正統性は欠けると思う。
皇室、武家は伝統的に男系を重んじているので、そのことで
勝長が信忠より正統性があるとは判断されないだろう。



126 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 18:48:29
Wikiをソースにするのは史板ではやめた方がいいですよ。

127 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 19:33:19
武功夜話の元になった前野家文書はいまだに非公開で、
原文はおろかその写真さえ公開されていないから怪しんだよね。
専門家による検証もされていないものを史料とは言えないよ。

128 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 20:13:12
【何故秀吉は将軍でなく関白になったのか?2】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1160617713/l50#tag52

ここでその話題が繰り返されてますね。

129 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 21:41:47
>>127 諸悪の根源「武功夜話」

130 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 21:54:46
>>117
安土殿の秀吉への感情は、結局のところ
「総見院の葬儀に出なかった」という事につきるんじゃないかな?
妙心寺の一周忌を主催したのが本当に安土殿だったら、
葬儀には出ないわ、一周忌も別にするわ……。
表立って争う事はなくても、水面下じゃ色々思惑が
入り乱れていたんじゃないかな?

131 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 09:41:00
>>130 濃姫一人の意向ではなく、織田家内の反秀吉派の総意ということだろうね。
全面に信長の正室が立てばさすがの秀吉も何もいえなかったはず。
秀吉も対面を取り繕うためにお鍋の方を見方に引き入れたんだろうけどさ。
(息子を取り立てるとかなんとか甘いこと言ったんだろうな)
総見院でのお鍋の方の墓を見ると、なんか織田家内でのお鍋の方の立場を
象徴してる感じがする。(実際は墓石とは関係ないことかもしれないけど)

これは個人的な憶測だけど、濃姫はそんなに秀吉に敵対心を持ったとは
思えない。あの時代の女性だから、織田家存続のためにどうすればいいか?
もう秀吉にすがるしかないのではないか?と素直に思ったと思う。
三法師を当主にすえ、秀吉が裏で実権をとるのはわかっていても、
織田家が嫡流の流れで残っていくならいいと思ったのではないかな?
でも野心がでてきた信雄や信孝、柴田勝家やお市とのからみで
関係が悪化していったのは事実だと思う。

もし秀吉との関係が良好なら秀吉が濃姫を崇めていろいろ心付けとか
してそうだもの。生活を全部面倒みたり、立派な庵を建ててあげるとかして、
そのことをさらに大げさに史料に残させて、織田家を最後まで主君と仰いだと
いう秀吉像を演出してそうだ。

132 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 10:47:06
関係が悪化していても、それが信雄や権六達の絡みで仕方なしにとなるなら
それこそ下4行は実行しそうだけどな。
権六達はこともあろうに正室を使って何たらと正当性を主張して
対立していてもそれは反逆者達の担ぎによるものだからと寛大な
心を持って水に流し、信長正室を保護し続け、世の流れは自分に
向いても、あくまで主家は織田家であるということを云々と
いった具合にね。

133 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 11:43:02
下4行を出来なかったのは、安土殿の方が秀吉より長生きだったからかな?

134 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 12:22:05
濃姫がねねのように後家になっても諸侯に力をもてる立場なら
秀吉も厚遇したろうけど、信長に庇護され、政治的なことに一切
介入してないから、秀吉からそんなに重要視されなかったのでは?

135 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 12:27:15
だが権威付けの為の道具にはなる筈だからなぁ
小倉(鍋)を利用するくらいだったら、
たとえ政治とは無関係に生きていたとしても
正室使う方がいいはずだし。
小倉だって、信長生前は単なる側室だし。

136 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 12:42:31
お鍋の方って秀吉から直接化粧料までもらってるんだよね。
濃姫は頑として秀吉になびかなかっただけじゃないか?


137 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 13:18:26
根本的な話しだけど、安土殿=濃姫ってどうして
学者達は「早計」なんて言って認めないの?
安土殿≠小倉なのはほぼ証明されているけど。

濃姫以外に信長の正室になった人物が全く文献上出て来ないし、
言継卿記が永禄12年だとしたら、それ以前は濃姫だろうけど、
それ以降変わっていれば、公家衆が嬉々として日記に残すと
思うのだが、そんな記述は出て来ない。
そう考えると、やっぱり安土殿=濃姫じゃないかと。

138 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 16:45:23
>>137 100%確定するだけの根拠がないからじゃないかな?
断片的な史料からだと明らかに安土殿=濃姫だから
限りなく100%だけど、「近年そういう見方もでてきた」ニュアンスの
表現どまり。
お鍋の方は秀吉から化粧料をもらっていて、その後淀殿の庇護を受けた。
安土殿は信雄から600石の知行をもらっていたことは史料にはっきり
残っているし、二人が同一人物であるとは考えられないな。

139 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 18:39:43
>>138
600石じゃなくて600貫な。


140 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 21:17:38
濃姫は信雄に600貫の知行をもらってたけど、信雄って改易になったり
流刑になったりと波乱万丈。知行はそうなると召し上げ?
濃姫の生活はどうなっていたんだろう?
それと信長が濃姫のために御料地をもらってあげてたけど、
あの御料地はどうなった?

141 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 21:41:44
御料地は個人資産だから、取り上げられてないかもなぁ。
あの時代、女性も個人資産持ってたし、他人が勝手に
取り上げたりは出来なかったはずだし。

142 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 21:44:35
>>141 もしそうなら、信長GJだったね。
与えた当時は濃姫に先々の心配なんてまったく無用だったのに、
それが役にたつなんて!
ちなみにその御料地のあがりだけで濃姫の晩年は大丈夫だったのかな?  


143 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 22:16:25
戦国時代だからね。一寸先は闇。
自分亡き後の御台のことを思い、
私有財産を持たせてあげたかったのかな。
ねねの手紙といい、濃姫への御料地の件といい、
好きな女性にはとことん優しい信長様。
嫌いな野郎にはとことん冷たい信長様。

144 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 00:25:05
遅ればせながらルイス・フロイスの日本史の抜粋読んだんだけどさ
岐阜城での生活について
「彼は内部においては、婦人及び姫君、息子達によってのみ仕えられていた」
ってとこなんだけど、息子達は信忠13才と信雄12才なのね。
二人でも息子達と複数形で訳してあるからには、婦人および姫君はそれぞれ一人なのかな?
原文に詳しい人が居たら教えて欲しい

1569年なんで、徳姫はもう徳川に嫁に行ってるし、信孝も神戸に養子に行ってるのね
だから、信雄と信忠だけが息子として登場しているだけで、側室の坂氏とも一緒に暮らしていたのか
濃姫だけ内部(特に奥まったところという意味のよう)で暮らしていて
坂氏は城の何処か別のところに部屋をもらっていたのか、どっちなんだろう
濃姫だけと暮らしていたのなら、信雄も濃姫が面倒を見ていたってことなのかな?
姫君も一人だけとすると、ここに出てくる姫君が家系図に残ってる濃姫の生んだ姫なのかな?
誰も内部に入れなかったらしいんだけど、侍女とか小姓とかは入れたって読んで良いのかな?

私生活は純粋に家族だけなんだとしたら、激しく現代的だな・・・・・・。

原文でも一人だったとしても、単にフロイスが出会った人のことだけを書いているのかもしれないし
断定できることはあまり無さそうだけど、それでも興味深いよね

145 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 00:36:16
フロイスの日本史にも、外人ゆえに良く事情を飲み込めず
頓珍漢な部分もかなりあるからね

146 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 00:43:34
自分が持っている日本史には、「貴婦人達」ってなってるだけだなぁ。

147 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 00:50:04
1569年なら冬姫がいたはず。

148 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 01:09:26
信雄が北畠に入ったのは1569年じゃなかったかな。
その息子達というのは坊か次の可能性の方が高いような?

149 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 01:21:16
坂氏は信孝と一緒に神戸に行ったんじゃないの

150 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 01:21:52
日本史には奇妙13歳、お茶筅11歳くらいってなってるから
信忠と信雄でしょ。
次男に食膳運ばせたりしているね。
女性については、貴婦人達のところと、2階が婦人部屋だったと出ているだけ。
ただ、信長の世話をするのが貴婦人達と息子2人というのはある意味当たり前で
お次もお坊も、まだ世話が出来る程成長していない。
信長の世話をしない子供がいたかどうかは出て来ないからな。

151 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 22:23:03
>>146
「婦人」「貴婦人たち」というのは単純に訳者の選んだ語なのでは?
覇者の館に仕え、身近に世話する奥向きの侍女たちなら
華やかな装いで主のそばに控えている・・・
貴婦人というような階層にみえたんだろうね。

婦人と訳されてるからといって、妻の意とは限らないと思うもの。




152 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 22:26:54
正室とその子女、側室達とその子女は別空間に暮らしたから、
貴婦人を前者、婦人達を後者で表現したのでは?
安土城では御台の部屋と信長の部屋は
隣り合わせだったと記憶している。

153 :150:2006/10/23(月) 23:05:09
総合すると訳者の裁量の範囲ってことなんでしょうか。
手元の本では内部に入れるのは「婦人および姫君(信長の娘)」と息子達のみで
この訳をそのまま受け取ると信長の世話をする人が居なくなってしまうので気になったんですが
中央公論社の松田毅市・川崎桃太訳の「フロイス日本史」から抜粋して説明してあったようです。
1978年と古い訳なのですが、それと関連あるのかな?
白黒はっきりさせたかったら原典当たるしかなさそうですね・・・・・・。

はっきりすれば、フロイスから見ると、奇妙とお茶筅が居る正室の部屋が
重視されていたということで

154 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 09:23:29
裁量の範囲だろうと思う。
読んでみても、奇妙と茶筅の事は出てくるけど、
他の人物に関してはさして出て来ないし、
フロイス自身、それほどよく分かっていなかったんじゃないだろうか?
自分が持っている日本史は、>>150さんの言ってる
中央公論社の松田毅一・川崎桃太訳の日本史そのものだけど
その中では「貴婦人」になっていて「婦人及び姫君」とは
なっていないから、抜粋した時点で変わった可能性もある。

155 :154:2006/10/24(火) 09:25:15
ちなみに文庫版の方で、誤訳を修正したような事が
前書きに書かれているから、もしかしたらちょっと変更されているかも。
出版は平成11年です。

156 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 09:46:07
いわゆる奥には信長の側小姓も入れなかったということ?

157 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 10:39:07
いろいろな面でそれはさすがにあり得ないと思う。

158 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 10:43:01
じゃあ秀吉と猥談をしたという吉乃の話はまったくあり得ないということだ罠w

159 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 10:44:47
信長は朝食や夕食は一人で食べたのかな?
濃姫と食べたのかしら?

160 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 14:22:24
奥には小姓は入れなかったんじゃないの?
小姓は表での世話をする役だし。

あと、秀吉と吉乃が猥談したのは生駒屋敷でだから、
それ自体が作り話だろう。
秀吉を取り立てたのはそうやって親しかった吉乃が
信長に気の利く者ですから是非取り立てて下さいと
口添えをしたからだというエピソードの前振りだからな。
猥談する事が気の利く事なのかよと、読んだ時思ったが。
生駒氏女はやっぱりどう考えても、清洲城にいたと思うぞ。

161 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 14:25:25
信雄と五徳は清洲で産まれたとどっかの史料になかったか?


162 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 15:27:41
信忠と信雄が清洲で生まれたと、寛政重修諸家譜に出てる。
五徳は出てないな。

163 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 15:29:11
>>162 で、この「寛政重修諸家譜」て信用できる史料なの?

164 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 15:37:14
信用できるかどうかは、分からんとしか言いようがない。
織田家が出した史料によって織田家の箇所が記載されている
徳川幕府が編纂した家系図だからね。
当時の織田家では信忠と信雄は清洲で生まれたと言っているのであって、
武功夜話みたいに生駒屋敷で生まれたとは言っていないということだけが
はっきりしているという事だろうな。
でも、信雄はともかく、信忠は嫡男だから、
秀吉だの使用人だのと気軽に猥談出来るような環境で生まれているとは
思えないけどね。
生駒家が、「信長様以外の男は近づけさせていません!!」って
言い張ったとしても、そんなの信用されるとは思えないんだし、
だったら嫡男なんかになれるとは思えない。
が、正室の養子になって嫡男になってるんだから、
他の男が近付かなかったって、第三者も分かってたってことだろ。

165 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 15:44:23
>>164
生駒氏を城の奥に閉じ込めて完全に正室の管理下におかない限り、
いくら生駒氏が信長の子供だと言い張っても周囲を納得させられないよね。
そう考えると武功夜話の生駒屋敷の出来事はすべて空想、夢想、虚言だな。

166 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 15:50:31
閉じ込めるって表現は過激だけど、
正室の管理下にはいたと考えるべきだろうな。
当時のごく普通の側室だったと考えればいいだけだと思う。

167 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 14:00:41
ところで生駒家と信長の接触はある程度あったのは本当だったの?
馬借で財をなした生駒家の援助やいろんな情報をもらったのでは?という
話もあるけど。

政略結婚の典型だった濃姫との結婚生活は意外とうまくいってたみたいだね。
TVなどのイメージにあるような気が強くしっかりものの濃姫ではなく、
でしゃばらず、逆らわず、内気で大人しい女性だったような気がするんだよね。
だから壷事件でいつも逆らわない濃姫が「私も死にます」と訴えたら
すぐに信長がおれたんじゃないかな?普段大人しい濃姫だけに本気だと
思わせるだけの迫力があったんだと思う。その後すぐに信長は濃姫の実母に
挨拶に行ってるし、斉藤家の長老である濃姫の実母に謝罪をして、
斉藤家に対し壷事件のことを詫びたことにしたのでは?と想像してる。

168 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 18:30:07
戦国時代の大名家奥向きを、江戸期のそれと比べてはおかしいよ。

169 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 18:51:20
江戸期の奥と比べてるレスなんてあったっけ?
戦国期の奥関係の慣習から逸脱した話しは
なかったように思うが。

170 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 18:58:58
>>168はたぶん側室が正室の管理下におかれていた云々の話をから
大奥を連想したのだと思う。
基本的に戦国期においても正室が奥を束ねていたから側室を管理下に
おいてたよ。側室は当主の家来ではなく、正室の家来という認識に近い。

171 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 20:01:00
>>167
濃姫の母親は、当時の斉藤家からすれば長老とはいえないと思う。
なぜなら、濃姫及びその母親は道三の縁故であり、道三の流れは当時の斉藤家
(義龍―龍興)においては否定、排斥されている。

172 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 20:38:32
>>171 
小見の方は道三の正室だったのだから、立派な斎藤家の長老だよ。
父親が違うという噂はあっても、家系図上は義龍は道三の長男だし、
否定しようにも、道三の正室を否定する立場にない。
しかも美濃が信長支配になってしまったので、濃姫の生母である
小見の方が斉藤家の長老という立場になってもらったほうが
残された斉藤家縁のものの保身にもつながったはず。



173 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 21:06:28
信長支配の時点で斎藤家の流れもまた変わったんじゃないの。
もう義龍も龍興もいないわけだし。

174 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 22:04:09
義龍が道三実子ではないという噂はまったく根拠が無く
義龍自身が実父殺しの汚名を免れるために流したとも言われるし、
土岐派が主君の恨みをはらすために義龍を扇動するために
流したとも言われている。
江戸時代の創作という説もある。
しかしまむしと言われたほどの男が自分が自分が利用し、追放に追いやった
主君の落胤を嫡男にすえるとは考えられず、実子には間違いないと思う。
家督を譲ったあとに何かしら親子の間で諍いが生じ、
廃嫡を図った道三を旧土岐派と結びついて義龍が抹殺したと
考えるのが自然だな。

175 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 22:55:07
義竜自身が范可って署名してるくらいだから
父親殺しという罪悪感があったんだろ

176 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 22:55:13
時々濃姫っておとなしい人だったんじゃないかって意見がでるけど
戦国時代って剛胆な女性が人気があったし
信長と上手くいっていたとしてもおとなしい人だったとは限らないんじゃないかな
伊達の愛姫だっておとなしいイメージあるけど実際は鉄砲もって戦場をかけっていたわけだし
ただ、信長存命中は表だって政治に介入してないし、分別のある人だったんだろうとは思う

177 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 22:57:50
いや、血のつながりがどうこうではなくて、政治的な話。
どうあれ義龍は道三を否定する立場で美濃を支配した。それに従わない東濃
の明智を滅ぼしもした。義龍からすれば小見の方は生母でもないのだから、
むしろ道三の正室だからこそ排斥される。

ただ、信長支配、龍興追放後の美濃斉藤家の流れがまた変えられた可能性は
大いにあると思うが。

178 :日本@名無史さん:2006/10/26(木) 02:16:32
信長は道三の遺書をたてに、
道三の後継者として美濃の国主になった。
したがって、義竜・竜興の流れは否定された。

179 :日本@名無史さん:2006/10/26(木) 18:06:08
壷事件では、義竜の後家の問題に、
信長本妻が筆頭に立って抗議しているんだから
斎藤家でも中心人物は、当時の現美濃国主夫人である
濃姫になっていたんだろう。
それに伴って、濃姫の母が長老格になっていても
不思議ではない。
大体、義竜の後家の擁護を濃姫中心でしたんだから、
それほど双方に隔たりがあった訳じゃないだろう。
戦国時代で身内で争ったり和解したりは
それほど珍しくない時代だし、今思う程の事じゃ
なかったのかもしれないよ。

180 :日本@名無史さん:2006/10/26(木) 18:48:24
信長の支配下になって、義竜の後家もいづらくなかったんだろうか。

181 :日本@名無史さん:2006/10/26(木) 22:45:00
最終的に信忠の側近に、斉藤家美濃衆がなってる事を考えれば
養母である濃姫関係者でかためたんだろうし、
織田家中で困らないように、本人達も努力しただろうけど
フォローした人間だっているんだろ。
いづらくないように濃姫が取りまとめてたんじゃね?
だから、斎藤家や国人が壷事件で団結できたんじゃないかな?


182 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 01:16:58
だけど、
義竜の後家といっても、正室じゃないよね。
義竜の正室は、浅井久政の娘だから、実家の浅井へ帰ってるはず。
この後家は織田家が引き取ってるんだから、
織田斉藤の和睦の時、帰蝶と交換で義竜に嫁いだ信長の庶姉だと思う。
(嫁いだといっても正室にはしてもらえなかったっぽい)

183 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 08:50:17
濃姫と交換で嫁いだのって、
義竜じゃなくて道三へじゃなかったか?
「秀龍に嫁いだ」ってなっていたと思うが。

184 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 13:17:44
>>183
道三には小見の方がいたのにか?
しかも、当時50代半ば

信秀(30代)「そんなら、帰蝶は俺にくれよ」

185 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 14:03:52
別に小見の方がいたっていいと思うけど。
濃姫の安全を保障する&同盟の証でしょ?
それに美濃へ行ったの庶子だし。
一夫一婦制の時代じゃないんだから。

尾張側から申し入れて濃姫を嫁がせてもらったんだし、
当時の国力、家の格の違いを考えれば、
斎藤家>織田弾正忠家なんだし。

186 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 14:21:20
義龍後家って一色氏じゃないか?それと快川との対立原因になったとも言われる 
京都から僧を招くに至ったのは嫁さんの葬儀が理由らしいけどこの嫁さんは一條氏。

187 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 14:26:09
>>184
>道三には小見の方がいたのにか?
この問いかけの意味がよく分からないのだが、
小見の方がいたらなんで駄目なんだ?
>>185でも書かれているが一夫一婦制じゃないから
別に何人正室や側室がいてもかまわないと思うが。
それこそ、壷事件の信長本妻の姉妹16人を考えれば、
道三には側室がかなりいたと考え得るだろ?

信長の正室に濃姫を望んだのは織田家。
平手政秀が使者として奔走している。
実際に織田家側から斎藤家側に嫁いだ信長の庶姉が
いたかどうかはっきりはしていないが、いたとされる
文献に残っているのは、秀龍の側室としてとなっている。
これまで敵対していた織田家に、濃姫を嫁がせるにあたり
かわりの人質として斎藤家に行ったと考えるべきで、
誰の側室にするかは、あまり重要じゃない。
義竜でも道三でもどっちでもいい。
とにかく、斎藤家に織田の人間が行ったという実績が必要だっただけ。
義竜にも道三にも既に正室がいたし、その正室達を廃してまで
織田家の庶子を正室にする程、織田家の家の格は高くなかった。
だから、側室になっただけの話し。

188 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 14:42:29
>>184 うけたよ!実際信秀は美形好みでかなりの好色だったそうだし。
最後は17才の側室におぼれて腹上死だったという話もある。

189 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 15:35:13
織田勝長は甲斐に人質になった際に信玄の養子になったということだけど、
本当に養子縁組したの?家系図には乗ってないし、武田勝長と名乗った
いた記録もない。


190 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 15:53:35
>>183
>>187
それじゃあ、この「義龍後家」はどこの出身なの?
落城後、正室は実家の浅井に帰るはずだし、
ほかの側室たちもそれぞれ実家に帰ったはず。
でも、この「義龍後家」は織田の娘だから織田が引き取ったのだと思うが。

道三(秀龍)には、別の時に側室を献上したと考えられないかな。
あと、自分の知識は小説(司馬だったかな)なんで、申し訳ないが、
信長と帰蝶の結婚の時、同時に義龍と信広にもそれぞれ娘を嫁がせたと書いてあった希ガス。

191 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 16:10:59
浅井の娘は、義竜と浅井が争った時に戻されてるだろ。
永禄3年くらいの頃に。

192 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 16:12:13
>>190
いや、それ小説だから

193 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 16:20:35
>>190
あの時代、表に出て来ない側室なんて一杯いる。
浅井と義竜が争ったあとに、正室になった女性がいたか、
正室がいなければ奥を取り仕切った側室がいたか、
そんなところだろ。

ちなみに、秀龍が義竜の事だと思われてた時代があって
その時代に書かれた小説は、義竜の側室になったと
されている物が多い。
近年秀龍が道三であった事がほぼ判明して以降は、
そういう事は無くなったけどね。

194 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 16:33:18
>>191 永年3年ということは義龍が亡くなる前年だな。もしかしたら
同盟はやぶれたけど、実家に戻らなかったのかもよ。
帰ろうとした矢先に義龍が急死したとかね。
帰ろうにも浅井は親子で家督争いしてたり、六角氏がらみで
何年もごたごたしてたし、近江の方はそのまま出家して
美濃にいたという可能性はないかい?

195 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 16:36:50
道三が織田家と敵対するのをやめて帰蝶を嫁がせ同盟を選んだのは
すでに義龍との確執が始まっていたからと言われている。
そんな状態で、義龍の側室に迎えるより、自身の側室として迎えて、
義龍への牽制に利用した方がいいと考えたのではないか?

196 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 16:40:10
永禄12年の壷事件だから、織田と浅井はまだ同盟中だし
別に、義竜後家が浅井の娘でも問題ないんじゃないの?
>>194が言うように、戻っていなかった説もありだと思うね。

197 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 16:52:02
>>196 そうだよな。義龍が亡くなったら出家しただろうから、
出家したら自分の意思で美濃に残っていても許されるかも。
壷事件の翌年に織田家と浅井家の同盟解消になったから、
壷事件てもしかしたら浅井へのいろんな布石だったのかもな。

ところでお市の方も同盟破棄後すぐには織田家には戻されなかった。
信長は当然戻って来いと言っただろうし、それが戦国の慣習だったろう。
でもある程度自分の意思も通せるものだとしたら、近江の方が
壷事件の後家だった可能性はなくはないね。

198 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 17:04:15
後家が誰だったかは確定できないけど、少なくとも側室の誰かということは
ありえないと思うんだよね。というのは、信長が欲しがったぐらいだから
斉藤家家宝級の壷だと思う。ただの側室がそんな家の家財に関して
関知しているわけがない。家の奥を取り仕切る御台所なら
代々伝わるいろんな家宝のことなども知らされていただろうし、
管理のことも詳しかったはずだよ。
近江の方はもしかしたら嫁いでから亡くなって、その後正室を娶ったかも
しれないけど、とにかく正室だった立場の女性だと思う。

199 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 17:05:05
>>189
人質だから、養子扱いって意味だよ。
人質は当時虐げられたりしていた訳じゃなく、
きちんと武将教育を受けさせられて、一族に準ずる扱いだった。
家康が今川でそういう扱いだったり、蒲生氏郷が織田家で
そうした待遇を受けていたのと一緒。
敵対していた家に何かあった時に、その人質が
跡を取るような事でも起きれば、労せず譜代の家臣に出来た。

200 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 17:11:07
>>198
同意だね。
後家はやはり正室だと思う。

お市を浅井にやってるんだし、その引き換えの意味もあって
たまたま残っていた近江の方が、そのまま織田家で庇護されてたと
考えられなくもない。
むしろ、近江の方だと思っていたから、信長の庶姉って
考えてる人がいたのは、新鮮な発想だと思ったが、
冷静に考えると、ちょっと違う気がするかな?
大体、庶姉とはいえ、身内に甘い信長が、「自害します」なんて
言葉を言わなくちゃいけない程の事を、実姉にするとは思えない。
それに、かばっているのが斎藤家関係者だけというのも不自然。
信長の庶姉なら、織田家関係者もかばうだろ。

201 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 17:13:08
>>199 サンクス。正式な養子というわけではないんだな。


202 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 17:33:21
戦国時代なんて、同盟したり敵対したり
めまぐるしく情勢が変わるもんね。
感情的にしこりが残りそうな待遇を人質にしないよね。
それこそ、その家が滅ぼすか、滅ぼされるかって言うような
戦いをしない限り、人質に危害を与えるような事しないだろ。
家臣からの人質の場合は、その限りではないだろうけど。
そう考えると、家康は今川に不満があったのかな、
後に叩き潰してるもんね。
信長は人質の扱いが、結構上手だったのかな?
家康にしても、氏郷にしても、うまくやってるよね。

203 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 18:17:46
>>202 >>199にあるみたいに人質といってもきちんと養育され、大事に扱うのが
基本だし、今川は姪をあげていたから身内として扱っていたと思う。
一方で家康が人質となっている間、徳川家領地が今川家に管理されてい
た為、三河の武士達が戦のたびに褒美も無くただ働きをさせられ、
戦があると最初に駆り出されていたとも言われている。
恨みを持っていたとしたらその時代の三河武士への対応に対してじゃないか?

204 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 18:36:18
>>203
なるほど、ありがと〜、よくわかった。

205 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 18:39:20
>>200 後家本人をかばう気持ちと、斉藤家への侮辱と感じて
斉藤家が一団となったとも考えられる。隠し立てをしていると
当主から疑われたわけだから、家の一大事。
家のプライドをかけて、斉藤一族がまとまったんだろうな。
しかし一体どんなに立派な壷だったのか気になるなぁ。

206 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 18:51:55
この壷事件を日記に書いてた山科言継GJ!!
これなかったら、いまだに濃姫は早く帰されたとか
死んじゃったとか言われてたんだろうなぁ。

ところで、壷事件ってさ、以前ってあまり取り上げられてなかったの?
言継卿記そのものは、昔から研究されてたのに
壷事件で濃姫の動向を取りざたす様になったのって
最近のような印象があるんだよね。
元からこれが濃姫って言われてたら、
武功であんな事になってない気がするんだけど。
武功への反証で取り上げられる様になった印象なんだよね。

207 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 19:05:39
>>206「然者信長本妻兄弟女子十六人可為自害」

この「本妻」が「濃姫」と思っていなかったからだと思う。
濃姫はとっくに離縁されたか、亡くなったという認識だったから、
その後娶った本妻か、あるいは本妻的な存在になっていた側室の誰かだろう、
と勝手に決めつけて解釈していたのではないかな?

よく読み解いていくと、この本妻が斉藤家縁の人物でないと
話の筋が通らないないことはわかるんだけど、
最初から濃姫ではないと思いこんでしまうと、本妻が誰だろうと
まったく気にせずスルーしてしまう箇所。
武功が捏造だという認識が一般的になってから、注目されたのは
本来本末転倒だな。

208 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 19:16:09
濃姫が早く亡くなったとか離縁されたとかって説は
武功以降たくさん出てきた印象だけどな。
それまでは、濃姫自体がそれほど注目されてなかっただけだと思う。
お市や寧々や茶々みたいに、歴史的な事件に関わってないから。

209 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 19:27:25
道三死亡の段階で同盟破棄となり、濃姫が美濃に返されたはずだと
断言してる歴史かもいる。もしくは、美濃攻略は濃姫が実家に帰った
ため堂々と行われたとか。濃姫が実家に帰っただろう、もしくは
亡くなっただろうといわれていた根拠もそれなりにあるんだよね。

ただ許せないのは、武功夜話にあるような生駒息女が濃姫にとってかわり
正室代わりで信長の寵愛を受けたという嘘でたらめ。
生駒息女がいたので、あるいは子供がいなかったために濃姫との夫婦関係は
冷え切っていたとか、ちょっと調べればそれが信憑性のあることか
どうかってわかるよね?信忠を養子にした段階で嫡男問題は解決したわけだし。

たしかに歴史家にとっては濃姫自体への関心が薄かったのも事実だろうけどさ。

210 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 19:29:04
もともと、濃姫が帰されたり早世した説もあったのはあった。
ただ、確定扱いじゃなく、一説。
ただ、武功で吉乃が正妻に準ずる扱いになったと史実認定されたら
史学者的には、戦国期の正室の立場を考えて、いなくなった事に
しなければ、まずかったから、武功以降そういう説が大量に出てきた。
側室が正室の家臣扱いなんてことは、戦国をメインに研究してれば
当然知っていて然るべき基本的な知識だからな。
にもかかわらず、吉乃がその正室を押しのけてなんてことにすることは
無理が生じるから、濃姫を亡き者にしなくてはならなかったって事さ。
武功がなければ、勢州軍記も言継卿記も織田信雄分限帳も近江國輿地志も
濃姫好きからはそれほど注目されなかったんだろうな。

211 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 20:31:26
濃姫と明智光秀の関係は従兄妹同士というのは本当なの?
光秀の出生は謎だということだけど。
小見の方が明智出身というのは事実であると認識していていいのかな?

212 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 20:49:48
>信長本妻兄弟女子十六人

信長の本妻の姉妹16人
信長の本妻と姉妹16人
どっちが正しいの?

あと、この騒動は、誰かの「中分」(仲裁)によって解決したんだけど、
言継は、誰が仲裁したかは書いてない。
上のほうで、本妻=濃姫が仲裁したと書いてる人がいたけど、
自分は、「しうとめ」(小見の方)が仲裁したと解釈してる。
その理由は、
数日後、信長が姑の住まいに「禮」に行ってるから。
これは仲裁してくれたことのお礼だと思うの。
みんなはどう思いますか?

213 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 21:13:46
ちょっと待った。
なんか人質についてかなり過ぎている認識があると思う。
人質というものが虐待差別されている存在ではなく、大事に扱われていたという
点は間違っていない。人質は文字通り人間による担保なのだから丁重に扱うに
決まっている。逆に人質を粗末に扱うというのはその家を粗末に扱うという事で
これは離反の正当事由にすらなった。
ただ、全ての人質が教育を受けられたとか我が子のように可愛がられたというのは
言いすぎ。家康にしても氏郷にしても、あくまで個人の資質が気に入られたから。

>>212
私もそう思います。

>>211
小見の方の出身はほぼ明智氏。ただし光秀が美濃明智氏出身かどうかは不明。
個人的には違うと思っている。

214 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 21:17:49
永禄十二年七月廿七日

晩頭佐藤錫携来、一盞受用了、故一色義龍後家壷可為所持、
可被出之由信長連連被申、一乱之刻被失云々、尚於責乞者可自害云々、
然者信長本妻兄弟女子十六人可為自害、國衆大なる衆十七人、
女子之男以上卅余人可切腹由也、仍中分失弗に治定、今日無事に成了、
佐藤も十七人之内也

濃姫をいれて16人じゃないか?
ちなみに「本妻兄弟女子」というのは濃姫の兄弟、姉妹、それぞれの子供たち
も入っているのではと思っている。
それと信長が仲裁のお礼をするのはおかしくないか?
信長はそういう立場ではないじゃん。
相手が斉藤家ではなかったら死んでも構わない敗戦国の親族。
もし小見の方が仲裁して丸く収まったというなら、お礼をいうのは斉藤家の方でしょう。

だいたい仲裁などした人物はいないと思う。
思いのほか斉藤家の抵抗が強く、濃姫まで一緒に死ぬのなんのといいだしたので
あきらめただけだと思うけど。

215 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 21:21:02
本妻兄弟女子16人は姉妹が16人であってると思う。

「國衆大なる衆十七人、女子之男以上卅余人」
つまり、国人17人と女子(本妻姉妹)の夫を合わせて30人あまりだから

216 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 21:21:07
>>212 信長はお礼に行ったのではなく、どちらかといったら
詫びに行ったというニュアンスに近いのでは?

217 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 21:23:19
>>215 本妻兄弟はどこに入るの?

218 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 21:35:03
>>217
兄弟姉妹=姉妹って事

219 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 21:38:55
ごめん、間違えた
兄弟女子=姉妹

220 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 21:43:23
>>216
なんで、この騒動に直接関係のない「姑」に詫びなきゃならんの?
例えば当事者である「義龍後家」に「無理強いしてすまん」くらい言うのなら
ともかく。

221 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 21:49:45
一族の長老格に頭を下げれば、一族そのものに頭を下げた事になるからな。
壷事件に関して言えば、斎藤家が団結して信長に対抗しているから
礼にしろ、詫びにしろ、姑に頭を下げにいく事はおかしくはない。
ただ、仲裁は、姑も濃姫もしたんじゃないかな?
自分は、濃姫が率先して「自害します」と言ったとは思いにくい。
「信長本妻兄弟女子十六人」は濃姫「の」姉妹16人だと思う。

222 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 21:51:29
>>220 斉藤家の長老だからだよ。騒動の発端は信長の我侭。
その我侭と無理強いのせいで、斉藤家の親族が死ぬの生きるのの騒ぎになったわけ。
道三正室の小見の方が義龍亡き後の斉藤家主流派の長老格だから、
斉藤家への謝罪を小見の方にすることは、斉藤家に詫びたことに相当する。
戦勝国の総大将の信長が敵の後家に詫びる事は絶対ありえないが、
そういう形で長老格の姑に詫びるなら、信長の面目もたつ。
城に呼び出さずに、騒動の数日後自ら姑を訪問してるしな。
直接関係ないことでも、斉藤家の一大事は小見の方に無関係ではないよ。

223 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 21:58:22
>>221 あの時点で信長に仲裁できる立場なのは濃姫だけだと思う。
双方の間で対等に接することができたのは濃姫だけだ。
しかもあの当時の信長に意見することができたのも正室の濃姫だけ。



224 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 22:34:37
自分も濃姫が仲裁したと思う。
姑のところには斎藤家の顔を立てる為に行ったと思う。
もちろん、姑も仲裁していてもいいと思うけどね。

225 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 23:05:44
濃姫が仲裁し、姑が「信長様の寛大なご処置に斉藤家一同感謝いたします」
と歯が浮くようなお世辞を言い、頭をさげて本当に丸くおさまったのだろう。
一般家庭でもよくある光景だ。



226 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 23:07:25
おぉ、確かに、一般家庭のようだ。
結局、人間同士だもんなぁ。

227 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 03:21:42
>>223
姑なら、ある意味、対等以上の立場で信長に意見できるし、
道三の未亡人としてほかの娘たちや、美濃国衆にも意見できる立場。
つまり、最も仲裁者にふさわしい。
濃姫も仲裁したと思うけれど。

228 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 10:17:13
>>227 姑といっても濃姫の実母であると同時に、敗戦国の斉藤家の親族でもある。
濃姫の実母でなければ、どこぞの国に落ち延びていた可能性もある。
美濃にとどまり、自分や斉藤家一族の身の保証をしてくれたのは信長のおかげ。
信長に対等に意見できる立場ではないよ。

229 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 10:21:05
オレ様君は分家に引きこもっててよ。
荒れるから、君には来てほしくないね。

230 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 10:41:03
>>215 素朴な疑問なんだけど、本妻兄弟女子16人は姉妹が16人で
国人17人と女子(本妻姉妹)の夫を合わせて30人あまりだとしたら、
濃姫の姉妹の夫が約13人。
この夫達は斉藤家の身内ではないよね?
斉藤一族の妻が自殺するからといって、夫達も自殺する必要ある?
斉藤家よりものすごい格下の家来筋でもあればわからんでもないけど
(それでも無理があるけど)、道三の姫たちが結婚した
相手ならそれなりの格式のある家柄の夫たちであるはず。
嫁の実家のごたごたで一緒に自殺するとほのめかすとは考えられないんだけど。

231 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 11:19:12
>>229 そうか、それならこれから分家に引きこもって松姫馬鹿の連中を
からかうこととしよう。本家のみなさましばしのおわかれ。

232 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 12:21:07
道三が死んだ途端に側室つくって子供もできてるから、信長冷たいなという気もしてたんだけど
子供もいない上に後ろ盾の道三を失って不安定な立場になった濃姫を、嫡男の母にすることで
安定したより強固な立場にしたという風にも考えられるんだね。

233 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 12:27:41
>>232 道三は亡くなっても斉藤家は無くなったわけではないから、
いざとなれば家を継いだ兄が後ろ盾になってくれたろうけど、
あの事情じゃ難しいよね。
正室が子供がいる、いないはさほど立場を弱くする要因いはならなかったと思うよ。
そのための側室制度だから。
でも嫡男の母親という立場は代わりしても前当主夫人プラス現当主母となって、
より安定したものとはなったろう。

234 :バロン曽志崎:2006/10/28(土) 12:48:36
義龍の正室一条氏は義龍と同時期に死んだ事になってますよね?

235 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 13:21:19
>>234 近江の方がどうなったかも史料がないので詳細なことがわからないのに、
別の正室がいたの?ソース教えてくれますか?

236 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 14:00:25
>>234 一条氏ってどこの一条氏の子女?初耳なので。

237 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 16:39:55
一条氏女って、摂家か土佐か武田かも分からない、
近江の方死後に義龍に嫁いだって言われている女性だっけ。
でも、たしか、それも、子供が夭折して後追う様に
死んだって言われてるんだよね。
そんで、葬儀の時に京都から僧を呼んだことで、快川国師と
仲違いしたとか……。
快川国師と義龍が仲違いしたのは事実らしいけど、
宗教統制の関係だから、多分に胡散臭い逸話だと思っていたけどな。

238 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 19:30:12
>>237 快川国師ってあの恵林寺に京から信玄に招かれた僧侶だよね?
なんで葬儀の時に義龍と仲違いしちゃったの?

239 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 19:50:21
どこの一条さんかもわからない女が義龍の正室になれるの?

240 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 20:19:24
>>238,239
なんでかは知らないよ。
そういう逸話があるのは知ってるってだけ。
どこのかは知らないけど、摂家か土佐一条か武田一条なら
近江の方が死んでいれば正室にはなれるでしょ?
家格としては正室になれない格じゃないよね。
ただ、本当になったのかどうかは私は知らないな。
快川国師が出てくるから武田一条を想定しているのかと
想像くらい出来るって感じじゃない?

241 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 20:28:59
>>240 格はつりあっていても、政治的な背景で当時の斉藤家と
婚姻関係を結ぶ必用があったかどうかだよね。
それと恵林寺に快川国師が招かれたのは義龍死後だから、
武田一条ではないと思う。

斉藤家の菩提寺常在寺は日蓮宗、快川和尚は臨済宗の僧侶だから
斉藤家の葬儀で招かれたというのもあり得ん話だな。

242 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 21:12:48
>>241
義龍が快川国師じゃない僧を京から呼び寄せて
葬儀を行おうとして、仲違いしたって逸話だから
よく分かんないよ。
快川は美濃土岐氏の出身で道三と懇意にしてたって
話しもあるからその関係かもしれないけどね。
道三を殺した義龍が快川を呼びたくなかったとか
そういう話しにしたかったのかな?
義龍と快川が宗教対立をして犬山の瑞泉寺に立てこもって
義龍に対抗したって話しは本当みたいだし、
義龍の死でその対立がおさまったっていうのもそうみたい。

243 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 21:25:32
>>242 でもさ、義龍の後妻?の葬儀なんだから、宗派も違う呼びたくない僧を
義龍がわざわざ京都から招くのは不自然だな。
葬儀とかではなく、個人的なことで京から招き、その後何かで対立していた
というならわかるけど。

244 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 21:30:28
>>243
そうなんだよね〜。
だから、胡散臭い逸話だと思ってたんだけどね。
ただ、義龍正室が一条氏女って話しは、
私はその逸話しか知らないから、
情報として提示してみたのよ。
あとは、バロンさんがどこから一条氏女を
出してきたのかで、何となく分かるんじゃないかと思うな。

245 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 21:42:40
バロンさんね、こっちのスレには書きこむ気ないっていうから、一応貼っとくね。

>>複数の軍記資料に義龍と一条氏、その子がほぼ同時に無くなったとあります
が、あのスレッドに資料価値の低い軍記類を提示する必要はないでしょう。
興味のある人は、土岐氏関連あたりの軍記を参照してください。

246 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 21:46:27
結局どこの一条氏か謎のままだ。
誰か教えてくれ。

仮にこの一条氏が正室だったとしても亡くなったわけから
壷事件の後家ではないな。

247 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 22:37:39
一条氏は一色氏の間違いか?
確か義龍夫人に一色氏という名前があったはず。
なんで見たかちょっと忘れちゃったけど。

248 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 22:52:16
一色氏は義龍の生母が一色出身だから
義龍自身が一色を名乗ったってやつじゃない?

249 :日本@名無史さん:2006/10/29(日) 01:21:39
>>243
呼びたくないとなんでわかる?
当時の武将は菩提寺の宗派とは別の寺ともつきあうのが普通。
齋藤家が日蓮だったからといって義龍も日蓮に傾倒していたかは
はなはだ疑問な所。それに義龍が呼んだのはあの妙心寺別院の僧と
言われていて義龍はこの僧に深く帰依し、この僧のために寺も建てていたり
その寺を元として美濃国内の禅宗の寺を一元管理しようとしたから
快川が怒ったことで完全に対立する。これは義輝をも巻き込んでの大騒動だった。
義龍死後はこの寺は解体、この僧も除籍という厳しい処罰をされた。

一條氏については実際の所わからない。
ただ、義龍や竜興の官位任命時期から考えると公家の可能性が高いという
見方もある。そのあたりで義龍は義輝の重要ポストにもついているから。
京から僧を呼んだのも公家であれば別に不思議ではないよ。

ここ読んでると何かにつけ浅井・織田・齋藤だけで物事を見がちだから
仕方ないけど、戦略的な意味だけでなく官位というものも
当時は重要視されているから、官位獲得のために金を積む。
そしてチャンスがあれば婚姻して絆を強固なものにするぐらいは
やっても不思議なことではない。

250 :日本@名無史さん:2006/10/29(日) 01:36:33
ってことは、摂家の一条家ってこと?
まぁ、上洛した時期とか考えても、あり得なくはないけど、
ただここで問題は、その一条氏女は義龍と同時期に亡くなってるんだろ?
だったら、壷事件の後家とは別人なんだから、このスレ的には
どうでもいいんじゃないの?
ほら、スレの主旨からはずれると怒りだす人もいる訳だしさ。

251 :日本@名無史さん:2006/10/29(日) 02:12:37
前妻は離婚して実家へ帰り、
後妻は、義竜と同時期に死んだとすると、
言継が「義竜後家」と書いたのは、誰だろう?
正室に該当者がいないとすると、やっぱり側室だった女じゃないのかな?

252 :日本@名無史さん:2006/10/29(日) 12:14:14
一条氏女の話しが出てくるやつって
前妻の近江の方の死後嫁いで来た事になてるから
話しがおかしくなるよね。
やっぱり、普通に考えて、一条の話しは
胡散臭い話だけど、それなりに複数残ってる話しなら
全くでたらめってことで切り捨てるのも、
まずい気もするね。

義龍の奥へ斎藤家に近い家から召し抱えられた
側室辺りとか?

253 :日本@名無史さん:2006/10/30(月) 09:50:28
土田弥平次が吉乃の前夫だったら濃姫の為になるって
書いてあるブログは一体何がいいたいんだ?

254 :日本@名無史さん:2006/10/30(月) 10:49:38
この前から特定のブログを、叩こうとしている奴は
そのたびにたしなめられてるんだから、いい加減にしろよ。

255 :日本@名無史さん:2006/10/30(月) 13:18:42
>>254
叩くつもりはなかったんだ。
ごめん。
ただ、土田弥平次って架空の人物だろ?
江南市の逸話に出てくる程度の。
その人物が吉乃の前夫である事を利用するのが
どうして濃姫のためになるのかが分からないんだ。
武功夜話って偽書なのに、更に架空の人物の名前
出してきて、ためになると書いてるから、
不思議だったんだ。
その人が吉乃ファンならともかく、濃姫ファンだし。

256 :日本@名無史さん:2006/10/30(月) 13:37:31
そんなことブログに直接コメントしてこいよ

257 :日本@名無史さん:2006/10/30(月) 14:03:22
理由は知りたいけど、コメントで足跡残したくねぇーーーー!
ここなら匿名だし、濃姫ヲタが教えてくれるだろうし
こっちで聞いた方が気楽だぜ!!!

ってことなんじゃねぇの?>>255

258 :日本@名無史さん:2006/10/30(月) 17:49:42
斎藤山城が亡くなった時点で濃が居ようと居まいと全く差し支えない。
その程度の存在でしかなかったので別段気にするほどでもあるまい。
歴史的に観ても存在価値は非常に低く研究するのはよっぽどの暇人。

259 :日本@名無史さん:2006/10/30(月) 18:30:14
>>258 信長の美濃攻略をよ〜く勉強しなおして出直してこい。
濃姫は織田家にとってなくてはならぬ存在だったんだよ。

260 :日本@名無史さん:2006/10/30(月) 19:32:22
>>249 葬儀のために呼ぶなら執り行なう寺の宗派の僧侶でなければ呼ばないのでは?

>>251 後家という表現は側室には使わんな。子供を産んだ側室でも婚姻関係にないから。
斉藤家の菩提寺にその後家の墓はないのかな?あれば墓石になにかしら書いてあると
思うのだが。

>>258 「娘婿に美濃を譲る」という道三の遺言書を正当化するには信長が
道三の娘婿でなくてはならなかったからな。
それと娘婿であれば義龍は義親の仇。
この両方の大義名分を得て堂々と美濃攻めをしたわけだ。
もちろん、そんなのはまさに建て前に過ぎないけどな。
なので病死はともかく、離別して美濃に返したなどということは
あり得ない。
戦国でも非常に珍しいケースだな。

261 :日本@名無史さん:2006/10/30(月) 20:20:03
【快川国師】
別伝の乱で斎藤義龍と争い、騒動の渦中に義龍急死。
信玄に恵林寺に招かれ、その後10年経たずに信玄急死。
天目山の戦い後逃げてきた六角氏の引渡しを信長に拒んだため寺ごと焼き討ち。
快川国師はじめ死者多数。


262 :日本@名無史さん:2006/10/30(月) 20:36:15
よ〜やくアクセス規制がとけた!

ずっとカキコしたかったんだけど、話が戻ってすまんが>>230
疑問がおれも気になってる。
濃姫の姉は姉小路頼綱の正室だが、例えばそんな立場のものが
斉藤家の後家のことで切腹をもうしでるか?
その他の姉妹達の夫だって似たような身分の夫だったろうし、
自分の家とは関係ない斉藤家のことで、簡単に切腹を口にするかぁ?
そこの家の当主の立場のもんだっていただろうに。

とずっと疑問だ。

263 :日本@名無史さん:2006/10/30(月) 21:30:12
ttp://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/toki/ikoma1.htm

こんなサイトを見つけた。
信用できるサイトかどうかは、各人の判断に任せるけど、
ここをみると、土田弥平次はモロに明智家の家臣だな。
濃姫と吉乃の主従関係がはっきりするな。
土田御前の出身家にしても明智の家臣筋になるとしたら、
そりゃ、姑と嫁の関係で、同じ城には住みたくなかったろうな。
やっぱり生駒氏女は、濃姫がそのような関係で
召し出したと考えた方がいいのかもな。

>>255の疑問に答えるような事書くのはしゃくに触るが。

264 :日本@名無史さん:2006/10/30(月) 22:19:37
>>249 >>官位獲得のために金を積む。

官位なんて二の次、三の次だよ。
天下を手中におさめればいくらでももらえるもんだ。
実際信長は天皇から夷大将軍・太政大臣・関白のいずれかを
与えるといわれても官位を受けなかった。(信忠に征夷大将軍と
考えていたらしいという説があるが本能寺の変がおきてしまった)
まずは武力で天下をとれば朝廷からの官位なんてどうにでもなるということさ。
逆にたかが美濃城主の斎藤義龍が金を積んで官位にこだわっても国取りには
何の役にもたたない。
農民出身の秀吉や甥の秀次だって関白になれるんだから。
春日局は家光のおかげで従二位(大臣正室、将軍正室クラス)を賜っているが
天下人になれば将軍の乳母にすらこんな異例のことも朝廷に認めさせることができる。

265 :日本@名無史さん:2006/10/30(月) 22:49:02
勲章みたいなもんだな。


266 :日本@名無史さん:2006/10/31(火) 00:00:50
>>262 そう言われてみると、ちょっと変な気もするな。

じゃあ、信長本妻(濃姫)と濃姫の実の兄弟姉妹で16人、国人衆17人、
姉妹の夫が数名(2〜3人)で、35〜36人を30人余という表現にしたとかは?
肝心の斉藤家の男子が知らんぷりで、姉妹の夫がみな妻と一緒に自殺するという
のも不自然だしな。

余談だけど、当時高価な壷は半端じゃなく価値があって、茶器なども
一国に値するぐらいのものもあったらしいから、信長は本気で欲しかったんじゃないか?

267 :日本@名無史さん:2006/10/31(火) 00:18:56
女ばかり16人ってのも不思議だしね。
>>266が以外としっくりくるな。
言継が話しを捏造したとも考えにくいしね。
ただ、「國衆大なる衆十七人、女子之男以上卅余人」だと
普通の解釈であれば17人+15〜16人=30数名だもんな。
あと、「男」って実は「女」=「娘」なんかと一緒で
「息子」って意味で使われる事もあるんだよね。
解釈が難しいところだね。

268 :日本@名無史さん:2006/10/31(火) 00:35:36
>>264
煽るならもう少しまともなこと書けよw
何でもかんでも織田基準で考えんなよヴォケ。


269 :日本@名無史さん:2006/10/31(火) 00:46:34
>>214の文章見ると、壷事件って言継卿が国人集17人のうちの一人だった佐藤から聞いた話?

270 :日本@名無史さん:2006/10/31(火) 00:57:23
>>269
そうだよ。
当事者から聞いた話しとして書いているってこと。
佐藤が夜に錫を持ってきた時に酒の上の話しってことかな?

271 :日本@名無史さん:2006/10/31(火) 01:01:41
>>270
だったら佐藤から聞いたままの話を日記に書いてると考えられるんだよね。

272 :日本@名無史さん:2006/10/31(火) 02:11:32
佐藤が「國衆大なる衆十七人」のうちの一人って確証は無いんじゃない?
佐藤って斉藤家と特に縁があったわけでもない(違ったらすまん)、さらに
かなりはやい時期に信長に降っている点をみても。
ただ、それでもこの騒動の近いところにいたことは推測できるが。

273 :日本@名無史さん:2006/10/31(火) 02:47:37
>>268 冷静で説得力のある反論をプリーズ。

274 :日本@名無史さん:2006/10/31(火) 07:59:59
>>272
確証はないね。
ただ、言継は直接そうだと聞いたと書いているから、
その辺りは尊重すべき事かも。
言継の好奇心は日記の他の箇所から見ててもすごいから。
あとさ、これだけの人数が自害するって脅せてるっていうのも、
信長がそんな事させないって、脅した側も確信があったから
出来たんじゃないかな?
「死ぬなら死ね」っていう可能性が高い相手には、
これだけの人数は言えないよ。
または、濃姫なり姑なり、仲介したと思われる人物が
信長にかなり影響力を持っていたと周知されていたか……。
濃姫なら、近江國輿地志が真実を書いているなら
前年に出産しているんだし、結婚して20年近くたって
夫婦関係が普通にある仲だし、考えれるのかな?

275 :日本@名無史さん:2006/10/31(火) 09:46:15
>>274 既出だけど、その立場でいるのは濃姫だけだと思う。
斉藤家に味方する出自であり、戦勝国の当主夫人としてかばい立て
できるだけの立場にあり、信長に対等に意見できるだけの強い立場
だったと考えると当時の正室は濃姫以外は考えられない。
美濃を手に入れられたのも濃姫のおかげというのもあって、斉藤家の
抗議に折れることになったと考えるのも自然だと思う。
姑はこの場合一歩引いた立場で自体を静観していて、実際はからんでいない
と思うんだよね。濃姫が両方の立場で間にたって仲裁したから、
事態が収拾したんだと思う。斉藤家があまり強くでるとかえって
信長の態度が強硬になる可能性もあるし。

276 :日本@名無史さん:2006/10/31(火) 10:13:39
>>267 

然者信長本妻兄弟女子十六人可為自害、國衆大なる衆十七人、
女子之男以上卅余人可切腹由也、仍中分失弗に治定、今日無事に成了、
佐藤も十七人之内也

信長の本妻の兄弟姉妹16人(濃姫除く)、国人衆17人、姉妹の夫(もしくは息子)
一人、34人を30人余としたのではないかな?女子の男は人数が書いてないので
一人だけだったのだと思う。
自分はこの女子の男を夫ではなく息子ではないかなと思っている。
美濃攻めで夫を亡くした姉妹の息子が織田に抗議の意味をこめて
申し出たのかなと。姉妹の夫は斉藤家のごたごたで腹を切るのはあり得ないような
気がして。

277 :日本@名無史さん:2006/10/31(火) 12:21:50
>>276
男女で自殺の方法が違う。
「信長本妻兄弟女子十六人」は(女だから)、自害
「國衆大なる衆十七人、女子之男以上卅余人」は(男だから)、切腹

30余人は、16人を足した数ではない。
国衆17人+女子の夫の計で、30余人
女子の夫の数は、14〜16人のいずれか

278 :日本@名無史さん:2006/10/31(火) 12:38:28
>>277 あそっか、自害と切腹でわけられているんだな。
すると自害が16人、切腹が30人余か。
もしかしたら自害は男も入っているかもよ。男女いたので「自害」という
表記をしたのかもしれない。
どっちにしても濃姫の兄弟姉妹が14人〜16人いたということになる。
でも仮にも美濃国主の姫たちが嫁ぎ先が明白でないというのは
どうしてだろう?嫁いだ先の記録もないのかな?

279 :日本@名無史さん:2006/10/31(火) 14:05:16
道三の子供だからかな?
義龍や義興からすると抹消したい系譜でしょ?
実際、義龍は明智を攻めているし、

後人数多いのは道三二代説が関係しているとか?
でも、それだと非現実的だね。

280 :日本@名無史さん:2006/10/31(火) 14:59:18
>>279 義龍は一色を名乗った時点で自分たちを斎藤から抹消させたと
いう認識だったと思う。道三とは実親子ではない、斉藤家とは
無関係というスタンスでいたろうから、意図的に斉藤家をどうこう
していたとも思えないな。

道三と義龍が戦になった時に、道三に味方するものが非常に
少なかったというから、16人もの姫は全て国外に嫁がせたのかな?
信長以外に婿が援軍に駆けつけたという話もきかないんだけどさ。

281 :日本@名無史さん:2006/10/31(火) 15:42:44
兄弟女子ってさ、濃姫の兄弟の妻とかは含まれてないのかな?
あと、信長の兄弟の妻とか、信長の姉妹。
そこまで織田家が出てくる事でもない気もするけど、
美濃をおさめていくためそのやり方はまずいでしょと
思ったとしたら、いさめるためにとか。
とにかく、それほどの大騒動だったら、他にも記録が残ってるだろうし
そうじゃない事を考えると、内々の騒動ですんだ感じだよね。

282 :日本@名無史さん:2006/10/31(火) 16:36:13
>>兄弟女子ってさ、濃姫の兄弟の妻とかは含まれてないのかな?

これはあり得るかも。
さらにある程度大きな子供たちも含まれていると思う。
「女子」には「女子供→妻子」という意味合いもあると思うから。
幼い男子ならこっちにくくられているかもしれない。
つまり濃姫の兄弟の妻とその子供たち、濃姫の姉妹とそのその子供たち
で16人だったかも。
そうなると女子の男子は「夫」もしくは「元服後の男子の子」も入っている
かもしれないな。
信長姉妹はいなかったと思うよ。
もし信長に何か意見があったら、正室である濃姫に言ってもらった
可能性ならあるかな。

283 :日本@名無史さん:2006/10/31(火) 16:54:39
>>282
なんだか、人数の疑問がスッキリしてきた感じだね。

ところで、佐藤って佐藤紀伊守忠能の事だよね?
濃姫の末弟の新五郎の養父だっけ?

284 :日本@名無史さん:2006/10/31(火) 19:13:16
>>283 その佐藤氏が17人のうちの一人かどうかはわからないけど
新五郎を養子にしたのは事実らしい。

ttp://shiroato.hp.infoseek.co.jp/tounou/filet/kazitazyou.html

ここに詳しいことが書いてるよ。
こぼれ話に思わずへぇ〜。
あの有名な町営住宅の怪奇話につながっていたなんて…

285 :日本@名無史さん:2006/10/31(火) 19:53:18
壷事件の何日か前にも「佐藤紀伊守入道」が錫を携えてきた
記述があるから、佐藤紀伊守忠能で間違いないと思う。

286 :日本@名無史さん:2006/10/31(火) 20:19:15
佐藤紀伊守忠能がその佐藤氏だとすると切腹すると血気盛んに申し出た連中は
斉藤家の名誉とか、後家のためもあったろうけど、信長の美濃攻略に際して
少なからず不快感を持っていた連中が、「信長のこれ以上の横暴許さず!」
と抗議の意味がこめられてたんだろうな。

287 :日本@uj5:2006/11/02(木) 22:19:37

「葛藤集」という禅宗の法語雑録に快川国師の一偈が次のように載せられている。
「岐陽の太守の光がつづいているが、惜しいかな昨夜病に係り、幼子が亡くなった。せめて爽やかな香が風に乗って来て此処に留まって欲しい。
菊千代を悼む。岐の治部大輔息男なり。    快川」
又、乙津寺(岐阜市)住職だった弧岫和尚の語録「弧岫録」に義龍一子が永禄三年四月に早世し、悲しみのあまり義龍夫人(一条氏)が同年七月に病死と載せている。
永禄三年七月の「春日文書」にも義龍は治部大輔だと書かれている。

義龍後家が誰なのか?
ここに登場している信長の室が濃姫としても義龍後家とは一面識も無いはずだと思うが‥。

288 :日本@名無史さん:2006/11/02(木) 22:52:34
一条氏は側室だったのでは?
どこにも一条氏が正室ととれる記述はないし、
一条氏が正室なら壷事件の義龍後家は存在しないことになるから。


289 :日本@名無史さん:2006/11/02(木) 23:06:39
近江の方が早死にもしくは離別されて近江の実家に帰され、その後一条氏
が正室になったという説は、濃姫が道三の死後実家に帰されあるいは、早死にして
生駒氏が事実上の正室となったという話と非常に似ている。
つまり両家の同盟破棄となれば、戦国時代のお約束で正室は実家に返された
はずだから、離縁したもしくは、離縁した形跡がないから早死にしたのだろう、
でなければ当時の武家の習慣と逸脱することになっておかしい、という
憶測に基づいているんだと思うんだよね。

義龍は浅井と仲違いして間もなく急死しているから、近江の方は
離縁する間もなく美濃に後家としてとどまっていたのではないかな?
浅井家縁の寺に近江の方の墓があるという話もきかないし。
そうなると一条氏は側室として義龍の側にいた女性で、子供を産んだが
夭折して、自分自身も間もなく亡くなったというだけと思われる。

290 :日本@名無史さん:2006/11/02(木) 23:30:05
近江の方が死んだから一條が来た。それだけのことだろ。

291 :日本@名無史さん:2006/11/02(木) 23:31:52
近江の方が亡くなったという史料ありますか?
それとどこの一条氏の息女なのかわかる史料ありますか?
斉藤家に正室に入ったなら実家の方からもたぐれるでしょうから。

292 :日本@名無史さん:2006/11/02(木) 23:43:23
正室が亡くなったからといって必用がなければ正室を娶ることは
しないよ。気に入った女がいれば側室にすればよいだけのこと。
近江の方が死んだのちに一条氏の女が義龍の側室になったか、
近江の方生前から側室でいたって不思議じゃないな。
どっちにしても義龍の亡くなる一年前に死んでるんだから
壷事件にはまるっきり関係ないじゃん。

293 :日本@uj5:2006/11/03(金) 06:24:35
近江の方が居たとしているのは「美濃国諸旧記」で、義龍の室は江州小谷の城主
浅井下野守久政の娘とあるが、「春日文書」にそうは書かれていない。
義龍が井の口より北(江北)と親戚関係にあると書かれてあるだけで、
江北は浅井氏を意味していると捉えているのでしょう。
「浅井三代記」などは義龍でなく龍興と記されているようです。

義龍は永禄四年の近江進攻の際に一色左京大夫義龍と名乗ったが、
五月の急死まで僅か一ヶ月の名乗りでした。

294 :日本@名無史さん:2006/11/03(金) 09:41:44
【春日文書】
この文書は古代の有力氏族のひとつ春日一族に伝わっていたとされる文書で
昭和に入ってからも「見た」という報告があるが、実物はまだ世に出ていない。

「つちのこ」級の怪しさです。

295 :日本@名無史さん:2006/11/03(金) 10:54:01
春日文書って言継さんや牛一さんみたいにリアルにその時代の有力者の
側にいて、出来事を書きとめていたのではなく、その時代に生きたであろう
春日氏の祖先が書き留めたという文書の断片だけが現物なしに出回ってるんだよな。
人づてに聞いた噂話や誇張話ばっかりの可能性もあるし、現物がなくて
専門家の鑑定もできないような史料では真偽を問うレベルではないよ。
なんか前野家文書チックなんだよね。

296 :日本@uj5:2006/11/03(金) 13:05:09
春日文書について
誤解されているようなので、申し上げますと六角承禎条書の事で
所蔵されていた方が、確か横浜かにお住まいの春日匡氏なので
春日文書と言われていますが、中身は美濃の斎藤義龍の娘と
六角義弼の縁談に反対する承禎が自らの家老達に宛てた手紙です。
一部抜粋しますと「彼斎治の儀、祖父新左衛門尉は京都妙覚寺法花坊主
落ちにて西村と申し、長井弥二郎が所へ罷り出、濃州錯乱の砌、
心はしをも仕り候て、次第に秀で候て長井同名になり、
又、父左近大夫代々の惣領を討殺し諸職を奪取り、
彼の者斎藤同名に成りあがり、剰え八郎殿、井の口へ引き寄せて
生害させ申し、其外兄弟衆、毒害、隠害にて悉く相果て候‥」

297 :日本@名無史さん:2006/11/03(金) 13:35:28
>>296 で?この春日氏所蔵の史料に義龍正室の詳細のことなどが書かれているのかな?
龍興生母のことなどは?どうでもいい史料の提示などせんでもいいから、
話の筋に合ったところを抜粋してもらわなきゃな。

298 :日本@名無史さん:2006/11/04(土) 14:03:57
>>296 この春日文書って「春日氏が個人的に収拾している史料の総称」
という認識でいいの?春日家に伝わる家伝書の類ではないわけだね。
専門家の鑑定を受け、後年作られた偽書ではないということが
明確なら、信憑性が高いような気がするけど。


299 :日本@名無史さん:2006/11/04(土) 19:36:40
桑田忠親氏も著書「斎藤道三」のあとがきで以下のような事を
書かれています。
昭和五十一年に道三の生国が山城でなく、
美濃だったとする異説が唱えられた。
その典拠が横浜市在住の春日倬一郎氏所蔵の永禄三年七月二十一日付け
の宿老平井兵衛尉以下五名宛ての書状「六角承禎条目」という
古文書である為、史実としての可能性が強いと書かれている。
油売りから美濃一国を盗んだと書かれている太田牛一著
「大かうさまぐんきのうち」は古い記録といっても
道三死後四十年たってから美濃地方の伝聞を書きとめたにすぎない。
道三死後四年目に書かれた「六角承禎条目」の記事をより確実と
みなすのが、歴史学の常道だろうとも書かれています。
これは「岐阜県史」編纂の際、勝俣鎮夫岐大助教授のちに
東大名誉教授となられた方が見つけられ東大史料編纂所の
影写本を調査し、「岐阜県史史料編古代中世四」に収録され、
のちに原本の調査もおこなわれました。

300 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 00:46:29
>>297
296は史料の沿革というものを説明してくれてもいるのに、
少し失礼な物言いだと思う。

301 :日本@名無史さん:2006/11/06(月) 02:04:28
「信長の棺」をみたが、濃姫がでてこなかった。
かわい気のないお鍋の方(浅野ゆう子)がでてた。


302 :日本@名無史さん:2006/11/06(月) 06:31:32
原作程吉乃が重要視されていないだけまし<信長の棺

303 :日本@名無史さん:2006/11/06(月) 10:00:46
自分は原作読んでないけど、
本能寺の変の直後に崇福寺にあてた書状がらみなんだろ?
ただの物語の狙いと構成上、色々人物設定はあるものさ。

304 :日本@名無史さん:2006/11/06(月) 13:16:05
崇福寺あての書状についてなんて、原作に出てきてないさ。
そんな、文献など重視した原作じゃないよ。
原作にはお鍋も出て来ないしね。

歴史上の人物が散りばめられているというだけの、ミステリーさ。
信長の遺骸がどこへ行ったか、黒幕は誰か、なんて、
史板の住民だったら、今更またその説かよ〜って思う程度。

305 :日本@名無史さん:2006/11/06(月) 13:26:27
信長よりもずいぶん年増の側室お鍋にぎょっとした。
生島、ねね、お鍋、ぜ〜んぶ同一人物にしか見えない浅野ゆう子。
原作は牛一がとんでもない色ボケじじぃ。
昔流行ったお色気歴史小説みたいなもんだ。


306 :日本@名無史さん:2006/11/06(月) 17:34:24
濃姫がうらやま。
信長に一番愛され、大切に扱われた女性。

307 :日本@名無史さん:2006/11/06(月) 18:04:05
それはいくら何でも言い過ぎ。
自分は濃姫ヲタだけど、>>306の様な断定的物言いには疑問を感じる。

308 :日本@名無史さん:2006/11/06(月) 18:33:56
>>304
へーそうなん。
原作に出て来ないお鍋をわざわざ脚色してたんだ。
要するに、ドラマの彩りってやつかな。

>306はこのレス流れでの単純レスなので
>307はそんなに気にすることも無いと思う。

309 :日本@名無史さん:2006/11/06(月) 18:42:21
嫡男を養子にさせたり、史料にある御台というのが濃姫のことであるなら、
一緒に京都に行ったり、知行をもらってあげたりと、正室としての
立場をたててあげるというのは、客観的にも読み取れる事実といってもいいと思う。
そう考えると信長の側にいた女性の中では一番信長から大切にされた?という
表現は間違ってはいないかもしれないけどな。
少なくとも冷め切った夫婦で信長からもなおざりにされていたという
ことはないとは思う。あくまで史料の御台が濃姫という前提の話だけど。

310 :日本@名無史さん:2006/11/07(火) 08:29:17
一番かどうかは知らんが、文献から見ても大切にされてたんだろうと思うよ。
御台が濃姫じゃなかったらって前提なら、誰が御台?ってことになるしね。
永禄12年の信長本妻を、濃姫以外の斎藤家の女性としても、
それに該当する女性がいない。
永禄12年以降に、本妻、御台が変われば、上洛後だから公家衆が嬉々として
記録に残していると容易に推測できる。
それがない以上、御台=濃姫とするのが、一番スッキリするだろうな。

311 :日本@名無史さん:2006/11/07(火) 11:06:37
当時の正室は愛情があってもなくても、当主から>>309のような同様の対応を
されたのかな?ねねは秀吉から特別待遇だったのは史料からみても
よくわかるけど、それは愛情と信頼関係が基盤だったろうしな。
濃姫に特別愛情を持っていたかどうかは史料だけでは確証がないような。

312 :日本@名無史さん:2006/11/07(火) 12:25:09
信長は、ねねへの手紙で焼餅を焼くなとか、
理想の妻像を説教しているけど、
それは自分の妻が念頭にあったんじゃないかな?

313 :日本@名無史さん:2006/11/07(火) 12:39:54
>>312 
当時の有力武将の家では側室を作って子供をたくさんもうけることが
家の繁栄にもつながるわけで、信長自身もそういう境遇で育ってそれが
当たり前だと思って過ごしてきた。
下級武士出身のねねにはそのあたりの認識が不足していたんではないかな。
今後秀吉の出世に伴ってそのへんの認識を改めることは有力武将の正室なら
当然の心構えだと認識せよ、ということも言いたかったんだと思う。
濃姫自身も何人も側室をもった道三の姫だし、信長の側室にいちいち
焼もちをやく、「側室は正室の借腹」という認識で育っていたはず。
それでも信長がなんとなく濃姫に気をつかっていたと思われるような
様子が伺えるから、実子のいない濃姫をけっこう気遣っていて、
同じ子なしのねねと重ねあわせた部分はあって同情し、
あのような優しい手紙を書いたのではと想像してる。
ねねの人柄もそういう信長の気持ちを引き出すようなところがあったんだろうな。
信長って率直に感情表現をしてくる相手には意外と寛容だった?かもしれない。

314 :日本@名無史さん:2006/11/07(火) 13:05:52
ねねの愚痴に寛容だったのは、その愚痴の内容が自分とかぶらなかったからだろうな。
前に誰かも書いていたけど、本妻をないがしろにして側室に入れ込んでいたりするような
信長であったとしたら、その愚痴がそのまま自分への批判になる訳だからな。
そう考えると、信長は秀吉のような事はなかったんだろう。

315 :日本@名無史さん:2006/11/07(火) 14:47:03
信長に手紙を書いた頃だって、秀吉はねねをないがしろにしてまでは側室に
入れ込んだりしてなかったろ?
秀吉だってなんといっても血をわけた跡取りの子供が欲しいということが何よりの
目的だったろうし。
ねねに子供がいれば「武将の妻のくせにそんなことを愚痴るとは」となるけど、
子供がいないからああいう文面になって秀吉を叱り、ねねをもちあげて、
慰めたように思う。

濃姫も信長の前で子供が産まれないことをシクシク泣いて詫びたりしたことが
あったのかもしれんな。
秀吉のように他の側室にも(淀殿を除く)子供が産まれないと明らかに
秀吉に原因があったろうからねねもあきらめられるだろうけど、
信長は他の側室にはどんどん子供が産まれているから不妊の原因は明らかに
濃姫にあったことがはっきりしてるし、辛かったろうな。

なので例の御台出産が濃姫であればうれしいと個人的に思う。


316 :日本@名無史さん:2006/11/07(火) 18:30:43
あの手紙の頃の秀吉の側室って南殿?

317 :日本@名無史さん:2006/11/07(火) 19:28:33
「その方の美貌も前に会ったときに比べて10のものが20になるほど
美しくなっている。藤吉郎がなにかいっているが、言語道断。
何処を尋ね歩いても、あの剥げ鼡には、その方のような女性は見つからない。
これから先は陽気にふるまい、奥方らしく心を大きくもってやきもち等は
妬かないように。
夫を立てるのが女の役だから、慎み深く世話をしてやるように。 
この手紙は秀吉にも見せること」

信長ってかなり細やかな性格だったみたいだね。
かなり親身になってくれてるのがわかる。

ねねが秀吉が長浜城主になる前に囲っていた南殿(ねね公認の側室ではなかった)
を、ねねの承諾も得ずに長浜城に住まわせ、しかも秀吉の子供も連れていた
のに、一言も知らされていなかったことを怒って、信長に愚痴を言ったらしいんだ。
正室のねねの知らぬ間に木下家の嫡男になったかもしれない男子が同じ城に
住んでいたなんてあり得ないから、ねね公認の側室が産んで、子煩悩な秀吉が
子供のもとに通ってばかり(つまり南殿のところにいりびたり)になって
しまったので、寂しかったんじゃないかな?
でも南殿がねねを差し置くほど秀吉の寵愛を受けていたわけではないと思う。
子供が夭折した後は南殿の存在はまったくないし。

318 :日本@名無史さん:2006/11/07(火) 19:55:03
>>317
その愚痴の経緯が本当なら、ますます、信忠養子の件は
生駒屋敷に隠してた男子を嫡男にしたなんてバカな事を
信長はしていなかったという事だな。

319 :日本@名無史さん:2006/11/08(水) 10:29:25
南殿に秀吉の子供がいたというのはかなり怪しいと思ってる。
正室に嫡男が生まれない時は、側室に男子ができれば正室が
産後すぐに取り上げ、自分の手元に置いて育てた。
あの淀殿だって最初の子は生後まもなく離され、ねねのもとで
養育されていた。
もし南殿が男子を産んだなら、ずっと子なしだったねねが取り上げ、
嫡男に相応しい教育をしたはず。
南殿が秀吉の子供を産んだということはなかったのかもしれないし、
あるいは、絶対に秀吉の子であるという確証がなかったので
正式な子供として扱えなかったかのどちらかではないかな?
どっちにしても男子は夭折したということだし、もう一人産んだはずの
女子についてはその後の消息さえわからず、あの当時の秀吉の立場なら
子供の消息不明というのは不自然なので、子供は存在しなかったと
思っている。

320 :日本@名無史さん:2006/11/08(水) 14:18:46
このスレのどこかにもあったと思うけど、当時の乳幼児の死亡率は5割とも
6割ともいわれていた。11代将軍家斉は男子28人、女子27人をもうけたが、
成人まで育ったのは男子13人、女子12人、半分以上が乳幼児期に亡くなって
いるんだ。
ねねも濃姫も実は妊娠、出産経験はあるかもしれない。
流産、死産、夭折、などの場合は史料や家系図に残さないので、
二人は子なし(石女扱い)となっているけど。
濃姫が「御台出産」で産んだ子が勝長だった可能性は無きにしも非ずだけど、
勝長の生母の記録がないなら、子は勝長でなく出産後間もなく夭折したという
可能性のほうが高いと思う。

321 :日本@名無史さん:2006/11/08(水) 16:09:55
>>320
勝長かどうかはともかく、流産、死産、夭折はあったろうね。
中途半端に期待を持たせるような状況だったから、
結婚後7年側室がいないという状況になったんじゃなかろうか?
本当に、全く妊娠すらしてなかったら、もっと早く側室を持っていたはず。
それに、流産なんかだと、奥から外に話しが漏れる事もないから、
近しい人間以外は知らないという状況。

しかし、系図に載らないから、子供がいなかった、妊娠すらしていない
信長に嫌われて手さえ付けられなかったなんて話しがまかり通る訳だよな。

322 :日本@名無史さん:2006/11/08(水) 19:20:54
そう考えると江与は当時では驚異的な安産タイプの女だったんだな。
前夫との間にも子供がいたというし、妊娠しやすく、安産で、
子供達に健康な遺伝子を残しているから立派だ。
どうやら不妊症であった秀吉の子供を二度も授かった
茶々もそのタイプだったのかもな。

323 :日本@名無史さん:2006/11/08(水) 20:28:16
母親の市からして、4人子供生んでるんだからな。
9年の間にだから、2年ごとだろ?
その間に流産はともかく、死産、夭折は、はさんでなかったんだろう。
そういう体質を受け継いだんだろうな。
孕みやすい女性って、確かにいるしな。

生駒氏女も信忠が生駒氏女の実子だとすれば、3年連続だし、
孕みやすかったんだろう。
そうすると、徳姫以降ぱったり子が生まれていない事を考えると、
その辺りで閨から遠ざかったのかも。
徳姫誕生の翌年に、馬借としての国中往還認可が生駒家にでてるから、
実はそれは奥を下がったねぎらいの意味があったのかもな。
そして、その後仏門に入ったとしたら、法名が大禅定尼つきのものでも
自然と考えられる。

324 :日本@名無史さん:2006/11/08(水) 20:48:37
お市は1567年に浅井に嫁いで、小谷城落城が1573年だから、6年間の夫婦生活で
1569年に茶々、1570年に初、1573年に江与を産んでる。
ほとんど年子で一年おき。
かなり妊娠体質だったようなので、その血を色濃く受け継いだのが
江与だったんだろう。

長男の万福丸はお市が嫁ぐ前に生まれているから、生母は側室の誰か
だと思う。次男の万寿丸がお市の子供であった可能性は高いと思う。
(誕生は571年か1572年あたりか?)
一説によると万寿丸は近江長沢村、福田寺住職になったとあり、
お市の実子だったために、浅井の血を引く男子であっても命を助けてもらえた
のではないか?という推測も成り立つ。

325 :日本@名無史さん:2006/11/08(水) 22:42:56
生駒氏が信長の側を下がったのは年齢的なものでは?
30才を過ぎると褥を辞退するときいたけど。
たしか生駒氏って信長より年上なんだよね。
お褥辞退という制度は大奥のことだったかな?
正室は年は関係なくお互いの自由意志?で同衾できたそうだけど。

326 :日本@名無史さん:2006/11/08(水) 22:56:18
信忠生んだ時点でかぞえで30だからなぁ。
国中往還認可が出た永禄3年には33歳。
側室にした時期が、まず遅いよな。

どこかで書いてる人がいたが、犬山城の勘定方の家臣だった生駒家から
人質として、生駒家の側室が必要だったんだろうなぁ。
生駒家の親戚かもしれない土田御前は、弟の信勝についてたし。
犬山城は義龍と結びついてたし。

327 :日本@名無史さん:2006/11/08(水) 23:20:55
江与は30代でがんがん産んでたなぁ。
ガラシャも妊娠しやすいみたいだね。
嫁いですぐ年子で二人生んで、幽閉後は即行次男を生んで、
その後二人産んでる。夫婦仲が最悪だったといわれているけど
やはり妊娠しやすい体質だったんだな。
光秀のことがなかったら、まだ若かったし、夫婦仲もこじれることが
なかったろうからもっと子供を産んでいた可能性があったな。


328 :日本@名無史さん:2006/11/09(木) 10:11:58
>>325 うる覚えで申し訳ないけど、30才お褥辞退は大奥の制度だったと思う。
避妊の方法も確立されていなかったから、母体を守るためという名目だけど、
本当はいつまでも特定の女性に将軍の寵愛が独占されると、派閥的な
問題が生じるので、そうしたという話だ。正室もそうだったらしいが、
他の側室と違い、褥辞退をしても将軍と同席する機会はたくさんあったし、
立場は大奥トップだったから、そのあたりの感覚は戦国期の正室の立場と
あまりかわらないかもしれん。
戦国期や江戸期でも他の大名の奥ではどうだったかわからんが、
お江与の方が30過ぎても産んでいたなら、戦国期は30才で褥辞退という
ことはなかったと思われるが、あくまで推論。

昔の女性は初潮とともに嫁ぎ、13〜14歳でも子供を産むのが当たり前だったし、
平均寿命も短かったから、30才を過ぎても出産するのは、ものすごく無謀なこと
と思われてたかもな。

329 :日本@名無史さん:2006/11/09(木) 11:29:46
前田利家正室の松も多産だな。二男六女で最初の長女出産が12才で末っ子は33才の時。
息子も利長と利政で16も離れてて松と利長、利長と利政じゃ前者の方が年齢が近い。
庶民ならともかく、武家の正室でこれだけ長期に多産の例はちょっと他は見当たらないな。

330 :日本@名無史さん:2006/11/09(木) 12:32:52
年齢で言うなら池田輝政の正室は40過ぎでも産んでいる。
家康の娘からしてこれだからあんまり年齢どうのは無かったんじゃないの?
子供の数で言うなら森可政や北條氏政の正室(こっちは諸説あるけど)も多産。

331 :日本@名無史さん:2006/11/09(木) 20:09:43
江与って秀忠の間に三男(長男夭折)五女、前夫の間に一女、さらに最初の夫の
間にも二子?いたという話もある。確定しているだけで9人!!
松は二男六女で8人!
犬なみにお産が楽なのだろうか?

332 :日本@名無史さん:2006/11/09(木) 23:34:23
昔のお産シーンをTVでみると、釣り下がった綱にしがみついて無理な姿勢でのお産。
むちゃくちゃ痛そう・・・
松や江与はあれほど苦しまずにスポンと産まれるのだろうか?

それと濃姫が出産したといわれる寺での火事事件。
出先であっさり平産だったといことは、初産ではなかった
と思った。高齢出産で初産ならかなり難産になりそう。
産み月なのに信長と一緒に輿にのって遠出したくらいだから、
実は経産婦でお産なんて慣れたもので余裕だったってことは?ない?
でなきゃ高齢初産の身で遠出しないと思うんだけど。

333 :日本@名無史さん:2006/11/09(木) 23:57:59
産み月かどうかなんて、今みたいに超音波がある訳じゃないから
正確には分からんからなぁ。

あと、昔から妊婦に火事は見せちゃ駄目だって言うだろ?
早産に繋がりやすいと昔の人は考えていたらしい。
あと、痣のある子供が生まれるって言うのもあるな。
火事で少し早く生まれたんだったら、小さい子供の可能性があるので
安産になるな。
子供の方は生き延びれるかは微妙になるが。

334 :日本@名無史さん:2006/11/10(金) 00:18:54
綱につかまるのはいきみやすくするためだろうけど、座産や
膝を突いて重力を利用してのまさしく産み落とす姿勢は別に
無理な姿勢ではなくてむしろ楽に産める自然な姿勢と言われている。
今では当たり前の仰向けの方が実は苦しいと指摘する専門家も少なくなくて
座産タイプの分娩台を取り入れたり仰向け以外にも好きな姿勢で産める
アクティブバースを取り入れる病院が増えている。
それと生活環境や食生活、骨格の違い等もあり産む苦しみは変わらない
だろうけど、楽な生活に慣れてしまっている自分達よりかは耐性も
本能の部分もあっただろうから、スポンとまではいかずとも案外楽な方だったんでは
ないのかなと。今では叩かれることも多い助産士だけど昔の俗にいう
産婆さんの技術はかなりのものだったとも言われているし。

335 :日本@名無史さん:2006/11/10(金) 01:39:51
>>334 動物のように四つんばいになったり、横寝で出産するのも楽な姿勢
だと言われてるね。人間も哺乳類だからかな。

なかなかでない時は産婆さんが手をつっこんで、赤ん坊の頭を細長くして
取り出したそうだ。赤ん坊の頭蓋骨はやわらかいので、産まれたあとに
修正できるとか。
なので昔の産婆の手を小さくなければダメだったらしい。
それと出産以外の産婆のもう一つの重要な仕事は間引きだったそうだ。

ところで、松にしてもお江与にしても、お産も軽いんだろうけど、
産後の肥立ちも相当早く回復したんだろうな。
年子なんてそれこそ出産後すぐにまた孕むわけだろ?
妊娠しやすい→つわりも軽い→出産楽チン→肥立ちも順調→また妊娠…

336 :日本@名無史さん:2006/11/10(金) 01:50:51
子宮の場所によっては臨月でもまったく目立たない妊婦も
いるそうだから、もしかしたら濃姫もそのタイプでまさか産み月とは思わずに
大丈夫だと思って遠出しちゃったのかな。
部屋でこっそり赤ん坊を産んでる女子高生ってこのタイプだよね。
必ず周囲では誰も妊娠に気がつかなかったって言ってるし。

337 :日本@名無史さん:2006/11/10(金) 01:57:51
乳母がいたから年子でもいけたんだろうね。
自ら母乳だと授乳期間中の数ヶ月は生理が止まるから
年子は難しいのが現実だし。中にはそうじゃない人もいるけど。
今ほど産婦人科学が発達していなかったにも関わらずこの知識を
昔の人は経験から?知っていて乳母制度が発達したという見方も
あるらしくておもしろいなと思った。
お蚕さんが繭を作る周期と女性の周期がだいたい同じことから
生理予定日を計算していたという話もあるし、昔の女性の方が
自分の体とかについてもわかっていてきちんとケアしていたから
何人産んでも大丈夫な体だったのかもしれないよね。

338 :日本@名無史さん:2006/11/10(金) 09:41:54
個人的には永禄元年3月生まれとされる信雄と、弘治3年生まれとされる信忠。
さらに、弘治2年9月に側室になったと言われる生駒氏女が、時系列的に
矛盾はないのかが気になってる。
前スレで計算してくれていた人がいたが自分でも、計算してみたんだが、
例えば、旧暦で計算して、生駒氏女が弘治2年9月に側室になってすぐ
身籠ったとしたら、信忠は弘治3年の6月半ばに生まれる事になる。
当時、産後一ヶ月は、床上げしないから、性交渉もないことになるから、
一ヶ月後にすぐ性交渉があったとして、それですぐ身籠ったとしても、
信雄の生まれは永禄元年の4月半ばになる筈なんだよな。
信雄の誕生は4月末って説もあるから、それならギリギリ行けるのかな?
どちらにしろ、妊娠中の女性には、武将はあまり触れてはならなかったって
慣習があった時代だし、性行為なんてもってのほかなんで、
生駒氏女は、信雄が生まれるまでは、数少ない性交渉でうまい具合に
妊娠したと考えられるだけで、寵愛されたとするには、妊娠の時系列的に
ちょっと疑問が残るな。

339 :日本@名無史さん:2006/11/10(金) 12:57:26
誰かも書いていたけど、極端な話生駒と信長はたった3回だけの交渉だった可能性も
ある。年子でしかも第3子出産後体調がすぐれず、側を遠ざかったようだし(事実
その後子供が生まれてないし)、そう考えると交渉そのものの数もけして多かった
とは思えない。
生駒が信長の嫡男を産んだ=寵愛が深いということもなく、
よくいる側室の一人で、濃姫も認めるような人柄、出自で、まさに
正室の借腹に徹しただけの女性だと考えるのが自然だと思う。
武功夜話のせいで生駒が正室なみに扱われ、信長の寵愛を受けたという
イメージが定着してるけど、事実だけを考察すると、結局生駒は
側室の一人にすぎず、特別寵愛を得ていたわけではないということになる。

340 :日本@名無史さん:2006/11/10(金) 16:22:41
>>339
出自といや、そりゃそうだよな、死んだ夫が明智の家臣筋だもん。
死んだのも、どうやら明智城の戦いのときらしいじゃない。
濃姫が面倒見るって言って、側室に引っ張り上げたんじゃないの?
もう30なんて言ったら、あの当時大年増。
年齢も年齢だから、再婚の話しなんて、政治がらみじゃなきゃないけど、
当時の生駒で政治がらみで、大年増を再婚させるような相手なんていないでしょ?
でも、信長は犬山城の納戸頭の生駒家から人質目的として側室に据えたって事でしょ?
生駒家の目的は、関ヶ原と一緒で保険目的かな?

341 :日本@名無史さん:2006/11/10(金) 18:09:15
30才前後のの子なし女を側室にあげたとしたら、信長がよほど気に入ったから
ということはないか?
子供を作るための側室制度だから、そう考えたらもっと若くて、たくさん
子供を産めそうな女をえらぶか、年がいっていても既に子供を何人か
産んでいる女性を側室にえらぶはずだと思うんだよね。
なので信長自身が生駒を見初めて側室にしたという可能性は考えられるけど、
かといって寵愛を一身に受けたという事実もなさそうだな。

やんごとなき身分の姫君の子沢山の話だけど、香淳皇后も二男五女の7人の
子沢山。島津藩主と久邇宮の血を引く深窓のお姫様だけにすごいかも。
なかなか男子が生まれなくても、子供がすぐにできる体質なので
側室を見送ったという話があったが、秀忠&江与夫妻と似てるな。

342 :日本@名無史さん:2006/11/10(金) 18:25:08
生駒氏は子供ができやすいタイプみたいだし、以前の結婚で子供を産んだ経験はあったんじゃないの。

343 :日本@名無史さん:2006/11/10(金) 18:28:40
子供いたんじゃないの?
死別だから、離縁と違って子供連れ帰る事もないし。

344 :日本@名無史さん:2006/11/10(金) 18:34:44
徳姫も普通に2人の姫を残して戻ってるよな。

男子を産んでたら、夫が死んでるんだから、それこそ残して来ないとな。
女子でも、婚家と実家が敵対関係になっての離縁じゃないんだから
残してくるわな、普通。

345 :日本@名無史さん:2006/11/10(金) 20:01:14
土田に残した生駒類の子供は大したことがなかったので
生駒家のご自慢のネタにはならず、スルーなのね。
信長側室のことだって嫡男の生母でなければ特別自慢にもならんことなのにな。




346 :日本@名無史さん:2006/11/10(金) 20:58:21
ところで、生駒死後は子供たちは誰の監護で養育されたの?
信忠は嫡男だから、生駒生存中から母親から離されて養育されていたろうけど、
信雄や五徳はまだ7,8才ぐらいで、母親の監護が必要だったろうに。
濃姫が母親代わりをつとめてたのかな?

もしそうなら、子なしといっても信忠は養子にしたし、二人の幼子を
手元で養育できたわけだから、そんなに肩身の狭い思いをしたわけでは
なかったと思うのだが。

347 :日本@名無史さん:2006/11/10(金) 21:19:22
>>346
本能寺の後、信雄が安土殿を庇護したという話から、そういう関係じゃないかと想像していたが。

348 :日本@名無史さん:2006/11/10(金) 21:46:22
早く死んだ側室の庶子の養育の後見人になるのは
正室の通常の役割だからな。

349 :日本@名無史さん:2006/11/11(土) 01:07:13
少しは史料の裏づけのある推論をしろ。

350 :日本@名無史さん:2006/11/11(土) 01:20:15
女性に関する史料なんてそうそう残ってないしな

351 :日本@名無史さん:2006/11/11(土) 01:40:35
じゃぁ、史料の裏付けがないから、信雄と徳姫は乳母が単独で養育したって思ってる?
そんなのはあり得ないでしょ?
誰かの庇護がいる。
信長がそんなに目を配れる訳じゃないんだし、生駒家が世話するにしても
当時の慣習上、正室が後見するのは通常の行動でしょ?

生駒氏女が、妊娠しやすかったのは、まず間違いないしね。
そうならば、前の夫が種無しじゃなければ、普通に子供産んでると考えても
あたりまえじゃない?

どのような推論だったら、おかしくないというの?

352 :日本@名無史さん:2006/11/11(土) 02:20:39
史料が残ってないのはそうなんだけど
推論ばっかで話が進むのも実にならない感じではあるな。

353 :日本@名無史さん:2006/11/11(土) 09:38:52
一般的な当時の慣習からすると推論であっても、それ以外の可能性は考えられない。
嫡男以外は実母の監護のもとに養育されて、腹違いの兄弟姉妹は普段あまり接する
ことなく生活してた。
正室の仕事は当主代理と、奥関係の統括で
当主の子である側室やその子供たちの管理統括者でもあった。
史料などがなくても、生駒亡きあとはその子の監護責任者は
正室である濃姫に託されているのが当たり前と考えてよいと思う。

側室は正室の借腹、生まれた子供は自分の子ではなく正室の子、というのが
元々の側室制度の前提だから、側室である生母が生きていても、正室も母と呼ば
せているケースは珍しくない。

生駒が五徳出産後肥立ちが悪く体調を崩し、その後出家したということから、
死後濃姫が面倒をみたのではなく、少なくとも出家するにさいして城を下がった
はずなので、その時点で子供達を濃姫に託していると思うよ。

そうなると、子供たちは本当に幼少の頃から濃姫を母親として接したろうから
親から離されて養育されていたであろう信忠よりも濃姫に情をもっていたかも
しれない。(ここは完全に憶測だけどね)

354 :日本@名無史さん:2006/11/11(土) 11:56:14
>>353 当主の子供はどれも「○○家の子」。
正室の子という扱いになるのは、正室のみが当主と婚姻関係にあるからだ。

355 :日本@名無史さん:2006/11/11(土) 12:06:36
3年子なきは去れなんていうのは、農民や庶民のレベルの話なんだろうな。
江戸期までの武家の婚姻は跡取りを産むことより、
両家の利害関係のためというのがメインだから、
子供がいないことを理由に追い出されることはまずないだろう。
そのための側室制度だし。
逆に両家に不和が生じたら、何人子供がいても婚姻関係も破綻し、
正室が実家に戻されてる。

子供がいなかったことで正室の濃姫の立場が脅かされる事はなかったろうけど、
道三亡き後に道三の遺言書がなかったら、微妙な立場になったかも。

356 :日本@名無史さん:2006/11/11(土) 13:27:43
だから、信忠を養子にして立場が脅かされない様にしたのかもという
推測が出てくる訳だ。
立場が微妙じゃなければ、まだ妊娠出産の可能性のある年代の濃姫に
養子をとらせる必要などないからね。

357 :日本@名無史さん:2006/11/11(土) 14:13:23

>>355
ところで
妙覚寺にある道三の遺言状は本物なのかねぇー。
花押が無いし、当国と書いていいはずなのに、
美濃国と書いてるし、織田上総介と書いたり、
信長と書いたりしてる。
天文22年頃の道三書状のように三郎殿とか
三郎殿様、あるいは上総介殿とは違い、
何か第三者が書いたようでもある。


358 :日本@名無史さん:2006/11/11(土) 15:28:14
遺言状の文面ってのは普段の手紙とかより畏まった言葉遣いになるもんじゃないの。

359 :日本@名無史さん:2006/11/12(日) 01:03:45
>>357
筆跡鑑定すれば、道三の筆かどうか明白だと思うが。

360 :日本@名無史さん:2006/11/12(日) 01:29:53
正式な鑑定してないの?

なんで妙覚寺に保存されてるんだ?
信長の手元にあるもんじゃないか?
安土城が焼けた時に焼けちまったというほうが信憑性が高い。

361 :日本@名無史さん:2006/11/12(日) 01:44:03
確かに道三遺書は信長の美濃攻めを正当化するために
後年作られたもとだという説はある。

確かにタイミングよすぎるし、義龍以外の自分の息子を差し置いて、
いくら婿殿とはいえ、かつての仇敵織田家に譲るというのはどうも不自然。

さらに作られたのは江戸期という説がある。

江戸時代はカッパのミイラだの、鬼のミイラだのまでつくってたからな。。

まだなら道三の自筆の書簡と比較して真偽を鑑定して欲しいな。

362 :日本@名無史さん:2006/11/12(日) 03:50:25
譲り渡し状と遺言書は一緒じゃないよ。
妙覚寺にあるのは、かつて道三が修行した寺で、新五郎ともう一人の息子を
妙覚寺でかくまってもらうために逃がしたときに、持たせた手紙。

その中に、娘婿の信長に、美濃の譲り状を遣わしたってなってる。
「わざわざ申しおくり候意趣は、美濃の国大桑において、
 ついには織田上総介の存分に任すべきの条、
 ゆずり状信長に対して渡しつかわす。
 其の節たらば下口出勢眼前なり。

 その方のこと、堅約のごとく、京の妙覚寺へのぼられたるはもっともに候。
 一子出家すれば九族天に生ずといえり。かくのごとくととのい候。
 一筆なみだばかり。

 よしそれも夢、斎藤山城ここに至って、法華妙躰のうち、
 生老病死の苦をば、修羅場において仏果を得る。うれしいかな。

 すでに明日の一戦におよび、五躰不具の成仏うたがいあるべからず。げにや

 捨ててだに  この世のほかは  なきものを
   いずくかついの  すみかなりけん

 弘治二年四月十九日
     斎藤山城入 道三
 児まいる 」

363 :日本@名無史さん:2006/11/12(日) 07:36:11
遺言状一通じゃないよね。
実は大阪城天守閣にも、もう一通所蔵されている。
こちらも弘治2年4月19日付けで(児参る)と宛名書きがあり、
文面もほぼ同じだ。こちらは花押がある。
両方が本物なら紙質も同じでなければおかしい。
実際紙質は違うと判定されている。
それに様式も違う。
妙覚寺に在るものは折紙風で一段書き。
大阪城に在るものは堅切紙様式。


364 :日本@名無史さん:2006/11/12(日) 13:06:42
信長が偽造するなら、
自分宛の「譲り状」そのものを偽造するだろう。
美濃国衆の投降を誘うために。

それと、
子供宛の遺言状が2通あるのは、
誰かが写しを作成したのじゃないかな?
それも筆跡鑑定すればはっきりすると思うが。

365 :日本@名無史さん:2006/11/12(日) 13:23:09
大阪城の方が本物で、妙覚寺が写しだと普通に信じてましたよ。

366 :日本@名無史さん:2006/11/13(月) 19:21:20
信長が偽造させたというのは考えにくいな。
そんなもんなくても美濃を攻略して結局手に入れただろうからな。
後世作られたというのも説得力がないな。
事実上滅んだ織田家が美濃攻略の正当性にこだわる理由がない。

徳川みたいにずっと天下人に位置する立場にいたなら、徳川の過去の世間体の悪い
出来事を都合よく書き換える小細工はするだろうけど。
嫡男切腹を信長のせいにするために、五徳の手紙を利用したりしてるし。

なので、譲り渡し状は本物(道三が本当に信長あてに作成した)で、
二通のうちどっちかが、何かの理由で作られた写し、
あるいは、両方とも写しという可能性もあるかもな。

367 :日本@名無史さん:2006/11/13(月) 20:01:20
妙覚寺の方は、江戸時代に織田家が寄贈したって前に書いてた人いなかったっけ?

368 :日本@名無史さん:2006/11/13(月) 22:17:37
>>366
> なので、譲り渡し状は本物(道三が本当に信長あてに作成した)で、

テラワロス
本物もなにも、信長宛の譲り状は現存しないよ。
たぶん、安土城とともに消失。
いま話題になってるのは、道三の息子・新五郎宛の遺言状。
その中に、「信長に譲り状を送る」と書いてある。

369 :日本@名無史さん:2006/11/13(月) 22:33:36
子供宛の遺言状って、将来安全になってから信長に
とり立ててもらえる様にって、道三の息子だって証拠だったのかなぁ?

370 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 02:28:50
>>369
「美濃の国は信長に譲るから、
お前は、国主になりたいなどという気を起こすんじゃないよ。
お前は、坊主になることが身の安全であるし、
この父の菩提を弔ってくれよ」ってところだろう

371 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 09:04:18
>>370
なのに、結局武将になったんだよな、新五郎。
そして、信忠と共に二条城で討死……。
親の言う事は聞くもんだな。

もう一人の弟の方は、妙覚寺で坊主として出世したみたいだが。


372 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 09:37:12
すまん、整理して教えてくれるか?

>>362のは譲り渡し状ではなく、新五郎宛の遺言書で、信長に書いた
譲り渡し状は別にあって、道三が新五郎に託したということ?

ということは大阪城にあるのも、新五郎宛の遺言書?

それとも、この新五郎宛の遺言書=信長への美濃の譲り渡し状という
解釈だったの?

そのあたりがごちゃごちゃしててよくわからん。

373 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 09:44:38
>>372

譲り渡し状は、現状実存していない。
信長がもっていたはずなので、安土城とともに焼けたと考えるのが
一番自然だろう。
>>362は妙覚寺にある、道三が妙覚寺に逃がした新五郎ともう一人の息子の
二人に持たせた手紙というか遺言状。
大阪城には>>362とほぼ同じ文章で、花押付きの遺言状がある。
妙覚寺の方には、花押はない。
つまり、大阪城と妙覚寺にある遺言状は、本物と写しのそれぞれだという
可能性があるってこと。
もちろん、どちらも写しの可能性も考えられるが。
筆跡鑑定してみれば、分かる事だと思う。

ちなみに、妙覚寺にある方は、江戸時代に織田家が妙覚寺に寄贈したもの。
新五郎が織田家の武将になった事を考えると、仕官する時に写しを持参したという
可能性もあるのではないかと思えるな。

大阪城にある方の来歴は知らないので、詳しい人の説明求む。

374 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 09:53:11
あと、譲り渡し状を信長に持っていったのが誰かは分かっていないはず。
新五郎は、尾張には寄らずに、直接妙覚寺に向かったはずだし、
道三も遺言状の中で、信長に譲り渡し状を送った事を説明しているくらいだから
別の人間が持って行ったと思える。

375 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 09:55:24
妙覚寺にある遺言書は道三生前からすでに出家して妙覚寺の貫首になっていた
実息子の19世日饒上人宛てに書いた遺言書だよ。
だから妙覚寺に保存してあったの。


376 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 10:26:18
でも妙覚寺も本能寺の変の時に焼失してるんだよね。
遺言書そのものは存在したとは思うんだけど、
現存する妙覚寺の遺言書が道三直筆のオリジナルかどうかは疑問だな。


377 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 17:44:25
『妙覚寺は天文17年(1548)、19世日饒(にちじょう)上人が
旧地二条通衣棚に復興している。
この頃から、妙覚寺は本能寺と共に織田信長の上洛時の宿所とされた。
これは日饒上人が斉藤道三の子であったこと、
信長の妻・濃姫が道三の娘であったためと考えられている』

本能寺の変と時は妙覚寺で前日に茶会を開き、信忠が宿泊してたんだよな。
織田家とは濃姫つながりで縁があったわけか。

378 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 21:03:12
新五郎が妙覚寺に行ったのは、実兄が貫首だったからなんだな。
兄に道三の遺言書を渡しに行ったってことか?
オリジナルかコピーかしらんが、妙覚寺に道三遺言書があるのも納得。

379 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 21:24:07
道三自身が、妙覚寺で修行していたしな

380 :日本@名無史さん:2006/11/15(水) 00:02:48
>>377
19世日饒(にちじょう)上人は道三の子かどうかはっきりしていないのでは。
日覚は妙覚寺で修行して天正三年に常在寺第六世住職となっている。
フロイス「日本史」によると日覚も道三死後遺言状を持って妙覚寺へ
行ったのではなく、義龍が弟日覚を日蓮宗妙覚寺に入門させたと書かれている。
これが史実なら遺言状など持って行く訳が無いという事になります。
新五郎は尾張の信長のもとへ逃げたと思われるので可能性としては彼かな。
もう一人の子斎藤玄蕃助利尭がはっきりとしない。
本能寺の変後岐阜城を占領した人物で、織田信孝の家老となり、弟新五の所領加治田を
領した。森長可に攻められたが加治田城を守った武将でもある。


381 :日本@名無史さん:2006/11/15(水) 00:17:54
フロイス「日本史」って
信長が、家宝の短刀使って、
兄を刺し殺して家督を継いだ、、と書いてある奴でつか?

382 :日本@名無史さん:2006/11/15(水) 08:45:44
フロイス「日本史」って
光秀を『裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが・・・(略)
忍耐力に富み計略と策謀の達人であった』
と書いてある奴でつね?

383 :日本@名無史さん:2006/11/15(水) 10:19:26
フロイスの日本史はあくまでフロイスの主観で書かれているから、
かなり引き算して読まないとな。
武功夜話レベルの創作記述もある。
外国人から見た日本の様子、著名な戦国大名、武将の対面の時のリアルな
感想などは興味深いけど、相手が「キリスト容認」「反キリスト」で
露骨に評価が違うところも見受けられる。
本能寺の変の時はあたかもその現場にいたかのように書いてあるけど、
実際は後日の又聞き情報を書いただけだし、その他の記述に関しても
同様のレベルだろうよ。


384 :日本@名無史さん:2006/11/15(水) 10:40:19
>>380 道三の息子二人はそれぞれ五世日暁、六世日覚となってる。
遺言書には一子が出家すれば一族みな救われるという教えを
信じていたようだから、息子達はそのためもあって出家したんだと思う。
義龍から身を守るという事もあったと思うけど。
妙覚寺の19世日饒上人は道三の実子かどうかあやふやないわゆる
「ご落胤」扱いの男子だったのでは?
生母の身分が賎しいなどの理由で、妙覚寺に預けたのかもしれないと想像する。

385 :日本@名無史さん:2006/11/15(水) 12:05:32
ちょっと待て、、、
>19世日饒上人
>五世日暁、六世日覚
>斎藤玄蕃助利尭
>新五郎
これ全部、義龍が謀反起こした時に、道三が逃がした息子たちなのか?

386 :日本@名無史さん:2006/11/15(水) 12:49:10
>19世日饒上人は1548年の時に妙覚寺を復興しているということだから、
かな〜り以前に出家していたはず。濃姫とはかなり年齢が離れていただろうから、
道三の父親の子(つまり道三の弟)かも?と俺は思う。

新五郎は道三の弟という話もあるが、息子に決定なの?

道三の息子なら、義龍の嫡流が絶えた後の斉藤家の正統な後継者の
一人ではあるので、織田家の側近におくというのはちょっと
危険人物のような気がする。
そのため道三の弟と名乗っていたのかもしれないけど。

387 :日本@名無史さん:2006/11/15(水) 13:06:28
頃合いを見て、「我こそ斉藤家の正統な当主也!美濃は我が領地也!」
と謀反をおこすことも考えられるからな。


388 :日本@名無史さん:2006/11/15(水) 14:49:42
日饒(妙覚寺十九世)?を道三の子として載せている系図として
「岐阜軍記」収録の道三系図にあるが
寛永諸家系図伝・寛政重修諸家譜には載せてないので、やはり?か。
新五郎は一昔前の郷土史には龍興弟としてあったような‥。

道三の子
斎藤義龍  長井隼人正道利(長子)? 斎藤孫四郎(義龍のすぐ下の弟)
斎藤喜平治(一色右兵衛太輔)  孫四郎・喜平治は義龍に殺される
斎藤玄蕃助利尭  斎藤新五利興(二条城にて討死)
日饒(妙覚寺十九世)?「岐阜軍記」収録の道三系図にある
日覚(常在寺六世)
 女 
寛永諸家系図伝 濃姫 菊亭右大臣晴季前室「今出川」筒井順慶室              筒井順慶室
美濃国諸士伝記に濃姫 金森五郎八(長近)室  三木休庵室(自綱)
明智系図に   濃姫の妹次女金森長近室  
        稲葉貞通前室 斎藤利三室 伊勢兵庫頭貞良室
        池田元助室

この他にもありますか。   

389 :日本@名無史さん:2006/11/15(水) 15:34:53
>>一子出家すれば九族天に生ずといえり。
と、言いつつ、3人の息子を出家させたのか。
さすが道三、仕事が念入りだにゃ。

それで、例の遺言書の受取人は、誰なの?

390 :日本@名無史さん:2006/11/15(水) 16:04:32
>>388
「信長本妻兄弟女子十六人」にはまだまだ足りないな・・・

濃姫をいれて、出家した兄弟、姉妹を合わせれば16人ぐらいになったのか?

391 :日本@名無史さん:2006/11/15(水) 16:27:46
>>374
『ゆずり状信長に対して渡しつかわす。
 其の節たらば下口出勢眼前なり。』

譲り状はすでに信長に渡っている、よって
ただちに援軍を送ってくれる手はずだ…

とあるから、譲り状は先に尾張の信長に直接送り届けられ、
新五郎は遺言書を携えて妙覚寺に落ち延びてかくまわれていたのだと思う。
でもなんで道三とともに戦わなかったのかな?と不思議なんだけど。

大阪城にあるものでも、妙覚寺にあるものでも、どちらかの遺言書が
本物であると認定されれば、道三が信長へ国譲り状を送ったという
ことも事実だったとなる。

まさか、↑を偽装するために、信長が遺言書を後からつくっちゃったということは
ないよな?

392 :日本@名無史さん:2006/11/15(水) 18:12:11
>>387

足利義昭「逆賊信長を討て!」
本願寺顕如「仏敵信長を殺せ!」

に比べりゃ、かわいいもんです。
織田家中の動揺も、ひと呼吸すれば収まりそうです。

393 :日本@名無史さん:2006/11/15(水) 19:47:38
ところで、義龍は側室の子だよな?
道三の正室の産んだ男子の子はいなかったのか?
濃姫の同腹の兄弟とか?



394 :日本@名無史さん:2006/11/15(水) 20:43:36
>>391
古文の解釈が苦手なんで、教えてほしいのだが、

> 其の節たらば下口出勢眼前なり
これの解釈が、

> (信長が)ただちに援軍を送ってくれる手はずだ
なの?
「下口(地名)に敵勢が来るのは目前だ。」という意味かとおもてた。
下のほうに、
> すでに明日の一戦におよび、五躰不具の成仏うたがいあるべからず
と、死を覚悟している記述があるし。
> 一筆なみだばかり、、とか

395 :日本@名無史さん:2006/11/15(水) 21:24:48
下口(道三・信長が三年前に面会した富田正徳寺のあるところ)まで
信長が出兵して来て、応援してくれるのは間違いない。
その様子が眼前に彷彿として浮かび上がるようだ。
こんなところでしょうか。

396 :日本@名無史さん:2006/11/15(水) 22:13:59
>>395
サンクス!
道三は信長が救援に来てくれると期待していたんだね。

すると、下のほうの悲観的な記述や、時世の歌はどうしたことだろう。
さすがの道三も心が揺れ動いていたのかな?
> 一筆なみだばかり、、とか

397 :日本@名無史さん:2006/11/15(水) 22:29:07
>>396 道三の兵力3千弱、義龍2万強、圧倒的な兵力の差に
死を覚悟したのは当然だよ。しかも、息子に裏切られた事に加え、
家臣にも背かれて孤立無援状態で、かつての仇敵織田家
を頼り、娘婿に国を譲るとまで遺言して援軍を求めるなんて、
まむしと恐れられていた自分が情けなかったと思う。
熱心な法華教徒だったようだから、かつて自分が行った
下克上の非道のむくいを悟った気持ちもあっただろう。
結局信長の援軍が到着した頃には道三は討ち取られてしまって
いたらしい。

398 :日本@名無史さん:2006/11/15(水) 22:48:51
>>397の訂正

信長軍は美濃に入る直前の国境付近で道三討ち死にの知らせをうけて
急遽戻ったんだった。 

399 :日本@名無史さん:2006/11/16(木) 09:10:56
弘治元年十月(1555)に義龍は弟二人(孫四郎、喜平治)を城内で暗殺。
双方が美濃武将を召集したが、道三の下には僅か二千を超えた程度しか
集まらず、義龍の元には一万二千を超える兵力が集まった。
まずは道三が井の口(岐阜)四方に火を放った。そうして稲葉山城を裸城にして
山県郡の北野城へ全軍で入って時期を待った。
翌年春(弘治2年)義龍軍の林主水が道三軍の林道慶が守備している岩崎城を攻めて
落とした。二人は伯父甥の関係で、多くの美濃武将はまさに骨肉の争いとなった。
前衛基地を失った道三は4月北野城から一先ず大桑城へ入った。
この大桑城で4月19日遺言状を認めたと思われる。
翌二十日未明からいよいよ両軍の対決が始まった。
二頭波頭立波紋の旗を押し立てた道三本陣は崇福寺山門から二百米南西の
松林。義龍本陣は稲葉山西北丸山の山頂で水色に染め抜いた桔梗の九本旗。
まずは義龍軍先陣(最初から道三軍に付くと思われた大垣城主竹腰道塵)が仕掛けた
が散々に打ち破られて道塵討ち死に。
こうした合戦の中、信長はどうしていたか。
十九日に道三から火急の使者があり、三千の信長軍を率いて下口へ向かっていた。
木曽川支流の足近川を渡って決戦場である長良川へ急いだのである。
しかし、義龍は信長が来るであろうと思われる狐穴、不破一色の地に牧村主水助、
林半太夫等三千余を数段構えにして待ち伏せさせていた。
信長軍はこの地に釘付け状態とならざるを得なかった。
そこへ清洲から急使「岩倉城主織田信賢が清洲城下に火を放っていて、清洲城を
攻めてくる様子」との知らせ。義龍は岩倉織田とも手を組んで、信長牽制をしていたのである。



400 :日本@名無史さん:2006/11/16(木) 09:53:18
>>399 >> 十九日に道三から火急の使者があり

これは、道三がしたためた遺言書と考えていいのかな?
もしかしたらこれとは別に出兵を請う手紙を添えたかもしれないけど。
道三は義龍をかなり見くびっていたようだね。
織田対策も万全だった義龍が勝利して当たり前だし、
義龍のそのぬかりない才覚は道三譲りだったと思う。
信長も義龍生前中は手が出せなかったしな。

401 :日本@名無史さん:2006/11/16(木) 10:36:42
譲り渡し状をこの時に渡したかも知れませんね。
六尺五寸様、大男知恵は廻りかね等と道三が思っていたなら、
見誤ったとしか思えませんね。
義龍は短命だったので、信長の物語でも然程重要人物視されませんが、
岩倉織田氏、信長弟信行(信勝)、犬山城主織田信清等と緊密に連絡を取り、
同盟関係を結んでいたと察せられます。
対中央(都)に対しても、江北より江南(六角氏)と結んだほうが有利と見たのでしょう。
六角氏と同盟関係を結んでいます。
義龍がもう少し長生きしていたら、信長の其の後は更に苦労したに違いありませんね。


402 :日本@名無史さん:2006/11/16(木) 11:19:15
あの若さでの義龍の突然の死は暗殺?とも思えるのですがどうでしょう?

もちろん信長の策略。

濃姫も実兄と実父の骨肉の争いはつらかっただろうな。

403 :日本@名無史さん:2006/11/16(木) 12:08:22
義龍は、上洛していた信長に刺客を派遣したことがあるから、
その報復をされた可能性はあるかもだにゃ

404 :日本@名無史さん:2006/11/16(木) 12:20:49
>>400
えーと、義龍時代の信長の状況を調べなおしましょう。

>>402
濃姫と義龍は母が違うので、そこまでの思い入れはないかと。この時代、母が
違えば兄弟感情はかなり薄れる。

405 :日本@名無史さん:2006/11/16(木) 13:59:45
>>404 世間体がむちゃ悪いことには違いない。
戦国時代とはいえ、まれに見る醜聞だわな。
信玄は実父を追放したけど、殺したりはしてない。

406 :日本@名無史さん:2006/11/16(木) 14:15:30
建て前は道三は父親ではなく、実父を殺した敵だからな。
国内の宗教改革に失敗し、有力家臣の織田家への寝がえりが相次いで、
内部崩壊して滅亡したようなもんだ。
嫡男の育て方も悪かったようだし、道三ほどの統率力やカリスマ性は
なかったようだな。

義龍に関しては持病持ちであったということだが、何の持病だったんだろう?
身長が異様に高いからホルモン系の異常だったのかな?
巨人症は長生きでいないと聞いたが。

407 :日本@名無史さん:2006/11/16(木) 15:41:26
>>406建て前は道三は父親ではなく、実父を殺した敵だからな。
道三が実父では無いとした話は江戸末期「岐阜軍記」のものに
見られるが中期前のものには書かれていません。
「信長公記」、「黄耇雑録」にも記されていません。
後世の作り話の可能性が強いようです。
義龍本人は道三と戦う前から、新九郎利尚から新九郎范可と改名している
点から考えると十分親殺しを意識していたと思われます。
范可とは昔の中国人の名で父を殺した人物の名として、
云わば父殺しの代名詞となっていたと考えられ、その名を一時義龍は
名乗ったのです。




408 :日本@名無史さん:2006/11/16(木) 16:47:36
>>407 だから「建て前は」と書いたんだよ。
実父殺しという汚名を被らないために、意図的に義龍サイドで流布した噂という
説もあるし、旧土岐家臣が、半信半疑なその説を盾に義龍を炊き付けたという説も
ある。
後年物語を面白おかしく脚色するために、江戸時代に創作された説もある。
そもそももし月足らずで生まれたら、道三だって義龍を嫡男に据えるわけがない。
長男といっても側室の産んだ子だし、絶対自分の胤の子だと確信できる男子を
嫡男にするだろ?

409 :日本@名無史さん:2006/11/16(木) 17:16:32
道三自身も、美濃支配に都合がいいからって
義龍が土岐氏の種「かもしれない」って噂を
利用したって話もあるし、その辺りは本人同士にしか
真実は分からないだろう。
どちらにしろ、道三は義龍を嫡男として教育したから
武将としてすぐれた能力を発揮できたんじゃないかな。
道三自身は見くびっていたかもしれないけど、
嫡男教育がおざなりだったら、もし才能があったって
そうそう、武将としてすぐれた能力は出て来ないだろう。
そういう意味では、ある時期までは、親子の間は別に
確執が多いとかそういう訳じゃなかったんじゃないだろうか?
養子であっても、親子は親子って時代だし、
義龍自身がどっちの種と思っていたかは分からないが
親と思っていた時期が確実にあったのなら
新九郎范可を名乗ってもおかしくはないよな。

道三が何故義龍を廃嫡しようとしたのか、その真実の理由は
はっきりとは分からないから、何ともいえないが、正室の生んだ
男子を嫡男にしたいと思ったとしても、そうおかしくはないな。
あと、義龍がハンセン氏病だったというのは、創作なのかな?
何らかの病持ちだったという話も残っているし、その辺りにも
廃嫡を考えた理由があってもおかしくないかも。

410 :日本@名無史さん:2006/11/16(木) 19:02:36
道三が義龍を廃嫡し、弟の孫四郎を家督を譲ろうと画策したことから
おこった争いらしいけど、義龍に殺された孫四郎とその弟の喜平次の
母親は「明智女」と記されていたから、「小見の方」だと思うんだ。
つまり、濃姫と同腹の兄弟。
正室の子だからという理由もあったろうけど、
濃姫と同腹であれば、織田家との絆もより強くなるし、
同盟国でいたほうが得策だと判断して義龍廃嫡を図ったのかも。
逆をいえば、義龍は織田家にまっこう敵対する構えでいたのでは?
すでに織田家内の反信長派に根回ししていたようだし。
そうなるといずれ婿殿に斉藤家が滅ぼされ、
美濃を掌握されるだろうと道三は確信してたんだよ。

411 :日本@名無史さん:2006/11/16(木) 19:05:13
ハンセン病大名といえば大谷吉継が有名だけど、実は梅毒ってことはないか?
梅毒でも鼻もげるぞ。

412 :日本@名無史さん:2006/11/16(木) 19:43:40
大谷吉継は皮膚の感覚が鈍感になってたって聞いたな。
昔はハンセン氏病って、筆先で皮膚を佩いてみて
それが分からなかったかどうかっていう判別基準もあったと
聞いたことがあるから、やはりハンセン氏病だったんじゃないかな?

413 :日本@名無史さん:2006/11/16(木) 20:16:02
戦国期の嫡男の条件として、まずは健康体である男子である、
ということが絶対条件だったろうから、義龍の幼少期は
健康体だったんだろうな。
すると、病弱だったり、脳障害や精神障害、言語障害があったとは思えないし、
後年ハンセン氏病などの難病におかされた可能性はある。
廃嫡されそうになったのは、そのせいじゃないか?


414 :日本@名無史さん:2006/11/16(木) 21:10:35
まあ、持病持ちじゃあ長生きが望めないからな。
ただそうすると、美濃豪族が先が不透明な義龍についた理由が…。
あるいは、義龍が早死にすれば上に立つ斉藤家が弱体化すると期待したとか?

415 :日本@名無史さん:2006/11/16(木) 21:49:12
そもそも持病なんてなかったのでは?
戦国期の男性の平均寿命は37〜38才だったから、
当時の感覚だとけして早死にではないんだよね。
流行病なんかで身分に関係なくころっと死んでしまう時代だったからさ。
それとちょっと大柄なだけだったのを、大げさに六尺五寸殿(約197cm!!)
なんてことになっただけだと思うんだよね。
あだ名つけたの信長じゃないか?
猿だの、ハリネズミだの、あだ名つけるの好きだし。

416 :日本@名無史さん:2006/11/17(金) 00:09:08
>>415
いや、それは平均という言葉と数字のマジックに騙されているだけかと。
あと、流行病と持病持ちは別だろう。

417 :日本@名無史さん:2006/11/17(金) 00:41:18
>>415
>あだ名つけたの信長じゃないか?

いや、たぶんこの二人は、直接対面したことはないから(w

418 :日本@名無史さん:2006/11/26(日) 19:34:31
過疎アゲ

419 :日本@名無史さん:2006/11/30(木) 22:43:07
>>344 
>>男子を産んでたら、夫が死んでるんだから、それこそ残して来ないとな。

話が戻って恐縮だけど、生駒に土田氏との間に子供がいたら嫁ぎ先を
出され、実家に戻されると考えられないんだけど。
子供がいれば後家になっても堂々と子供の監護者として嫁ぎ先にいれるよ。
子供がいなかったか、あるいは生まれたが亡くなったかで、跡取りを別の親族
から迎えるなどの理由で嫁ぎ先から戻されたのだと思う。

それと生駒が土田氏の死後すぐに出家して、その後還俗して側室になった可能性
もあると、どこかで示唆する人もいたけど、土田氏が亡くなって、
信忠の出産の時期を考えると、出家→還俗する間もないほどすぐに信長の側に
あがってるんだよね。ちょっと無理があると思うんだけど。
生駒が信忠の生母でなければ、その考えも可能な範囲かなとは思うけど。
しかし信忠の誕生って生駒が母親と考えるのって時期的にすごく無理が生じる。

420 :日本@名無史さん:2006/11/30(木) 23:11:33
>>419
>>生駒に土田氏との間に子供がいたら嫁ぎ先を
>>出され、実家に戻されると考えられないんだけど。
土田弥平次は次男だし、戦死してる。
弥平次の兄の長男の方は生き延びてる。
嫁ぎ先に残る事は出来るけど、残りたいだろうか?
それに、明智城の戦いで戻ったのは、明智城が落ちて
明智家そのものが散り散りになったような戦いだから、
家臣達も、その家族も避難したと思えるから、
それで実家に戻ったんじゃないかな?

>>しかし信忠の誕生って生駒が母親と考えるのって時期的にすごく無理が生じる。
上の方か戦国板の濃姫スレで計算していた人がいたけど、本当に無理だよね。
信忠か信雄のどっちかが早産だったとかならね、あるかもだけど、
あの新生児の生存率の低い時代に、早産の未熟児だったら
生き延びる事すら難しいよね。
まして、信雄じゃなく信忠が濃姫の養子で嫡男だから、周囲が認める信長の種で、
弥平次の種ではない事がはっきりしているって事なんだから、
なおさら時期的に変だよね。


話は変わるんだが、最近見つけた透視だか霊視だかする人のブログでは、
信忠の生母はお豪って人で信雄の生母は土田類だって書いてたな。
あの時代に、嫁ぎ先の名字名乗らないから、変だなと思ったけど、
まぁ、面白かった。

421 :日本@名無史さん:2006/12/01(金) 08:40:04
>>420 そういう意味じゃなくて、あの時代嫁は夫が亡くなれば子供を置いて
婚家を出されて実家に戻るもんだ、というふうに思い違いをしているような
書き込みが見受けられたから、それはちょっと違うのでは?と思ったんだ。
でも生駒家の方で子供をおいて戻って来いと要請したので、
従ったのかもしれないという可能性はあるかな。

霊視なら自分も某スーパー霊能者の方の本で信長をはじめ、光秀、お市、秀吉、
家康、天海和尚、その他もろもろ「ご本人のお声」を聞かせてもらいました。
光秀=天海和尚の線は消えてたな。信長も本能寺の変の時自刃して果てていた。
その方を信じるならばですが。

お豪さんが信忠の生母というのは発見ですな。(事実なら…)
濃姫の侍女(濃姫が信長に差し出して)あたりが産んだというのが
真相なのかもしれませんね。

422 :日本@名無史さん:2006/12/01(金) 09:34:58
>>421
>>344の発言って、そういう風には思えなかったけどな?
生駒家に戻るのに、子供を産んでいたとしても連れ帰らなくてもよい理由では?
家同士の反目での離縁なら、女児は連れ帰るのが普通だが、死別で戻る場合は
置いてくる事はおかしくないという一連の話の流れの一環でだと思う。
生駒氏女は、土田氏後家として織田関係の史料に載っていないのだから
もし本当に土田弥平次と結婚していたのなら、一度生駒家に戻っていると考えるのが、
普通だとおもえるからね。

だが、信忠の生母というのは、側室になったのが弘治2年9月以降だったら
やっぱり難しい気がする。
ただ、信雄の誕生の方も、永禄元年3月末っていうのが本当だったらっていうのが
前提だから、確実である徳姫の誕生日まで考えれば、弘治2年9月以降であっても、
弘治3年、永禄元年に、信忠と信雄を生む事は出来るんだよな。
何か、もっとその辺の事が分かる史料でも発見されないかなとは思うね。
とりあえず、現在分かっている史料では、信雄と徳姫の生母が生駒氏女であるのは
まず間違いない訳だが、信忠の生母であるというのは、確定できないからね。
ただ、濃姫が元々側室にするつもりで、奥に召し抱えていた女性が生母だったら
信忠の養子とか、嫡男になった事とかは、時期的にバタバタして怪しいと思える
生駒氏女よりも、とても自然である気がする。

生駒家、前野家を盛り上げるつもりの武功夜話が、実際は信忠の生母が生駒氏女では
ないかもしれないという可能性を、見いだすきっかけになったというのは皮肉な話だね。
生駒家の系図でも、生駒氏女は土田弥平次の後家となっているようだが、
これは、どのくらい信憑性があるのかね?
武功夜話よりもその辺り信じられるのか、武功夜話から作ったものなのかによっても
変わってくるな。
弥平次に関しては、武功以前から江南市近辺では逸話として残っているから
生駒の女と結婚していたとか、土田城の次男だとかっていうのは、
ある程度、割り引いて考えるにしても、何か根拠があるのかもしれないが。
もっとも、武功夜話はその逸話を元に創作したと、逆の見方も出来るけどね。

423 :日本@名無史さん:2006/12/01(金) 11:30:40
生駒家に戻っていなかったのでは?
亡くなって間もないし、法要する間もなく実家に戻るのも変だ。
徳姫だって信康切腹後半年近くは岡崎にとどまっていた。
側室→出産に時間的な余裕がないことを考えたら、土田家から
側室になったと考える方が自然じゃないか?
武功夜話は創作上の吉乃の話であって、それはそれでおいておけばいい。
もともと武功夜話の吉乃に関しては年代的なことから矛盾だらけなんだから
無理にくっつけようとする必要はないし。
しかし土田類はあり得んな。
嫁いでも嫁ぎ先の姓を名乗ることはまずない。
それに北条政子とか、日野富子とか、実家の姓をもって、出自を示したもんだがな。

424 :日本@名無史さん:2006/12/01(金) 11:48:48
土田家から直接だったら、何故小倉のように土田の後家という記録が
残らなかったのだろうか?
ただ、土田家から直接なら、道三が死んで、バックアップするのが
実母の生家明智家になっていたと思われる濃姫が、家臣筋の土田家に
主君筋から命じて側室にしたとか、土田家が明智家に恭順するためなど、
土田家の都合で側室にあげたと考えられ、生駒家に戻っていた類を
わざわざ召し出したとするよりは、自然だと思う。

あと、本当に生駒女は弥平次の妻だったんだろうか?
それを示すのは、武功夜話と生駒家の系図しかないと思うから、
その双方の信憑性如何なのかもしれないな。
武功夜話には信憑性はないが、生駒家の系図が信頼置けるものならば、
弥平次の逸話にあるらしい、生駒家の娘を娶っていたとするものと合致する事になる。
そして、それらの逸話や系図を元に、武功夜話を創作したとしたら、
吉乃の話は、嘘ばっかりとはいえ、類の嫁ぎ先などは本当の事を利用している可能性もある。
だからこそ、逸話で伝わる弥平次の死亡時期や、他の史料にある信雄の誕生年月日と
照らし合わせて矛盾が出てくる事になったんじゃないだろうか?
もしも、弥平次の後家という事が分かっていなければ、信忠の生母であるという説は
揺るぎないものであったはずだからね。

武功夜話に信憑性がないからと言って、武功夜話とは別に作られたかもしれない
系図などの信憑性まで、全て括って無いとするのは短絡的だからな。
まずは、系図の信憑性が重要という事かな?

425 :日本@名無史さん:2006/12/01(金) 12:03:58
なるほど
徳姫が信康切腹後半年近く岡崎にとどまったのは、
もしかして信康の種を妊娠している可能性があるからだにゃ。
信長には信忠の上に信正という息子がいたが、
信長の種でない可能性があって、嫡男としなかったといわれている。
もし、信長がこの失敗から学び、確実に自分の種の子を作ろうと思えば、
側室にするのは、処女か、半年くらい男と交わる可能性がなかった女でなければならない。
生駒女は弥平治の死後、実家に戻っていたが、いくらでも自由恋愛のチャンスがあるもんな。
場内の部屋に入れて、自分の監視下においてからでなくては側室にはできないにゃ。

426 :日本@名無史さん:2006/12/01(金) 12:39:32
>>425 半年またんでも一月まてばわかることだがね。
少なくとも生駒屋敷で身ごもった子供を嫡男と周囲も認めんだろうし、濃姫も
養子になんぞしないだろうな。確かに妾の子と側室の子だとお胤の信憑性が
全然違うよ。

生駒は最初土田弥平衛と結婚し、その後土田弥平次と結婚したと武功夜話には
書いてあった。生駒家も娘が類以外いただろうから、いろんな娘の縁談話などが
ちゃごちゃになっていて、それを適当書いている可能性もあるぞ。

427 :日本@名無史さん:2006/12/01(金) 15:58:43
保科正之も正式な側室の子でなかったためにご落胤となって
他家にだされたんだよな。母親は身分の低い(確か大工の娘)大奥の女中だったが
大奥勤めでも、宿下がりだなんだとあって、怪しいといえば怪しい。

ずっと疑問だったのだが、江与は最後の子を産んだ時はまだ30代半ばぐらいで、
秀忠は30才なったかならないかの男盛り。
あれだけ多産の江与がぱったり子供を産まなくなったのは、褥を伴に
することがなくなったからだと思うんだよね。その後側室をおかずに
秀忠はよく過ごせたな?とものすごく疑問。いくら恐妻でも
30才で禁欲生活なんて考えられない。
でも側室が一人もいなかったのは事実。
急に機能不全になっちゃったとか?
本当は男色だったとか?
それとも避妊してたとか?

428 :日本@名無史さん:2006/12/01(金) 18:39:30
>>426
>>生駒は最初土田弥平衛と結婚し、その後土田弥平次と結婚した
これは違うと思うよ。
おそらく、同じ弥平次の事を間違って記述したと思われる。
弥平衛の次に弥平次と結婚したとは書いてなくて、
弥平衛と結婚していたという箇所と、弥平次と結婚していたという箇所が
別々にあるんだ。
ちなみに武功夜話には吉乃の夫の名前は三種類出てくる。
武功夜話に弥平次、武功夜話拾遺に弥兵次、弥平衛の二種類。
だが、弥平衛と弥兵次は、よく読めば同一人物を誤記している事がわかる。
そして、弥平次と弥平衛=弥兵次の3種類の名前の人物は弘治2年くらいに
亡くなっているのが分かる訳だけど、吉乃の年齢の記述がおかしかったり
徳姫の年齢もおかしかったり、その辺の記述はgdgd

429 :日本@名無史さん:2006/12/02(土) 09:15:06
信忠はともかく、生駒氏が信雄、五徳の母親なのは間違いないのだろ?
年増の側室がよく頑張った。
しかも信長より6,7才年上だったのに。
よほどの美人か、俗説通り母性的な雰囲気があってそれが
殿のお気に召されたのかな。

430 :日本@名無史さん:2006/12/02(土) 12:03:55
>>430
位牌通りに永禄9年にかぞえで39歳なら、6歳年上だね。
信雄を生んだ時に31歳だから、まだ普通に現役なんじゃね?
それに後家だし、子供を年子で産んでいる事をみても、
最初の結婚でも子供を産んでた可能性は高いとみるなら、
「子供が産める事がはっきりしている借り腹」
として合格だったんじゃないか?

近江國輿地志略にある、御台出産の記事が本当であれば
その時濃姫は34歳だし、信長の守備範囲だったんだろう。

431 :日本@名無史さん:2006/12/02(土) 12:28:17
>>427
スレ違いだけど
保科正之の母が大工の娘・・・・?
北条浪人・神尾氏の娘だよ。

ちなみに、有名な阿茶局も神尾一位殿と呼ばれてるから
今川・北条領にある武家だったのだろう。



432 :日本@名無史さん:2006/12/02(土) 12:29:47
>>430 >>近江國輿地志略にある、御台出産の記事が本当であれば

この時生んだ子供って結局誰だろう?
姫なら年齢的に生母不詳の前田に嫁いだ永姫あたりかなと思ったけど、
永姫生母は金沢に墓があるらしいんだ。詳しい人いたら情報お願いします。
男子なら於次か勝長あたりかな?

433 :日本@名無史さん:2006/12/02(土) 13:35:26
永姫と於次は同腹だとどっかに書いてあったが、ソースが特定できない。
自分もそのあたり詳しい方のご教授願いたい。


434 :日本@名無史さん:2006/12/02(土) 13:37:07
>>432
お次は、生母が書いた手紙とか、生母の史料が意外と残っているからないと思う。
他では勝長が一番有力なのかもしれないけど。

自分は、出産はあったが夭逝したってあたりじゃないかと思う。
たまたま出産の記録は成菩提院に残ったけど、育たなかったので
御台の子供として他の文献などに残らなかったんじゃないかと・・・。

435 :日本@名無史さん:2006/12/02(土) 13:38:35
補足
史料が残っていても、お次の生母の身元が特定できないというのが
あの時代の特徴だなと、思ったりする。

436 :日本@名無史さん:2006/12/02(土) 14:09:31
政治的なからみであがった側室なら実家の史料からも事実確認ができるんだけどね。
そうでない側室なら名前すら残っていなくても不思議じゃないからな。

437 :日本@名無史さん:2006/12/02(土) 14:28:28
お次と同腹と推測されているのは冬姫じゃなかったかな?
2人は同じ寺に埋葬されているから。

永姫の生母の墓は、金沢八坂鶴林寺の境内にある。
元和4年3月3日逝去。
鶴林寺が越中守山にあった時に埋葬されて、
鶴林寺の金沢移転に伴い転葬されたとなっている。

ところで、富山県高岡市の瑞龍寺に織田と前田の御分骨廟というのがあって
右から前田利長、利家、織田信長、信長夫人、信忠の祠があるんだ。
そして、この信長夫人の祠は、寺では濃姫の墓という伝がある。
だが、前だの菩提寺だから、永姫生母の可能性を指摘されているんだが、
信忠祠と一緒にあるのに生母でもない側室女性が右、すなわち信長を筆頭とすると
上座側に祀られるだろうか?
やはり養母であった正室濃姫と考えられるんじゃないかと思うんだが。

438 :日本@名無史さん:2006/12/02(土) 17:33:23
>>437 ちょっと瑞龍寺でくぐってみたらこんなの見つけた。
http://www.geocities.jp/botsuwan/zuiryuji.htm

石廟の説明と下の写真にある、石廟の説明書きをよく読むと、
どうやら信長の側室という字があって、名が「正覚院」となっているらしい。
濃姫の法名と異なるので、これが不詳とされた永姫の生母の法名じゃないか?

439 :日本@名無史さん:2006/12/02(土) 18:15:20
>>438
「正覚院」は永姫の生母の法名だけど、祠にそう彫ってある訳じゃないよ。
永姫の生母ではないかと言われるようになったから「正覚院」の祠と
されるようになっただけだよ。

440 :日本@名無史さん:2006/12/02(土) 18:25:47
>>439
鶴林寺にある永姫の生母は春誉妙澄大姉だ。
だから、「正覚院」が永姫生母と一緒かどうかは分からないと思う。
法名に関しては、信長にしても信忠にしても複数ついてたりするから
濃姫の法名が養華院殿要津妙玄大姉だけとは限らないよ。
「正覚院」が濃姫の別の法名である可能性だってあるからね。
濃姫の墓として伝わっているけど、加賀藩史料を編纂した人が
永姫生母の可能性があると言い出してから、そういわれるようになって
「正覚院」も永姫生母の法名と言われだしたはず。

441 :日本@名無史さん:2006/12/02(土) 18:37:43
>>440
そうなのか、すまん>>439は勘違いだったな。

じゃぁ、昔は濃姫の法名を「正覚院」としていたという話はあるのかな?

442 :日本@名無史さん:2006/12/02(土) 18:56:43
一次史料ではなく申し訳ないのだが、
http://homepage2.nifty.com/hpsuiren/sengoku/oda/nobu-4.htm
の万里小路充房室の説明書きに、
【織田長清偏の『織田氏系譜』は万里小路充房室を二ヶ所に挙げ、
忌日と法名を記しているそうです。「慶長五年十月八日薨ス。
法名芳林寿継、源光院ト号ス」
「慶長十五年庚戌十月八日薨ス。法名桂岩清香、正覚院殿ト号ス」。 】

とある。
だけど万里小路充房の継室の麻阿姫が慶長10年に亡くなっているし
麻阿がくる前にこの姫は亡くなったと推測できるので、後者の正覚院は
違う人物だと思うんだよね。
慶長5年に亡くなった『法名芳林寿継、源光院』が信長の娘の
万里小路充房の先室としたら、その後麻阿が秀吉の元を去った
時期などからしてぴったりあうと思うんだけど。

443 :日本@名無史さん:2006/12/02(土) 19:22:16
>>442
>>「慶長十五年庚戌十月八日薨ス。法名桂岩清香、正覚院殿ト号ス」
没年月日は、養華院殿は慶長17年7月9日だし、永姫生母は元和4年3月3日だし、
この織田氏系譜の人物とはどちらも合わないね。
信忠より上座に祀られる信長夫人か…。
織田家、前田家から石廟を建てて祀られる程尊敬された女性というと、
信長正室か永姫生母くらいしか考えられない気がするが…。
もっとも、この石廟は瑞龍寺の伽藍とは違う角度で一列に並んでいるそうで、
瑞龍寺の前の法円寺時代に立てられた説もあるが、法円寺が移転したのが
慶長18年だから、実は養華院殿ならギリギリ間に合うんだよな。
利長の石廟だけ後から作られたのかもな(利長の没年は慶長19年)。

444 :日本@名無史さん:2006/12/02(土) 20:50:55
でもこのメンバーで配列を許されるのは信長の正室以外考えられない。
本能寺の変の時点で濃姫が正室なら濃姫だろうな。

一説によると信長が寺を焼き討ちしたということで、
濃姫の死後あちこちの寺で供養を拒否されたなんていわれているんだよね。
そのあたりのことが原因で命日が諸説あるのかな。

445 :日本@名無史さん:2006/12/02(土) 20:58:41
信長が供養されてるのに、濃姫の供養が拒否されるってのも変だろ。

446 :日本@名無史さん:2006/12/02(土) 21:30:48
信長の供養は拒否できないだろう。
時の最高権力者秀吉の手前。
三法師は関ヶ原後改易され、出家し高野山に入ろうとしたが
信長の高野山攻めのために拒否され、追放されたというぞ。

447 :日本@名無史さん:2006/12/02(土) 21:56:12
逆に考えるんだ
濃姫が徳川最後の敵だったと

信長の美濃統治の立役者だった濃姫の情報がここまで少ないのは
いくら織田が家庭のことを書き記さない家でも、変すぎる

誰かが消さなきゃこんなことにはならない

三法師死去でブチ切れて織田閥に反徳川を号令する濃姫とか
想像すると面白すぎるよww

消したとしても、家康じゃなくて、春日局だろうけど
明智と斉藤の血を引く濃姫と家康がカチバトルしてましたなんて
春日局的には不味いだろうしww (春日局家康の敵の親戚!?)
春日局の手下が代々老中に居座ってるから消し方も念が入ってそうww

448 :日本@名無史さん:2006/12/02(土) 22:46:12
濃姫はまつみたいに子沢山ではないし、ねねみたいに政治に介入しないし、
江与みたいに嫉妬深くもないし、千代みたいにでしゃばりでないし、
淀殿みたいに権力志向もない正室だった。
だから平穏無事な夫婦生活を送り、信長死後はひっそりと隠遁生活に
甘んじていたから史料が少ない。
だけだと思う。

449 :日本@名無史さん:2006/12/02(土) 23:10:31
まあ、この時代、表向き(政治)に関わらなければそりゃ女性の記録は少なくなるわな。

450 :日本@名無史さん:2006/12/02(土) 23:35:35
もし仮に本当に光秀が濃姫の縁続きで、その繋がりで織田家に仕えたんだったら
本能寺以後はショックが大きくて、政治に口出しする気力もないだろうな。

451 :日本@名無史さん:2006/12/02(土) 23:41:28
>>447
消された、抹殺された歴史の足跡ってものがあるのは承知してるが
濃姫が果たしてどんな事跡に影響を与えうるというのかな?

秀信の死亡時期まで濃姫が権勢をもっていたなどと、
ましてや隠蔽は春日局の仕業・・・なんて
妄想としても考えられないけど。

452 :日本@名無史さん:2006/12/03(日) 00:10:08
>>451
ネタにマジレスしないで、スルーね。

瑞龍寺の石廟に関して基本的な質問ですまんけど、
信長夫人の「祠」は濃姫の「墓」と伝わってるんだったら
全部の骨がおさめられているってことかな?
それとも分骨廟っていうくらいだから、分骨分だけかな?
あと、利家、利長の父子は分骨されてるとしても、信長と信忠は
遺体が見つかってないんだから、分骨のしようがないよね?
それとも、秀吉に内緒の骨でもあったんだろうか?
秀吉が阿弥陀寺に出せと言って、突っぱねられたものを
利家は譲られてたとか?
瑞龍寺前身の法円寺は利家と信長信忠の菩提のために
利長が建てたんだが、分骨廟っていうのがな、疑問だ。


453 :日本@名無史さん:2006/12/03(日) 00:23:08
現代でも分骨して墓を建て直す時は実際の骨を持ってくるのではなく、
墓周辺の土を骨の代わりにする。もちろん僧侶がそれなりの儀式を
しながらするもんだけど。
ましては当時は土葬だし、そんな生々しいことせずに、
やはり墓周辺の土を持ってきて「分骨廟」としたのだと思うよ。

信長親子の墓は他にも数箇所あるし、そういうことすらせずに墓とて
いるのではないかなと思ってる。
鍋が信長の遺品を納めて墓にしているところもあったはずだ。

454 :日本@名無史さん:2006/12/03(日) 03:17:36
>>452
そもそも猛火に焼け落ちた本能寺から、
阿弥陀寺の上人が遺骨を持ちかえったこと自体が
信憑性に乏しいとされてるし。



455 :日本@名無史さん:2006/12/03(日) 10:39:59
ちょっとでも縁のある寺や人物が遺骨がないのをいいことに
あっちこっちで墓を乱立。

456 :日本@名無史さん:2006/12/03(日) 12:07:16
顔の識別がつかないほど焼け爛れてしまっていたんだろうな。
信長は焼死体の中のどれかだったと思う。
自刃しても介錯する人物がいなく、首がつながったままだったので
特定できなかったんだろう。

457 :日本@名無史さん:2006/12/04(月) 09:42:21
>>455
乱立というのとは少し違うと思う。

458 :日本@名無史さん:2006/12/04(月) 09:57:43
でも小野小町や義経の墓に共通するものを感じる

459 :日本@名無史さん:2006/12/05(火) 00:06:37
小町や義経はすでに死んだ時点で「伝説」的な存在となっている。
小野小町なんて生没年、確かな出自、すべて不詳の人物だし。

平家琵琶語りや白拍子が全国を遊芸していく中で字の読めない庶民にも
その名と物語が普及し、また語り継がれている期間も長く
室町時代にすでに能の題材となり
江戸期の浄瑠璃や歌舞伎等の演芸の題材ともなっている。
小町や義経は大衆にとってヒーロー、ヒロイン。
そういう広く大衆に親しまれ伝説も土着した古代の人物と
関係者や寺院によって供養塔や供養墓の造られた戦国大名とは、
墓のできる経緯が全く異なるものだろう。

460 :日本@名無史さん:2006/12/05(火) 09:13:37
明智光秀も死亡と推定されている時期よりずっと後に建立された墓があるな。

461 :日本@名無史さん:2006/12/05(火) 09:25:08
>>459
行き倒れで死んだ女の塚が、歴史有名女性の墓になって
それらしく伝承されてる例なんてたくさんあるけど、
信長とかの場合はそういう類では無いものね。

462 :日本@名無史さん:2006/12/05(火) 09:53:26
どっかに濃姫の墓ってあったよね?
どうやら織田家に仕えた「おのう」さんという侍女らしいんだけど。


463 :日本@名無史さん:2006/12/05(火) 12:46:45
>>421 >>霊視なら自分も某スーパー霊能者の方の本で信長をはじめ

自分もそれ読んだ。
信長は腹を切って、自分で首の頚動脈を切ってその場で果てたとあったね。
それと光秀単独犯を断言してたな。竹やぶで槍でつかれて亡くなったとも。
お市がものすごい小柄で、目のはれぼったい、受け口だと霊視していたが、
お市って普通サイズの着物が着れないほど大女って言われてなかったか?

464 :日本@名無史さん:2006/12/05(火) 14:21:06
>>462
岐阜市にあるヤツでしょ?
でも、岐阜市では濃姫の墓とはしていないらしいよ。

465 :日本@名無史さん:2006/12/05(火) 14:55:22
>>463 むか〜しギボ愛子さんが明智光秀と交霊してたよ。
高野山霊視ツアーしてた時かな。高野山にも光秀の墓があったからなんだろうけど。
本能寺の変は誰かの指示に従ったというようなことを言ってた。
その誰かのことは口をつぐんで言わないんだって。
そこをどうにか吐かせろ!と思ったけど。

>>464 大きな木の下にある墓ならそれ。
遺髪だけ埋葬されているとか注釈があった記憶がある。
本能寺の変の時に、このおのうさんが侍女として本能寺にいたらしく、
そのために「濃姫が本能寺で信長とともに亡くなった」という
話になったとも聞く。信長が言ったという「女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと」
の女どもの中におのうさんがいたのかな?

466 :日本@名無史さん:2006/12/05(火) 21:01:16
>>465
本能寺にいたらしいとは絵本太閤記に書かれているお能の方で、
明智勢の山本三右衛門の槍と渡り合って討ち死にした。
この女性が濃姫ではと云う説が出てから、本能寺に濃姫が居たとされた。
別説にお能の方は丹波の浪人医者後藤六太夫の妹とするものがある。

467 :日本@名無史さん:2006/12/05(火) 21:03:55
お能の方という言い方をするところをみると信長の側室だったのかな?

468 :日本@名無史さん:2006/12/05(火) 22:02:58
本能寺で、
「槍を振るって戦っていた中年の身分高そうな女がいた。
信長は彼女を「おのう」と呼んでいた」
という、明智兵の証言があるらしいのだが・・・・・・・・・司馬によると(w
誰か、知りませんか?


469 :日本@名無史さん:2006/12/05(火) 22:19:54
菊地桃子?

470 :日本@名無史さん:2006/12/05(火) 22:44:43
この糞スレ、いつの間に上がったの?
過疎スレだから2、3日でまた沈むと思うけれど。


471 :日本@名無史さん:2006/12/06(水) 23:21:23
>>467
残っている記録では「おのう」となっていると聞いたが、
その記録はどこに載っているのかよく分からんのだが?
信用おける資料では、女性の名前が載っているものは
自分は知らないので、載っている文献名を教えてもらいたい。

472 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 13:02:08
信忠がもし生駒氏の類が生母でないとしたら、他に該当するような
側室はいるかな?確かに時期的に類が産んだ事に無理を感じる。
生駒類と同時期あたりに側室になった可能性が高いし、
同じ時期に死んだとは限らないから、信雄や五徳以外の子供と
同腹の側室である可能性があっても不思議じゃないと思うんだけど。
もっとも武功夜話の内容を無視し、類が後家になった時期がもっと
早いということになれば、類が信忠を産んだといっても不自然なところは
なくなるな。

473 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 14:17:08
武功夜話は無視するとしても、生駒家系図には、類は土田弥平次の後家ってなってるんだろ?
土田弥平次の死亡時期は明智城の戦い時っていうのは、江南市の逸話で伝わっているんだったか?
該当する様な側室の名前が、広く知られていたら、もしも信雄があとで捏造したとしても
どこかでボロが出るから、広くは知られていなかったんじゃないだろうか?
とすると、反対に類よりも早くに死んでしまったのかもしれん。
出産時に死ぬ女性も多かった時代だからな。
そうだとすると、むしろ知られていなくて当然なのかもな。
出産時に生母が死んで、そのまま正室の養子って流れだったのかもしれん。

474 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 16:05:05
信忠生母が亡くなった、あるいは早々に奥を下がったなどの理由から
信忠を早い段階で御台の養子にし、嫡男としたのかもしれないな。
そう考えたらまだ20代前半で、まだまだ実子が産める可能性もあった段階で
養子にしたことも理解できる。
当時は信長がいつ戦や身内の争いから亡くなっても不思議ではない状況だから
とりあえず嫡男を決めることが優先されたんだろうな。

ところで、冬姫って一説によると五徳より先に生まれた長女説があるんだよな。
生母も不詳だし、もしかしたら冬姫の生母と信忠の生母が一緒かな?とも
思ったんだけど。

475 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 16:42:47
安土城の奥を仕切っていたのは濃姫でつか?

476 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 17:34:02
安土殿が濃姫であるならば、安土城の奥のNo.1は濃姫。

477 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 18:28:46
>>447-448
不思議なのは、「安土殿」こと濃姫をよく知っていたはずの徳川家康、濃姫とは斉藤&明智の血で2重に結ばれていた春日局、
信長の姪で徳川秀忠の正室お江与のその後の態度。

【徳川家康】は「安土殿」こと濃姫のことを哀れに思わなかったのだろうか?打倒豊臣に燃える晩年の家康にとって「安土殿」こと濃姫は
信長正妻として利用価値があったはず。
【春日局】夫の家臣秀吉に天下を取られた信長正室濃姫と、明智裏切り者の汚名を着せられた春日局は利害関係が一致したはず。
(濃姫の父は斉藤道三、母は明智光秀の従妹。春日局の父は明智光秀の重臣で従弟の斉藤利三。明智光秀の登用に当たっては、
濃姫が信長に口を利いたはず)。
【お江与】父浅野長政の死後、安土城で過ごしたお江与は伯父信長の正室、濃姫に親しみを感じていなかったのだろうか?
安土城では、小姑お市の方(信長妹)や3人の娘達(茶々、江与、剛)とうまく折り合っていなかったのか?

正室の濃姫が安土城の台所を仕切っていた「安土殿」なら、「お鍋の方」を初めとする信長の側室達の監督に専念していたのかもしれない。
信長と違って農民から成上がった秀吉の正室ねねみたいに、子飼いの家臣を育てる必要はなかったからやらなかったと。
だから、本能寺の変後、歴史の表舞台で活躍した夫の家臣、秀吉子飼いの武将との関係が乏しく、また信長正室としての利用価値も
あまりなく姿を消してしまったと。

テレビ東京の新春ワイド時代劇は稲盛いずみの「忠臣蔵_瑤泉院の陰謀」だけど、濃姫を主人公にしたドラマのほうが面白そう。

濃姫=「安土殿」?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%83%E5%A7%AB

478 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 18:42:56
>>477
お市と三姉妹は信長の弟織田信包が面倒みていたと聞いた。
安土城ではなく伊賀にいて濃姫と交流はなかったのでは?

479 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 18:58:28
【徳川家康】は「安土殿」こと濃姫のことを哀れに思わなかったのだろうか?

濃姫を利用したくても利用しようがない。
ねねは利用価値があったので利用した。

【春日局】春日局は利害関係が一致したはず。

春日局が乳母になったのが1604年、春日局が勢力をもてるようになったのは
家光が3大将軍になってからだから、濃姫の死後だよ。

【お江与】お市が信長に対してどう接していたかによるんじゃないか?
夫の仇と思って内心憎んでいたら、子供たちも信長を憎み、濃姫に対しても
心を開くことはなかったろうな。
でも時代がすでに徳川の世になってしまったら、どうでもいい関係にすぎないと
思うが?

濃姫は信長に嫁ぐに際して道三から化粧料をもらっているはずだし(当時の慣習から)
、永禄11年ごろ信長は公方に濃姫の為に御料所をもらい受けている。
信雄にも知行を与えられ庇護されていたので、信長死後も生活に困ることは
なかったはずだよ。信雄の処遇に伴って不安定ではあったろうけどね。

ちなみに信雄から与えられた知行600貫文は現代で換算すると
6,000万円相当らしい。信長死後出家しただろうから、出家者には
他の知行や化粧料を合わせても十分豊かな生活ができたはず。

ただ信雄が改易され流刑になった後に、どこにいたのかが疑問なんだ。
それまで一緒にいた五徳が生母の生駒家を頼って、生駒氏の尾張国の小折に
移り住んだそうだから、行動を伴にしたのか?
そのへんが知りたい。

480 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 19:03:37
養華院殿要津妙玄大姉って法名見ると、大姉のままだから出家していないかも。

481 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 19:26:16
お市は、両端を紐で縛った小豆の袋を兄信長に送り、夫・浅井長政の裏切りを伝えたことから考えると、
兄・信長の知性を試したといえる。もしそのメッセージを見逃すようなら兄といえども滅びてしまえ、
という兄譲りの気性が伺えるw
結局、最愛の夫を殺されはしたが、内心では(流石、わが兄上よ)と思っていたのかもしれない。
少なくともいつまでも信長を恨んではいなかっただろう。弱肉強食の乱世だから仕方がないと思っていたはず。
茶々・初・於江与の娘たちも最初は父を残殺した母方の伯父・信長を恨みはしただろうが、本来なら悲惨な運命を送るはずが
母や自分達に贅沢な暮らしを保証してくれる信長に対しては畏怖の念を抱いていたに違いない。

482 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 19:31:51
因みに信長は「市が男だったなら、良き武将となったであろう」と言っていたらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E5%B8%82%E3%81%AE%E6%96%B9


483 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 19:38:58
小豆のエピソードは創作。

お市はあの時代の女性として離縁され戻るのも当然のことと受け止めていたはず。
あの時代の結婚制度からすると珍しい事じゃない。
「織田家のために一仕事してきました」と堂々と戻ってきただろうし、
信長もそれを認めて親子を厚遇していたはず。
娘達もあの時代の価値観から、敗者の父親の死は当然のことと思ってたんじゃないかな。
大名クラスともなれば親子間の情愛も現代の価値観とはまったく異なっていただろう。

484 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 19:52:39
>>480 当時の慣習からいって未亡人となった大名室は形式的な殉死として
髪を少し切って、尼僧もどきになっているはず。
大姉は在家信者のことだから、在家得度を受け髪を切っていたと思う。

485 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 20:05:35
>>477>>479
(夫を処刑された)お市の方、(父を処刑された)幼少時の茶々、(父を処刑された)春日局たちが秀吉を毛嫌いしていたのは理解できた。
でも濃姫が、夫亡き後、破竹の勢いで天下を制していく秀吉をどう思っていたかな?3人みたいに秀吉から直接酷いトラウマを受けていない分、
織田家の再興を考えてくれるなら、秀吉でもok!と思っていたのかも。
漏れのイメージでは、ひたすら織田の再興のために(暗愚な)信雄を支えた従順で控えめな性格の濃姫。
家康が濃姫を利用しなかったのは、ねねが豊臣家の安泰を願っただけでなく、秀吉子飼いの武将たちに影響大だったのに対し、
濃姫には信長の家臣たちと縁薄く(信長が徹底した能力主義だったので当然といえば当然だが)、
結局、織田家の再興しか頭にないから使えないと見抜いたからじゃないのかな。

こんな感じ↓の濃姫大河ドラマをキボンヌ!
濃姫・戸田菜穂
お市・柴咲コウ
茶々・石川梨華(モー娘)
ねね・友近

信長・トータス松本
秀吉・岡村隆史
家康・伊集院光

486 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 20:19:53
濃姫は意外と好意的に秀吉をみていたと思うよ。
信長の敵をとって、即行駆けつけ自分たちの身の安全の保証をしてくれたのは
なんだかんだいっても秀吉だから。
信忠の嫡男が織田家の正統な当主として後ろ盾になってくれたのも秀吉。
濃姫にとっても実孫扱いの三法師だから、利害関係は
一致していたはず。
ただ信長正室の濃姫が秀吉側に寄りすぎると織田家内で揉め事に拍車がかかるので、
あくまで中立の立場を貫いたのではと想像している。

487 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 20:25:46
>>485 濃姫は意外と派手で華やかな感じじゃなかったかと思う。
派手好きな信長好みだったので、信長の寵愛も得られたのではないかと思うんだ。

個人的には昔の国取り物語の時の濃姫を演じた松坂慶子を上回る女優はいないな。

488 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 20:41:17
派手で華やかな濃姫なら、何らかの形で表舞台に登場してもおかしくないけど、
信長に嫁いだ後、歴史の表舞台から消えたのは裏方に徹したからだと思うょ。
また派手で煌びやかな信長だからこそ、地味で控えめな正室濃姫と馬が合ったじゃないかな?
お市みたいに派手で感情を剥き出しにする性格だと、気性の激しい織田家の人達と上手くやっていけないような気がするw
もちろん信長正室(ファーストレディー)に相応しい待遇や贅沢はさせてもらっていただろうけど。

489 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 21:34:22
いや、見た目が派手で華やかな雰囲気だったんじゃないかと。
美人だったかどうかはわからんが、
例えば内掛けも赤や派手な柄を好んだり、目鼻立ちが大きく
ぱっと目立つ容貌。それでまずカブキ者の信長のお気に召した。
さらに嫁いだ時の力関係は断然濃姫の実家の方が強いのに、それを鼻にかけず、
差し出がましい口もきかず、奥向き以外のことには
関知しなかったので、ますます信長の信頼を得て、夫婦仲も良く、
平穏無事な夫婦関係だったので、史料に登場することなく
終わったんじゃないかなと思ってさ。

ただねねにあてた手紙から女の嫉妬めいた愚痴も丁寧に聞いて、
ねねを励まし、おだて、全面的に味方になってなぐさめているから、
濃姫ともそれなりに夫婦喧嘩や女がらみで気を使うようなことは
あって、そういう経験からあの手紙のような文面になったんじゃないかな。

490 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 21:47:14
信長ってねねみたいなタイプが好きだったのかもよ。
性欲の対象というのではなく、人間的に惹きつけるものが強かったんじゃないかな。
女好きな秀吉が生涯一番愛しぬいたぐらいだからね。
ところでお市って本当に戦国一の美女だったのかしらね?
肖像画は死後描かれたものだろうし、当時の女性の化粧方だと
だれもかれも同じ顔になりそうなんだけど・・・
明智一族には美形が多かったというじゃない。
濃姫母の小見の方や光秀の娘のガラシャも美女といわれていたし、
濃姫も明智の姫だから、実際美女だったとは考えられるわね。

491 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 21:56:41
養華院殿要津妙玄大姉

この法名からは、華やかでしっかりした女性って印象を受けるな

492 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 22:40:46
要津は重要な港。
妙は不思議なまでにすぐれているさま。何ともいえないほど美しいさま
玄は微妙で奥深いこと。深遠なおもむき

織田家の要となった人物に相応しい戒名だね。
やっぱり信長正室の濃姫の戒名としか考えられないな。

493 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 22:46:18
>>490
高野山のお市の肖像はあまりに様式的な美女で能の面のよう。
確か、茶々が描かせたものだったと思うが、
戦国期のほかの夫人たちのような個性が全く見られない。

肖像画で美醜を語ることは、寿像なのか死後に描かれたのか
来歴は確かか、賛は何と書かれているのか・・・とか、
踏まえなければならない事がたくさんあるのだけれど
お市の肖像は血肉の通っていない美人画のような印象を受ける。

それと、自分の私見だけど
○○一族は美形の家系だったらしい・・・ってのは
あんまり使わないことにしてる。


494 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 23:00:20
髪型はみな同じ、眉毛を抜き、これでもかの白塗りに、眉をデコに書き、頬紅を
おてもやんのように赤々とさし、口紅は真ん中上下にちょこんとつけ、
歯はおはぐろ。
これじゃ薄暗い部屋の奥でみたらみんな同じ顔だと思う。
なんかで読んだけど、この時代は目が大きい、鼻が高いは美人と言われなかったそうだ。
目は細く、小さく、鼻は高すぎず小さく、口も小さいほうがよいとされた。
そうみせるためにのっぺらぼうのように白塗りにして、鼻が目立たぬように
頬紅を大げさに塗っていたそうだ。

495 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 10:21:38
さらにふくよかさも美女の条件だったはず。
太っている=豊かさと多産の象徴だったそうだから。
そうなると山田花子がぴったり。
やつが戦国時代に生まれたら絶世の美女といわれていたんだろうな。

武将の肖像画は生前は敵に顔が知れることを恐れ、描かせなかったと聞く。
http://www16.ocn.ne.jp/~dharma/dr/yo/yo3.htm
この肖像画を描いた宣教師がどの程度信長と接触があったのか
しらないけど、よく接見していたフロイスがGOサインだしたのなら
似てるのかもな。ついでにこのサイトの検証面白いよ。
信長は現代でもかなりの美男子だ。
役所浩司に似てる。

496 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 11:05:22
>>489
女優で言うと誰のイメージでつか?

497 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 19:43:52
和久井濃姫は意外とよかった。
どこか寂しげで。

源氏物語の紫の上と生駒がかぶるな。
出自が悪いために正妻になれないが、実質的に一番愛される女性。
日本人はこういう立場の女に同情的で応援したくなるもんだ。
その場合正妻の濃姫と信長が仲のいい夫婦であってはセオリーに反するので
濃姫不仲説、離縁説、死別説がでたんだろう。
武家の夫婦は家を夫婦共同作業で守っていくという使命があったから、
愛情以上に固い絆で結ばれていたりするんだよな。
武功夜話にみるような現代人感覚の恋愛感情なんて大名になんてなかったろうよ。
明らかに昭和期に創作された物語だと思ってる。

498 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 21:08:51
女優なら、自分は、ひかえめで美しい木村多江なんかあってる気がするな。
逸話によくある様な、知的で気性のしっかりした女性ってイメージなら松雪泰子とか。

>>497
>武功夜話にみるような現代人感覚の恋愛感情なんて大名になんてなかったろうよ。
>明らかに昭和期に創作された物語だと思ってる。
まぁ、それ以前に武功夜話では生駒屋敷にいたままという時点で駄目だけどな。
生駒家が信長の家臣ならともかく、側室になった時点では敵と思われていた信清の重臣。
側室とはいえ、要するに、体のいい生駒家からの人質だからな。
むしろ、敢えて人質を出す理由のない生駒家の娘が側室になってる事からして、
生駒家経由じゃなく、土田家から濃姫経由と考える方がしっくり来る程だ。
そういう意味では、恋愛感情なんて考えにくいよな。
生駒屋敷にいたなんて話も、熱田神宮の神司の家にいた信孝の母親とは
実家を含む立場っていう意味でいえば、まったく意味合いが違うよ。
信孝の母親が熱田にいたから、武功夜話を創作する時に、
「生駒氏息女が生駒屋敷にいても問題ないだろう」
と、書き手が浅はかに考えたんじゃね?
系図とか、周辺の逸話には詳しかったかもしれないが、戦国期の常識を知らなさ過ぎだな。

そういえば、出自が低いにも関わらず側室になり、信孝もそれなりに方面軍を
率いる程出世している事からして、信孝の母親の方が寵愛されていたんじゃないかと
少し勘ぐってしまうけどな。
信孝の方が信雄より20日程早く生まれているらしいが、信長に報告するのに
最低でも20日以上も放っておかれるって、相当軽く見られているってことだろ?
坂氏の遠縁とかいうけど、本当は出自が低過ぎて坂氏の養女に入って側室になったとか
そんな感じなのかもしれないな。

499 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 21:31:35
>>498 >>熱田神宮の神司の家にいた信孝の母親とは

ごめん、このあたりよく知らないんだけど教えてください。
信孝母は城にあがっていない側室だったの?
外で囲っていた?という感じでいいのかな?
城の奥にいれないのはなぜ?と素朴に疑問です。

それと、武功夜話だと濃姫輿入れより先に信長の寵愛を受けていたということに
仕立て上げようとしたせいで、年代的な矛盾だらけだよね。
信忠の生母であるということも仕立て上げようとしているようにもとれるんだけど。

500 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 21:45:02
ふつうの武家の家では嫡男以外はスペア&家来だから、二男でも三男でも
順番なんてどうでもいいはずだよな。ましてやどっちも側室が産んだ子なら
その生母なんてさらにどうでもいい問題のはず。
清洲会議後に二男と三男が諍いをおこしたので、ずっと以前から
火種があったように後年脚色されたように思う。
嫡男→その直系男子の子→その直系男子の子・・・
が嫡流だから、信雄も信孝も庶流にすぎないわけだし、
それぞれが他家に養子にいってそこの家を継いだ立場だし、織田家内での
生まれた順番にこだわっていたとは到底思えないな。

501 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 22:06:23
>>499
「勢州軍記」
「彼ノ信長公ノ之御台斎藤山城入道ノ之息女ノ腹ニ無若君也、
嫡子信忠卿モ亦妾人ノ腹也、弘治三年丁巳誕生、是御台ノ之御養子也、
次男信雄生駒ノ息女之腹也、永禄元年戊午誕生云々
三男信孝坂ノ息女ノ腹也、與信雄同年同月誕生玉フ、日数少シ信孝先也、云々
雖然信孝ノ之母儀在熱田ノ神司岡本カ宿所ニ也、
此ノ誕生無傳奏人後日岡本参清須ノ城ニ言上ス之故ニ為三男也」

「余吾庄合戦覚書」
「爰ニ濃州岐阜ノ城主織田信孝ト申スハ、故信長公ノ次男ニテ渡ラセ給ヒシカトモ、
故有テ三男ニソ立給ケル。
其所以如何ト尋ヌルニ、故三位信忠卿ハ、信長公ノ妾腹ニ生レサセ給ヘト、
御台所ノ御腹ニ御子ナカリシ故ニ、御養子ト成給ヒ、御世嗣ニ定リ給ヘリ。
御実母ハ生駒氏ノ女ナリ。
其後、永禄元年同月二十余日隔テヽ、若宮二人誕生シ給ヘリ。
是三七信孝。
次ハ中将信雄卿也。
然レハ、信雄卿ハ三男タルヘキヲ、信忠卿ノ同母タル故ヲ以テ、人皆是ヲ尊敬シテ、
早速信長公ヘ披露ニ及ケル。
故ニ次男ニ定リ給ヒ、又信孝之母ハ、人々サノミ賞翫セス。
遅ク申上ケルニ依テ、三男トコソハ定マリ給ヒケル。
信孝ノ母ハ、坂氏ノ女ニシテ、熱田ノ神司岡本カ家ニテソ生レ給ヒケル。
此故ニ、信孝ト信雄ノ御中、常々不快ノ色見ヱケレハ」

「余吾庄合戦覚書」では信孝を呼び捨て、信雄を信雄卿としているから、
明らかに信雄寄りの記述。
濃姫に「御子」がない、信忠の母親は「生駒氏ノ女」としている。
信孝、信雄誕生前に、信忠が養子に入った事も書かれている。
蒲生氏郷の家臣だった神戸政房の手控えなどを元に、子供の神戸良政が記した
「勢州軍記」の方は、濃姫に「若君」がいない、信忠の母親は、単なる「妾人ノ腹」
にもかかわらず、信雄と信孝の生母は判明している。

502 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 22:23:27
夏目雅子の濃姫見たかった。
正統派美人で、清楚で透明感があって、はかなげで似合ったろうな。
確か大河でお市をやったことがあったが、輝くばかりに美しかったなぁ。
あれぐらい他を圧倒する美女でないとだめだめ。
たしか夏目お市の時、池上きみこ茶々だったが、これまたよく似合ってた。

503 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 22:52:22
信長死後信雄と信孝で家督争いをし、二男&嫡男生母と同腹である、という
ことを信雄が盾にしたいために、生駒氏ノ女と記載させたことも考えられる。
真実であるとするには、生駒の後家→側室→信忠出産→信雄出産の期間に
あまりに無理があるので本当は違うんじゃないかと思っている。
ただ本当に信忠の生母と同腹であっても、嫡男信忠に長男がいたのだから、
本来家督相続でもめるはずがない。いくら3才とはいえ、信長嫡孫として
織田家の正統な家督相続人。
もしかしたら長年織田家でないがしろにされてきた信孝母子の野望があったのかもな。

504 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 23:04:03
信忠の長男が信長嫡孫、信忠嫡男として正式に認められていれば
信雄と信孝が争ったりはしなかっただろうけど、
三法師は単なる信忠庶子だからな。
信長の実子である、信雄と信孝の争いになったのは
ある面、仕方がない事かもしれない。

505 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 23:12:16
三法師って側室が産んだ子でもなく、本当に信忠の子?
という、ご落胤すれすれの扱いだったのが、信長、信忠急死で
突然嫡男扱いに格上げされたとか…?

信孝の辞世の句からして、自分が秀吉の主君という意識がかなり高かったようだから、
本気で自分が織田家の正統な相続人だと信じきってたね。
三法師は嫡男と認めるにはかなり問題ありだったのかもしれない。

506 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 23:14:00
三法師が正室の産んだ嫡男だったら、誰も文句の付けようがないし
幼児だから後見人が誰になるかで揉めるぐらいだよな。

507 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 23:18:56
濃姫&信雄&秀吉&三法師 対 信孝生母&信孝&勝家&お市

信雄と信孝の争いに乗じていろんな確執が表面化したんだと思う。
信孝生母も信孝が織田家の新当主となれば、濃姫以上の立場になれるし、
野心がでちゃって、信孝を煽ったのかもしれん。

508 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 23:22:00
三法師は、正室がいない信忠の、
側室が生んだ庶子2人のうち、年長ってだけ。
庶子はあきらかに嫡男とは扱いが違うから、
秀吉が三法師を押し立てたとき、
織田家中は驚いたと伝わってるからなぁ。
要するに、信長にも信忠にも、
跡継ぎとは思われていなかったって事だろう。

509 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 23:28:54
>>506正室を娶る前に出来た子は庶子扱い(それすらされないことが多いようだが)
だから、そういうことだったんだと思う。
兄信広や(信長の実子と言われる)信正みたいに、
本来家督相続権のない、庶長子の立場にすぎなかったんだと思う。
でも、父親が亡くなれば庶子とはいえ長男という立場は優先されないのかな?
正式に織田家お家督を相続していた信忠の長男だから、立場的には
信忠の弟達よりも、実子の方が相続権は強いと思うんだけど。

510 :日本@名無史さん:2006/12/09(土) 23:33:43
信忠を基準に考えたら、子供が跡取りで
弟が叔父として後見だけど、
本能寺の変時点での織田家に関していえば、
信忠は家督を継いでいても、信長が実権を握っていたのは明白だから
当然周囲は信長基準で考える事になる。
まだ幼児の孫でどうなるか分からない状態と、信長の実子で実績もあるとなれば
信長の実子が優先されるのは当然だな。
強烈なカリスマ信長死後、織田家の存続を考えた場合、
幼児をたてて、それで事がすむ訳はないからな。
そして、実績のあるという基準でいえば、信孝>信雄だし、
信孝の方が新当主としての自負があってもしかるべきかもね。

511 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 09:59:16
>>510 の見解が信孝と勝家の主張だったんだろうね。
秀吉は嫡流にこだわったので、三法師こそが織田家正統な当主と主張したわけだ。

両者それなりに筋が通っているし、そこに第3者の利権争いがからむから
当然もめるだろう。

でも結局三法師が正統な当主となれたのは、結局嫡男優先という
武家の慣習通りということにおさまったのだろう。
いくら秀吉が策をねろうとも、あまりに不自然な主張は周囲を納得
させることが出来なかったと思うしね。

もし三法師がしかるべき家からきた正室の産んだ子でもあれば
信孝もあきらめで、叔父として後見人の立場に徹することができたのかも
しれない。信孝の資質があれば三法師成人まで立派に貢献を務めることで
また歴史は変わっていたかもしれない。つくづく秀吉はずる賢く立ち回ってるよ。

信雄は信長の母、濃姫、姫達の庇護をしているから、
信雄の意向はすなわち濃姫たちの意向でもあったと思える。
信雄が秀吉と同調している様子から、濃姫たちも三法師が正統な
織田家の当主でしかるべきという意向だったんだと思えるんだけどね。

512 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 11:20:21
>>511

信孝も嫡流優先で三法師が新当主に相応しいという理屈は理解していたと思うよ。
それでも、ふってわいて目の前にぶらさがった織田家当主の座をみすみす
あきらめきれずに、いろんな理屈こねたり、自分が次男だと主張したり
頑張っちゃったんだろうと思う。勝家も後押ししてくれたのが仇となったな。
ところでお市はなんで信孝の意向に従ったんだろう?
秀吉を避けたもなにも、出家すれば政略の道具になることもないのに。
織田家を分裂させるようなことに加担したのには反秀吉ということ
だけが理由かな?

513 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 11:30:58
濃姫が秀吉側というのはどうかな?
秀吉の一周忌とぶつけるように、妙心寺で一周忌を執り行ったのは
濃姫と思われる信長夫人だからね。

514 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 12:07:16
妙心寺は、お市主催の法会がおこなわれた寺か。
お鍋は、秀吉の一周忌の方に出てるし、
信孝生母はもう死んでるし、
秀吉の不興を買う事をものともせず
妙心寺で主催できるのは、当時では濃姫くらいしか
考えにくいのは確かだな。
だからと言って、濃姫がお市側だったという確証もないが、
秀吉側とは、確かに思いにくいかもしれないな。
中立だったから、歴史上の表舞台に出て来なかったのかもしれないと
自分は思うな。
信雄が知行を与えて庇護していると、濃姫が信雄側という人がいるが、
父の正妻をないがしろには出来ないだろうからな、当時の信雄の立場では。
濃姫は、婚姻時に道三から貰ったはずの化粧料と
信長が今井宗久に管理させた御料所があったから、
生活に困る事はなかったと思えるしな。
女性とはいえ、個人財産を勝手に処分したりする事は
戦国期には確か出来なかったはずだ。
もちろん、戦に敗れて他国に支配されるようになったなどという事になると
別の話にはなるんだが。

515 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 12:32:37
濃姫が秀吉側というのではなく、三法師擁立に関しては秀吉と意見を
同じにしたという意味だったんだ。
ただ結果的に信雄が秀吉サイドにまわっているから、庇護されている
立場の濃姫もとりあえず秀吉の意向には逆らえない状況になっていったと
思われるな。三法師が亡くなり、事実上織田家家督が信雄の家系になったので、
織田家存続の問題に発展するしさ。織田家存続ということが濃姫にとって
残された一番の仕事だったと思うし。

>>514戦に敗れて他国に支配されるようになったなどという事になると
別の話にはなるんだが。

自分もくわしくは知らないんだけど、ガラシャは光秀から婚姻時にもらった
化粧料を光秀亡き後も保持していたとどこかで読んだ。
一代限りの制限つきなので、化粧料などの個人資産はけっこう
権利が強く守られていたのではないかな?

516 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 12:36:08
補足だけど、濃姫は中立の立場でいたということには同意だよ。
結果論として、秀吉サイドに取り込まれていった印象があるなと思ったんだ。

信孝も本当は濃姫を盾にすることを考えて、断られたのでお市に泣き付いた
のかも、なんて想像してるしさ。

517 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 13:01:41
>>479
遅レスだが、600貫文は6000万円相当というのは
確か最低の基準で計算してじゃなかったかな?
計算によっては数億という話もある。
婚姻時の道三から貰ったはずの化粧料と、信長が今井宗久に管理させた
濃姫の御料所とあわせると、かなりの額の年収があったはずだな。

安土殿の知行はムツシにあったというが、それは小牧城の近くだそうだ。
だが、知行所に実際に住んでいた訳じゃないだろうから、
実際にどこに住んでいたかは分からないな。
今井宗久の関係で堺という説もあるが、意外にありえるかもしれない。

518 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 15:37:48
つか、濃姫は寡婦で信長は二度目の夫だったというものを
見たことがあるんだけど、その辺はどうなの?


519 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 16:52:21
>>517 サンクス!そんなにもらえたんだね。それじゃ濃姫は悠悠自適に暮らせたわけだな。
命を狙われる心配もないし、それだけの年収があれば困ることはなかったろう。
本能寺の変後は清洲城内か清洲城下あたりで暮らしていただろうから、
信雄が流刑になって転々としている間もやっぱり清洲あたりに居を構えていたのかな。
京都あたりの中立国?でのんびり余生を過ごしたかもしれないな。
でも、もし個人的に庵などを構えたり、自分の屋敷を構えていたら何かしらの
史料や石碑(信長御台屋敷跡みたいな)などに残りそうなもんだと思うんだ。
そういうもんがまったくないからな。

>>518土岐の誰かと婚姻していたが、婿殿を道三が毒殺したってやつでしょ?
道三の別の姫か、あるいはその相手と婚約ぐらいはしていて、相手を安心させ
おびき寄せて毒殺した、なんていうならあり得るかもな。
でもあの時の両家の力関係からすると、そんなわけあり姫でも織田家は
喜んで婚姻を承諾したのかもしれないけどさ。

520 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 17:04:23
>>518
道三の娘が土岐頼純に嫁いでいるって話か。
道三の娘が濃姫だけなんて事をいう人間が、
濃姫だと決めつけただけだと思うけどね。
いまだに、濃姫の説明に、道三の一人娘って
書いてある歴史関連の豆知識本があるくらいだ。
言継卿記に出てくる濃姫の姉妹は一体なんだって話だよな。

濃姫の年齢が信長より年上だという説があるが、
これは濃姫の姉が土岐頼純に嫁いでいたのと
混同されているんじゃないかという気がする。

521 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 19:24:02
>>519
>でもあの時の両家の力関係からすると、そんなわけあり姫でも織田家は
>喜んで婚姻を承諾したのかもしれないけどさ。
でも、平手政秀が、濃姫をってピンポイントで話し持っていったんでしょ?
だったら、やっぱり訳ありじゃなかったんじゃないの?

522 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 19:24:45
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/travel/1805/1107425890

ここで、土岐頼武、政頼、盛頼、頼純は同一人物であろうとする説、
について考察してるよ。そうなると、道三の娘と頼純の婚姻関係が
あったという事実はなかったことになる。
正室ではなく、側室に差し出したという可能性はあるかもしれないが。

523 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 21:08:17
>>521 ピンポイントだったのは、道三の正室の姫、年恰好が信長と釣り合っていた、
という理由だったからだと思う。斉藤家では順当に濃姫が嫁ぐ番になっていて、
ちょうど信長とお似合いの年恰好で、なおかつ明智縁の正室の姫、という
願ったりかなったりの相手だったので、平手の爺さんが頑張ったんだろうな。

524 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 21:15:19
濃姫の外見はどうだったんだろう。
父・道三にしても母・小見の方にしても美形だったみたいだし、
確率的にも美人が生まれそうな気がするんだけどね。

525 :日本@名無史さん:2006/12/11(月) 14:38:46
濃姫やお市が美女でないと妄想力がまったくわかない。

526 :日本@名無史さん:2006/12/11(月) 17:47:25
勝手な考察だけど、時代的な美醜の価値観、化粧法、髪型、などを
総合的に判断すると、大名の姫君クラスだと、よほどのことがない限り
(大きなあざや、傷跡)、とりあえず「美人顔」には
作れたんじゃないかな?
当時のおしろいも花魁化粧のように真っ白にぬりたくるものだったようだし、
色黒も隠せたはず。逆に「ものすごいブスな姫君」は存在しなかったんじゃないかな?
秀吉の妹もこのメーク方なら、どうにかこうにか見れるレベルになってたと思うけど。
もしかしたら、現代人からみたら秀吉の妹の方がかわいらしい顔だったかもしれないな。

527 :日本@名無史さん:2006/12/11(月) 19:56:22
当時の醜女として名を馳せたのは、
吉川元春の妻と、
疱瘡であばた顔になった人ぐらいだよね。

528 :日本@名無史さん:2006/12/11(月) 20:23:57
>>527 そうそう、真偽は定かではないけど光秀の妻が疱瘡をわずらったというね。
元々は色白で美形だけによけい疱瘡の醜さが目立っていたというけど。

529 :日本@名無史さん:2006/12/12(火) 09:08:49
>>519
濃姫がすんでいたところという逸話は、清洲辺りにあったと思う。

530 :日本@名無史さん:2006/12/12(火) 09:55:55
>>523 さらに深読みすると、「おたくのわけあり姫様と我らのうつけ殿との
ご婚儀ならば(割れ鍋に閉じ蓋)・・・」と、話をもっていって
承諾させたのかもしれない。。。

531 :日本@名無史さん:2006/12/12(火) 12:02:37
でも、夫を毒殺なんて訳ありの姫を欲しがるかな?
濃姫が土岐頼純と婚姻したとしても12歳くらい。
実年齢でいえば10〜11歳で、初潮が来てたかどうかも怪しい。
幼い頃からの許嫁なら、初潮前でも形だけの婚姻はあるけど
土岐頼純は大人の男だから、初潮前の娘を嫁がせるとは思えないが。

532 :日本@名無史さん:2006/12/12(火) 12:08:43
>>531
別に土岐頼純に嫁いだ姫が直接夫を毒殺したって意味じゃないからね。

533 :日本@名無史さん:2006/12/12(火) 14:08:15
毒殺を指示したのは親父のまむしの道三で、手を下したのは配下のものだろうし、
仮にその姫が濃姫だとしても何がなんだからわからないうちに
夫が突然不慮の死をとげ、実家に帰った、という認識しかないだろうな。

>>531 初潮以前に嫁ぐことは珍しくないよ。人質というのがメインの目的だから。
ただ夜をともにするのは、初潮を迎えてからということになっていたそうだ。
愛姫や千姫もどう考えても初潮前に嫁いでいる。

斉藤家の家系図を以前見たときに、土岐頼純室、という姫はいなかったはず。
ただ家系図も子供の数がばらばらだったりするから何ともいえないけど、
主筋に嫁いだのなら、堂々と書き込んでいるとは思うんだよね。
それとも、毒殺なんてしちゃったから一切触れない事にしたのかな?

534 :日本@名無史さん:2006/12/12(火) 14:20:53
道三が主家乗っ取りをしたひどいヤツって逸話の一つとして
後年作られたのかもね。
>>522にある同一人物説はともかく土岐頼純が24歳没というのは
49歳没説程説得力はないと思っているので、
道三の娘が嫁いだというのは、違う気がしている。

535 :日本@名無史さん:2006/12/12(火) 15:09:57
土岐頼純は若くして病死したのかもよ。
だけど若くして死んだので、不審に思われ、
「まむしの道三に毒を盛られた」なんていう噂がでただけなのかも。
やつならいかにもやりそうだし。
織田信雄も義理父を毒殺して、家を乗っ取ったけど本当かねぇ。


536 :日本@名無史さん:2006/12/12(火) 20:57:11
早死にや今でいう脳溢血や心筋梗塞などによるの突然死などは
全部不審死となり、毒殺…?と噂され、それがまことしやかに
事実として語りつがれていったのかもよ。
たんなる癌も徐々にやせ細っていくから
砒素を盛られていたのでは…?なんていう風にさ。

537 :日本@名無史さん:2006/12/12(火) 21:46:23
死んだ時24歳という説と、49歳という説があるんだよね?
残っている肖像画は、40代くらいに見えるそうだから、
49歳の方が信憑性があるってことなのかな?

538 :日本@名無史さん:2006/12/12(火) 22:40:10
輿入れの謎といえば、濃姫と交換条件で道三のもとに信長の妹が
側室として送られたという説があるが、本当だろうか?
織田家の家系図にそう記されている妹は記されていない。(自分が見た範囲では)
斉藤家でその後どうなったのかもまった不明だ。

539 :日本@名無史さん:2006/12/13(水) 09:26:05
信長の腹違いの妹が秀龍の側室になったという説だね。
「諸家系図纂」の「織田系図」に載ってる。
信秀の娘の添書に「斎藤兵衛尉秀龍 濃州小島城主 左門母」と書かれてる。
詳細は不明だね。

540 :日本@名無史さん:2006/12/13(水) 13:20:17
>>539 なるほど、系図に残っているんだな。
ちなみに「左門母」というのは、信秀の娘が道三との間に産んだ子が
いたということ?
斉藤家と織田家とは2重の人質交換で結ばれていたわけだな。

541 :日本@名無史さん:2006/12/13(水) 15:44:33
>>539同盟破棄に伴い非戦闘員の女性の人質は戻すというのが
戦国のお約束だから、道三亡き後に織田家に帰ったんじゃないか?
濃姫は帰るべき実家がなくなったので、帰るに帰れなかったろうけど。


542 :日本@名無史さん:2006/12/13(水) 16:05:36
>>539
小島城というと、土岐氏の城だけど、1390年に廃城となってるよね。
濃州小島城だから、飛騨の小島城じゃないだろうし。

543 :日本@名無史さん:2006/12/13(水) 16:34:48
こっちの小島城?
http://www.geocities.jp/ikomaigifu/hida/kojima.html

ここの説明書きによると、
>>天正13年(1585)、金森長近の飛騨侵攻の際に落城し

とあるので、時期的にはかぶるけど。
でも斎藤家のものが城主になっていたとは考えられないな。
飛騨を制圧した綾小路頼綱は道三の娘を室にしてるけどね。

544 :日本@名無史さん:2006/12/13(水) 18:32:08
>>539 秀龍室、とか秀龍妾、側室、という記載はない?


545 :日本@名無史さん:2006/12/13(水) 20:34:30
>>541
返されないor返らないケースもままあったわけだが…。

546 :日本@名無史さん:2006/12/13(水) 20:54:20
お市も数年間は戻ってきてないなぁ

547 :日本@名無史さん:2006/12/13(水) 21:03:03
千姫なんて徳川方から大砲がんがん打ち込まれてようやく開放された。
いよいよ敗戦濃厚で命の危険が迫って
返すのであれば、ぎりぎりOKだったのかね。

548 :日本@名無史さん:2006/12/13(水) 23:48:58
>>547
あれは解放されたのか、それとも自分で立てこもっていたのかが微妙だしなぁ。
千姫が城を落ちたのも、淀殿と秀頼の助命嘆願の為と言われているし、
もしかしたら閉じ込められていたというより、自らの意志で残っていたのかもしれないし。

549 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 01:48:24
勝頼後室は帰らずそのまま旦那と一緒にアボーン。
しかも最期は兄へ恨みつらみの文まで送りつけてたらしい。
なので一概に戦国のお約束だ何だと言い切るのは如何かと正直思う。

550 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 08:31:44
>>544
>秀龍室、とか秀龍妾、側室、という記載はない?
ない。
「諸家系図纂」には、元々「室」という記載を省いてある記述が多いから。
>>539の信秀の娘だけじゃなく、他の女性も同様。

551 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 10:09:20
>>549
「お約束」って言葉の意味合いだが、
そういう慣例が広く認識され実行されていた・・・
ってほどの大意で使うもんじゃないのかね。

たくさんの夫人たちの去就をいちいちあたれば
例外があるのも当然、とみなわかってて使ってる言葉だと思うけど。

552 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 11:14:14
女子に関しては生母の記載がないから濃姫が姫を何人か産んでいても
不思議じゃない。むしろ何人か女子が続いたので、あきらめて
信忠を養子に迎えた、ということだったのかもしれない。
信長生母の土田御前も男子のみ4人も産んだというのも不自然で
その他にも姫を何人か産んでいるのではないかと思ってる。
一説にはお市が信長と同腹ということだが、13才違いの兄妹であっても
土田御前が15歳ぐらいで信長を出産していたとしたらまったく問題ない。

553 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 11:34:30
徳姫が生駒氏女の腹だって言うのは確定なの?
信忠は出生時期から疑問だっていうのが分かったけど、
徳姫は、当時の資料に生母が生駒氏女って書かれてた?
徳川の資料に書かれてたの?
信雄失脚後、小折の近くに住んだから、生駒氏女腹確定なの?
信雄が生駒氏女腹なのは、揺るぎない事実だと思うんだけど、
信忠と徳姫はどうなのかな?

554 :バロン曽志崎:2006/12/14(木) 12:28:26
徳川側の資料のほとんどは「信忠・信雄と御同腹」とある。
信忠の出生時期の何が疑問?
生駒氏云々は皆「武功夜話」が出典でしょ?論じる必要は無い。

555 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 12:34:51
徳姫が生駒の子という根拠は、生駒家関連の書簡や史料に基づいているだけ。
武功夜話の元史料もその類だから、違っていても不思議じゃないな。

>>関ヶ原の戦い後は、清洲城主となった家康の4男の松平忠吉から
千七百六十一石の所領を与えられその後は京都に隠棲した。

とあるから、生駒家の庇護を特別受けていなかったと考えられる。
関ヶ原のあたりでは清洲近辺に住んでいたので、所領をもらったのかも
しれないし、小折に住んでいたというのも一時的な避難先というレベル
だったのではないかな?
家康は織田家に徳姫を帰す時に、化粧料をつけたという話もあるし、
その後恐らく家康の指示で千七百六十一石もの所領を与えられたろいうのは
かなりの厚待遇。よほど後ろめたいことがあったのかとも思えるけど・・・
家康が信雄を改易してしまったので、そのためもあると思う。

556 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 12:39:53
>>555
信雄を改易したのは秀吉では?

557 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 14:53:35
>>556 その後一度大名に復帰したけど、関ヶ原で西軍についたと見なされ
今度は家康に改易になった。
本当にボンクラだったんだな。

558 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 16:55:20
>>555そりゃ、五徳の手紙のせいにしてやっかいものの正室と
疑惑の嫡男を始末して、自分は悲劇の主人公を演じてたんだから
罪悪感ありありだったろう。


559 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 18:51:49
>>554
武功夜話とは関係ない生駒家系図でも、類の最初の夫は土田弥平次なんでしょ?
土田弥平次の死亡時期は、色々調べていくと、やっぱり弘治2年9月辺りだし
側室になったのは、それ以降になると、信忠は最短でも弘治3年8月くらいの誕生。
そうすると、信雄は更にそれから最短で、永禄元年5〜6月くらい。
信雄って3月末生まれって言われてたよね。

560 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 19:42:30
>>559 信孝が信雄より20日ほど早く生まれたという逸話があるからね。
信孝の幼名が三七で、3月7日生まれからとったというから、そう考えると
信雄の出産は3月下旬。逆算すると、前年の7月ごろ妊娠しないとその時期の出産
にはならない。土田氏が亡くなったのが、9月あたりとなると、即行信長の
側にあがって、一発で妊娠したとしても、どうやったって信忠は6月下旬か7月の出産。
信雄の妊娠時期を考えると信忠生駒生母説はかなり無理があるんだ。
だいたい土田氏が亡くなった同じ月に側室としてあがるなんていうことが
まずありえない。9月にあがらず、翌月になったらすでにもう計算上
信忠・信雄・五徳の生母になることは絶対不可能とうことだな。

561 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 20:03:05
ということは、信忠は別として、
信雄・五徳の母親にも類はならない可能性があるってこと?

562 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 20:07:38
>>561
いや、信雄の生母なのは間違いない。
類の喪主は信雄だしな。
土田弥平次の没月と信雄の誕生日と伝わる永禄元年3月末とを考えると、
信忠の生母であるというのに無理が出てくるということだ。
信雄の後、徳姫誕生までには、充分期間があるから、信雄と徳姫生母は
類であるということに疑問はない。

563 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 20:19:07
う〜ん、信雄はともかく、五徳は別の側室の可能性もあるかも。
姫の場合生母を特定するような史料は男子よりはるかに少ないというか、
ないに等しいからな。生駒家にはそう伝わっていたようだけど、
信忠がすでに怪しいので、五徳も?と思われても仕方がない。
立て続けに信長の子供を3人産むほど信長の寵愛が深かった、ということを強調する
ためにそうしたかったのかもしれないし。

564 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 20:26:52
>>560 9月に亡くなった夫の未亡人が翌月はらんだとしたら、
前夫の子か信長の子かわからん。
そんな子が織田家嫡男などになれるわけもない。

565 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 21:44:06
側室になって、1回生理が来たのを確認すればいいから
翌月に孕む事も可能だな。
それでも、信忠の生母だと、信雄の出生時期がおかしいことになるが。

566 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 21:48:13
戦死した夫の49日も待たないで別の男の子供を妊娠するなんて。
生駒っていったい・・・

567 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 22:18:16
>>566
普通四十九日は待つさ。
だから、信忠の生母である可能性は、より低くなるのさ。
早産で生まれても生き延びる可能性のある時期でもなくなるからね。

568 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 22:23:33
仮に早産で生まれても、産後一ヶ月もたたないうちにまた子供をしこむ
信長っていったい・・・

やっぱり絶対ありえないな。

ではいったい信忠生母って誰だろう?
嫡男生母ならなにかしら素性がわかる史料があってもよさそうだけど。

569 :日本@名無史さん:2006/12/14(木) 22:35:08
結局、生駒家系図だの武功夜話だのが脚光を浴びなければ
生駒氏女の前の夫が、土田弥平次だと広く知られることもなく、
土田弥平次を調べて、弘治2年9月没が濃厚とされることもなく、
信忠の生母が生駒氏女だということに、疑問が生じることがなかった訳だから、
これまで全然研究されていないんだよな。
大体、弘治2年9月没後に側室になったと、自分たちで言っておきながら、
武功夜話信奉者達は、なんで誰も妊娠期間を計算しなかったんだか。
計算したらまずい思って、スルーしたのかな?( ^∀^)ゲラッゲラ

逸話では、濃姫の子供って言う説もあるが、これは養子に入っていたから
正室腹扱いというのが、濃姫の子供説になったんだろうなと想像できる。
濃姫の養子で、あまり生母が前面に出て来ないとすると、濃姫の侍女で
濃姫が側室として差し出し、信忠出産後ほどなく亡くなった女性あたりが
一番自然だと思うんだけど。

570 :バロン曽志崎:2006/12/15(金) 11:26:44
>>559
生駒氏の系図が何本残ってるかわ解らないが、少なくとも尾張本家の生駒氏
の系図には「土田弥平次」なんて人物の事は何も書かれてないね。

571 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 13:35:48
土田氏の後家話も嘘なら類が信長の子供を産んだ話も全部嘘だったりしてな。
生駒は生駒でも、庶流の生駒家の娘が信長の側室にあがっていて、
そのおいしいところだけどもってきちゃったとかさ。

572 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 15:55:42
土田家家系図には土田弥平次がのってたと思ったが?
土田御前の兄か弟の子供で、吉乃とも血がつながっている親族。

弥平次の土田家は明智を主筋とする家柄だったから、
同様の血を引く吉乃が信長の子を産み、
その子もろとも信長を殺したのが光秀というのも皮肉なことだ
と思ってた。
しかも信長の正室が明智の血を引く姫だろ?

573 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 18:18:55
生駒家には何人も女がいたろうから、信長の側室となり信長の子供を産んだ
女もいたし、土田弥平次の室になって未亡人になったのもいたんだろう。
その二人は同一人物ではなければ筋が通らないか?
どっちかが類だったのかもしれないし、類はさらに違う女だったのかもしれないし。
江戸期の生駒家でもそのあたりの事実確認をしたくても残された史料などからでは
不可能で、あやふやなまま家系図をそれらしく書くしかできなかったのでは
ないかと思う。

574 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 18:29:16
そして、そんな家系図を元に吉乃を創作した武功夜話が全ての元凶ってことだな。

575 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 19:11:52
>>573 
道三姫といえば濃姫というだけの根拠で土岐頼純に嫁いだと信じている研究者も
いたぐらいだからな。

>>574 冷静に考えると、どう考えたって創作以外考えられない
内容なのに、それを史実と信じていた研究者や読者が浅はか過ぎたんだよ。
元凶には違いないけど。

576 :バロン曽志崎:2006/12/15(金) 20:04:18
>道三姫といえば濃姫というだけの根拠で土岐頼純に嫁いだ
そもそも、道三の娘が嫁いだとされるのは次郎ではなく、頼芸の弟の七郎と
八郎。
ちょっと調べればすぐわかると思うんだが、ここの住人は出典もわからない
ようなネタをもとに批評するばかりで、本気で調べる気は無いんでしょうかね?

577 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 20:42:09
道三姫の嫁ぎ先
土岐頼満、土岐頼香、金森長近、土岐頼純、斎藤利三、織田信長
伊勢貞良、今出川晴季、姉小路頼綱、畠山昭高、稲葉貞通、大沢正秀、
筒井順慶


578 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 20:46:13
>>576 ここはそういう住人の集まりなので嫌なら出てって二度とこないで下さい。

579 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 21:02:54
七郎と八郎って頼充と頼香のことかな?
そうすると次郎って頼芸ことだよね?
頼純も土岐二郎と言われているけど、これは土岐家の嫡男は二郎と言われるからで
実際は次郎は頼芸で、頼純は土岐二郎政頼の別名だというのが本当のところだと思うよ。
頼純に道三の娘が嫁いでいるって言うのは「六角承禎条書写」に「剰次郎殿を聟仁取」って
書かれているところから来てるのかな?

580 :バロン曽志崎:2006/12/15(金) 22:03:12
>>578
資料根拠のない妄想スレって事を認めちゃうんですか?
真摯に研究してる住人に失礼では(笑

>>579
>七郎と八郎って頼充と頼香のことかな?
そうなりますね。
「信長公記」でも道三の娘婿は「次郎と八郎」とされてますが、こちらでは
「頼芸の子」とされています。
次郎が頼純にしろ、頼芸にしろ、毒殺されたとは思えない訳で、頼芸の子の
次郎は頼次ですが、もちろん毒殺されていないし、年代的に無理です。
資料価値は劣りますが、「土岐軍記」や「土岐之系図」などに見える、娘婿
は「七郎と八郎」とする説の方が無難と思われます。

581 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 22:10:55
最近のバロンさんが妙に攻撃的なことについて


582 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 22:15:56
>>580
土岐氏の頼純関連は、同一人物説や親子説が色々あって
実際よく分からないね。
横山住雄の「斎藤道三」って本は、道三のことがよく書かれているけど
頼純のあたりについては、疑問に思うことが多い。
でも、頼純に道三の娘が嫁いでいる説に関しては、バロンさんの
書いていることに賛成するな。
おそらく、土岐二郎って言う嫡男が継ぐ名前で、勘違いしたのが発端だと思う。

583 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 22:17:51
>>581
>>ここの住人は出典もわからない
ようなネタをもとに批評するばかりで、本気で調べる気は無いんでしょうかね?

といいながら、
>>真摯に研究してる住人に失礼では(笑

と言ってる矛盾に気がつかないぐらいだからさ・・・
そうとうアレだねw

584 :バロン曽志崎:2006/12/15(金) 22:26:04
>>583
「根拠のない妄想や煽りに嫌気がさして、資料を提した書き込みをする人が
いなくなってしまったね」という嫌みですよ。
大人ならそのぐらい察してくださいよ(笑

585 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 22:52:31
自分はバロン氏の言おうとしてることがわかるけどね。
ここの人って、ひとつのネタや事象にこだわり妄想しすぎだもん。

586 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 23:03:15
>>584 申し訳ないが、嫌味だとわかっているなら書かないで下さい。
荒らし行為ですし、現に荒れかけているでしょ?
察するも何も、そんなことを書かないことが大人の常識だと思ってますので。
自分の趣向に反すると思ったらすみやかに退散して、自分で相応しいと思った
スレに移動してくださいな。

587 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 23:21:06
>>586 スレタイに逸脱した話題をすることは規則違反だろ?
濃姫に限定した話題なら限られた史料をもとにするから
こだわりが強くなるのは仕方ない。
史料に基づいた憶測の範囲だと思うよ。
妄想だと不愉快に思うなら、こなきゃいいのに。

588 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 00:08:20
本名は何だったのだろうね。
一応「きちょう」「こちょう」が出ているけど
信憑性の方は・・・・・・??
とりあえず確実なのは「鷺山殿」なのかな。
濃姫(於濃)って呼び方も、信憑性イマイチなんだよね?
・鷺山殿
・帰蝶(奇蝶)
・胡蝶
・濃姫
・安土殿
このくらいか。
可能性としては「美濃御前」とか「斎藤殿」みたいな呼び名もあったのかなー
と思うんだけど・・・。あとは「岐阜殿」とか。。

589 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 00:13:24
呼び名と本名は違うよ。



590 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 01:03:09
「鷺山殿」って響きが好きだな。
白く優雅に羽を広げたような印象が想像できてね。

591 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 01:38:12
>>584
史料に基づいた話がいいなら、何か面白そうな史料を持ってきてよ。
史料が少なすぎてネタがループしがちなんだから。

592 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 09:37:45
美濃にいたときは、明智の姫って呼び方もあったらしいね

593 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 11:49:02
噛み付かれてもいちいち反応しないようにしましょう
スルーですよ

594 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 12:14:52
妄想、憶測抜きで、史料に残された記述と医学的な考察から、
信忠と五徳、あるいは信雄と五徳が同母なのは
可能だけど、信忠と信雄は不可能という結論になる。
さらに、五徳が生駒ノ子ということを示す明確な史料がないので
五徳が生駒の子ということも断定できなくなる。
したがって信雄が喪主をつとめたという史料や、信雄は生駒ノ子と明記された史料からも
信雄は生駒が母と考えられるが、そうなると信忠の生母は生駒ではない、
また五徳の母も生駒であるとは断定できないと結論ついてしまうが
それでいいのかな?

595 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 12:25:40
とりあえず論文発表してみればw

596 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 13:54:57
武功夜話などの偽書じゃなく信頼おける資料に
土田弥平次が前夫だと、書かれていれば>>594はあてはまる。

要するに土田弥平次が夫って言うのが嘘なんだろ。

597 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 16:38:43
信雄改易後の濃姫の行方だが、五徳は生駒氏のいる尾張の小折、
土田御前は信包のもとへ、それぞれ行ったというけど、
濃姫はどこに住んでいたのかな?
そのあたりの消息も不明なので死亡説がまかり通ってしまうんだろう。

598 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 17:06:49
土田弥平次の妻から後家になって、信長の側室になって信雄、五徳を
産んだ生母が生駒の方である、ということになっていたのなら誰も真偽を
疑う事なかっただろうな。事実でないとしても。
武功夜話で欲だして信忠も生駒の方の子だということにしたがために、
矛盾があっさりばれ、捏造だと指摘されてしまったわけだな。
信雄も信孝も自分の正統性を主張するために出自を虚飾する必要があったんだろうな。

599 :バロン曽志崎:2006/12/16(土) 17:50:50
>>598
いい加減、ご都合的な妄想はいいから、信忠が生駒氏の息子でなく別人の子
であるという資料を出してよ。
信忠が生駒氏の子であるという優良な資料が無いと言うが、別人の子とする
資料は皆無。
「××の子という確実な資料がないから、別人の子である。」なんて言い出
したら、どんな屁理屈でもまかり通って歴史研究が成り立たない。

600 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 18:01:06
>>599 歴史研究なんてそういうもんでしょ?
ある仮定をもとに史料をつなぎ合わせて裏付けしていくわけだから、
屁理屈といえば屁理屈みたいな論説ばっかり。
生駒が信忠生母であるという優良な史料がないこともわかってるなら、
この問題にいちいち目くじら立てる必要はないのでは?
昨夜からのあなたの書き込みは冷静さを欠いているね。
ここの住民に腹がたつなら荒れて迷惑するから書き込みせずに、
さくっと移動したまえ。

601 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 18:11:06
>>599 >>598は妄想ではなく、信忠、信雄、の誕生を逆算したら
生駒が二人の生母になれる可能性がない、ということを根拠に
そういう発言になったんじゃないの?
信雄は一応他の史料に生駒ノ子という記述があるので、そうなると
信忠の生母は別人になるということでしょ。
強いていえば信忠の生母に関しては生駒とは書いていないということが
そのことを裏付けているかもね。他家では側室の産んだ子でも
嫡男だと生母の素性もしっかり残っているけどね。
武功夜話だと子供の誕生の月足らずの問題はクリアなんだけど、
それ以外の年代的なことは矛盾だらけなんだよね。

602 :バロン曽志崎:2006/12/16(土) 18:20:20
>>601
通説では信忠の生年は1557年、信雄は1558年。
年子ですらないのに何がおかしいの?

信忠の生母は生駒氏としたり、信雄と同腹とする、二次資料はいくらでも
ある。逆に信雄だって、一次資料にはなく軍記などの二次資料しかない。
無論、「夜話」は抜きにしても。

603 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 18:27:36
>>602 1557年と1558年に生まれた兄弟を世間では年子といいますが?
あ・た・ま大丈夫〜


604 :バロン曽志崎:2006/12/16(土) 18:45:01
>>603
ゴメン。
「年子だから何がおかしいの? 」
の間違い。

>あ・た・ま大丈夫〜
多分、あんたよりは大丈夫。

605 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 18:46:31
>>602 信忠の生母は生駒氏としたり、

いくらでもあるほどあったっけ?




606 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 18:53:54
生駒氏女の夫が土田弥平次が確定なら、弥平次没年月日から逆算して
生年「月日」の関係でおかしくなるね。
弥平次で確定していないから生年だけなら、
信忠の「月日」は分かってないから
年子でもおかしくないと思うよ。

自分は信忠の生母が生駒氏女でも構わないと思うけど、
土田弥平次などが出てくる武功夜話は創作だと思う。
武功夜話にでてくる、信長最愛の人「吉乃」が創作で、
普通の奥で正室に仕えて側室やってた生駒氏女はいたって事で
いいんじゃないかなぁ?

607 :バロン曽志崎:2006/12/16(土) 19:02:23
>>605
たとえば織田家の系図・家譜は現在、庶流も含めて十数種確認されているが、
母は生駒氏とあって、信雄は記されていて、信忠は未記載なんてものは確認
されていない。逆にあれば教えて欲しいぐらいだ。
また縁戚である徳川家の家譜・覚書類でも、信雄・徳姫と同腹とする資料は
多いし、尾張の地誌類でも散見できる。
信忠の母親に別人の名前が出てくる資料が一つでもあるなら、もちろん検討
が必要だろうが皆無なのだから、ことさら否定する吹聴する必要はあるまい。
当然、「夜話」は検討資料にあたらないのだろう?

608 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 19:05:55
類の没年(38才)などが正しかったら当時の子供達の年齢を考えても
信長の側室にあがったのは30才ちょい前ぐらい。
普通に考えて後家もしくは、離縁後に側室になったと考えられる。

土田弥平次は道三と義龍の戦の時、明智の下で道三側について、
その合戦で戦死し、いったん土田家は断絶してるんだよね。
断絶していなかったら詳細な家系図でも残っていたと思うけど。
でも生駒家が類と土田氏の婚姻を認めているわけだから(武功夜話に意義申し立て
してないようだし)、事実だったという認識で構わないんじゃないの?

609 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 19:08:09
土田弥平次が死んだのは、明智城を義龍が攻めた時と言われているね。

610 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 19:15:05
>>607 はぁ?根拠って家系図だけだったの?デラワロスw
家系図なんて事実確認もせずに、家系図作成屋が過去のものを模倣したり、
金もらって先祖のすり替えやったり、適当に作られているのを知らないの?
そういえばあんた分家でも松姫が信忠室と家系図に記載されているじゃないか、
どうなんだ!と噛み付いてたね。
相変わらず根拠は家系図だったのか。まったく進歩のない人だ。あきれた。

611 :バロン曽志崎:2006/12/16(土) 19:22:42
>>609
義龍が光秀生家の明智城を攻めたというのは近年、疑問視されている。
「明智軍記」等の資料にしか見られず、傍証資料が全く見られない。

>>610
じゃー、信雄が生駒氏の出生とする資料を、系図や軍記を抜きにして提示
してね。

612 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 19:26:58
信雄は1558年の3月確定(恐らく27日)。
逆算すると6月頃に妊娠。
そうなると、4月の終わりか5月初めの頃忠を出産。
妊娠したのは1557年7月終わりか8月入ってすぐぐらいに妊娠。

側室にあがっても、最低一ヶ月は誰の子も妊娠していないか
確かめる意味もあって、手付かずで奥に入ってお声がかかるまで
待機するそうだから、生駒が城にあがったのが6月あたり。

弥平次の戦死の時期がいつによるかだけど、
戦死してすぐに側室にあがるとは考えられないので
数ヶ月経ってからとすると、その年の1月2月の頃に弥平次が亡くなったという
記録があるのかな?
義龍が明智城を攻めたのはいつだっけ?

613 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 19:35:13
>>611 軍記のことなんて一言も触れてないよ〜
気が触れちゃたの?


614 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 19:41:53
弥平次の後家と信忠の母が同一人物だというのは日程的に苦しいってことだよね。
生駒には弥平次の妻になった娘と信長の側室になった娘が別々にいて
その二人の話が混ざっちゃったとかなんだろうか。

615 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 19:42:10
>>612 生駒には男の子供がいなかったのかな?
子供がいたからこそ、側室に選ばれたのだろうという
意見もあったけど。

616 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 19:48:54
>>614 でも別の娘が側室になるにしてもずいぶんと年をとってから
ということになってそれはそれで不自然じゃ。
墓石の記録から亡くなった年齢などを逆算すると
信忠を産んだのは27,28才ぐらいになる。
それ以前に信長の側室にあがっていたとしたら
それだけ子供ができやすい体質なのに
全然生まれないのも変だし。


617 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 19:50:23
位牌の記録からだと、信忠を生んだのはかぞえで30歳
どう考えても初婚ではないな。

618 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 19:51:29
でも、最初の結婚が土田弥平次とである必要はないけどね
大体、土田弥平次と生駒の女が結婚している記録もないのだがね
武功夜話以外には。

619 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 19:53:55
最近ウィキの信忠、生駒吉乃に関する説明書きがずいぶん編集され変わった。
吉乃信忠生母説はかなり懐疑的な書き方をされている。
ここのスレの影響か?

これで吉乃に対する認識が根本的に変わっていくだろうな。
まったくの信長初心者がウィキを読んだら、書いてあること鵜呑みにし
先入観を持つようになるだろうから。

620 :バロン曽志崎:2006/12/16(土) 19:54:41
>>613
まさか、例の軍記だけが根拠ですか?
あいかわらず何の資料も根拠も提示できず、話をすりかえて逃げていくんだよ。
>>600も認めている様なので、「異母兄弟」説は根拠のない妄想でFAね。


621 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 20:01:34
年齢的に考えても後家もしくは離縁して実家に帰ってたんだろうけど
前夫は土田弥平次じゃないと考える方が辻褄は合うね。

622 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 20:02:37
武功夜話って前野家文書にあるいくつもの史料群をもとに作った創作物語だから、
その中の史料には土田弥平次と吉乃(モデルとなった生駒の娘)の婚姻を
示すものがでてきたのではないかな?
まぁその史料も怪しいとなったらどうしようもないけど。

もし弥平次との婚姻という事実がなければ、それこそ年代的な矛盾が生まれないように
別のものとの婚姻があって、後家になって〜みたいな物語になって、
ここで論議されているような信忠と信雄の生母にはなり得ない、みたいな
ことにはならなかったから、武功夜話を作る側もその方が都合がよかったはずだよ。

623 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 20:03:48
バロンさんともう一人の方、いい加減にしてくれ。
非常識だよ。
きちんと論議している住人に失礼とは思わないのか?
明らかに相手を挑発するようなスレの主旨に反するし、
このスレの機能を妨害しているよ。

もう一人か、複数か知らないが、
スレを荒れる。
大変迷惑だからでていってくれ。

624 :バロン曽志崎:2006/12/16(土) 20:05:44
>>619
>ここのスレの影響か?
そりゃ、そうでしょ。
こんな珍説、吹聴してまわってるのはここの極一部の住人だけ。

625 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 20:05:45
要するに、スレでけんかする必要ないと思うんだよね
「武功夜話に書かれている生駒吉乃の逸話は創作」
ということさえ分かっていれば、
前夫が土田弥平次というのも創作と考えれる訳だし
普通に生駒家から側室に上がって、正室の管理のもと
信忠と信雄と徳姫を生んだと考えたらいいんじゃないの?

626 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 20:08:19
>>619
生駒吉乃に関しては、武功夜話に書かれていることが創作って意味合いが
主に書きたかったことじゃないの?
正室格扱いされたという、武功夜話を元にした説への反証でしょ?
もともと、正室格扱いされたって生駒吉乃のところは書かれてたからね。

627 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 20:09:19
>>620 時々ためになる書き込みを参考にさせていただいておりますが、
今回の昨夜からの貴方の書き込み、感情的な態度には不快感を感じます。
こちらはランダムな書き込みです。
個人が良識を持たなければ正常な意見交換の場にはなれません。
非情に残念に思います。

628 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 20:21:18
すると、生駒が信忠を産み、濃姫の養子となり嫡男となったが、
五徳を出産後、閨を去り、奥を下がり、出家してしまい、
死後信雄喪主で葬儀が行われ、生駒家の菩提寺に葬られたと。
肥立ちが悪いうんぬんも武功の創作だろうから、それは無視して、
寵愛が深かったら奥はさがらんだろうと思う。お腹様だし、
幼い信雄と五徳をおいて奥を下がるのはよほどの理由があったのだろう。
それになんで生前出家したんだ?
寵愛が深かったというわりには、子産みの用が済んだら
とっととおはらいばこという印象だな。

629 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 20:29:03
ちょっと質問なんだけど、生駒の墓はなんで生駒家の菩提寺で生駒家の
といっしょなの?織田家の菩提寺には入れなかったの?
男子を二人も産んでいるのに?と不思議。

630 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 21:41:47
>>619 今読んできたけど、ずいぶん変わったな。
武功夜話が創作というのが定着し、吉乃が架空の人物だったというのも定着
したということなのかな。

土田弥平次は土田宗家の当主。
武功夜話としてはそのこともいれておきたいポントだったので
別の配偶者ではだめだったんだよ。
でも弥平次と類が住んでいたとされる屋敷が可児市土田にあったという
伝承はあるよ。

631 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 21:52:56
>>612 道三が亡くなったのが4月20日。
義龍が明智を攻めたのがそれ以降だから、
弥平次が亡くなったのは少なくともそれ以降だな。

632 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 22:01:16
>>630
弥平次の正室が類であるというのは伝承にはないんだ。
武功夜話以降、「吉乃(類)だったのか〜」ってことになったのさ。

633 :バロン曽志崎:2006/12/16(土) 22:10:34
>>627
正直、やりすぎた。反省している。
悪意のある書き込み以外は攻撃的にならないようにしているのだが。
ましてや、自分が金出して運営してる掲示板でもないのに管理人きどりで
「出て行け」とかは絶対に書かないが。
気違い相手も疲れたので、いっそ、こっちは妄想、なれ合い系のスレ、
ある程度、資料的な話がしたい人は戦国板の方でことでいい?

>>613は早く資料出してね。

634 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 22:17:33
>>633 全然反省してないし、挑発するような書き込みやめろよ。
君のそんな行為のために荒れて迷惑するんだよ。
かってにスレの主旨を決め付ける権限もないだろうに。
どっちが管理人気取りだよ。
いちいちそんなことを書き込まずに勝手に戦国版にいけばいいじゃん。
こいつまじむかつくよ!


635 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 22:18:30
あ〜らら、とうとうバロン氏発症しちゃった。
歴氏オタには多いからスルーするのがいいよ。

636 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 22:38:34
私はある程度史料や史実にもとづいた憶測を語るのが好きなので、
一部の方の心無い批判はあえて無視します。

個人的な見解になりますが、生駒が信忠の生母であるということは当時の文献には
記載されておりません。後年織田信雄の家系が主流になってから作成された
家系図などの史料によるものです。
また濃姫の養子になるという記載の箇所において、織田信雄サイドの文献にのみ
生駒氏が信忠生母説であると記されているけど、第三者による客観的に書かれた
史料等には信忠生母が生駒とは書いてありません。
このことは、信忠生母が生駒ではなく、早く亡くなったか何かの理由で
世間的に名を知られていなかった側室であることを物語っていると思います。

史料もその性質や誰の視点から書かれているかなどで事実が歪曲されたり、
捏造されたり、あるいは単純な誤記などもあり、史料の成り立ちも
を見極めることも必要だと思います。

637 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 22:53:41
大人気の霊感歴史ブログでは信忠の生母は祖父江秀重の縁のお豪という女性だって。
信長は祖父江の血にこだわって、非情に大切に思っていたとか。
お豪は29歳で亡くなっているそうだ。
濃姫は信長にとても大事にされ、仲睦まじかったそうだよ。
生駒は濃姫と相談して、戦災後家の類を側室として召したんだとさ。

祖父江秀重って実在の人物?

638 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 23:12:41
Wikiの編集したのどう考えてもここの住人だな。
吉乃が生母でない理由として妊娠期間の矛盾をついてる。
三法師の母親を塩河、森可成の娘のどちらか、と書いてあるのも
ここの住人ぽい。

639 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 23:15:14
>>637
祖父江秀重は実在の人物で、信秀時代から織田家の家臣だよ。
本能寺の時、安土城二の丸の在番だったことで有名。
次男の孫丸は、本能寺で討死しているよ。

640 :日本@名無史さん:2006/12/16(土) 23:25:46
三法師の生母が森可成の娘って、歴史雑誌にも一時のってたことあったけどね。
実際墓所を考えると、塩川家とのつながりがないからな。
森可成の方とは墓所つながりになるのかな?

641 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 00:13:21
霊視での歴史検証について書き込んでる人がいるけど
そういう話題はオカ板でやれば?
霊視というのは能力者いかんで内容が変わったりするもんだよ。

642 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 00:26:43
さっきから気になっているんだけど、
ウィキの編集しているのがここの住人だと何か不都合でもあるんだろうか。

私個人は文献読んでいるわけでもないし、そこまで信長関連詳しいわけでもない。
ただ単純にいろんな人の説を見て「おもしろいなー」と思っている。
実際いろんな考え見れて為になるし。
生駒御前が信忠の生母ではない、という資料もなければ、生母であるという
信用にたる資料があるわけでもないんでしょ?
だったらどっちもお互いが「これこれこういうわけだから、こう思う」という
考察にすぎないんじゃないの?
信忠生母が生駒御前ではない、という事をさっきから難癖つけている人は、
信忠の母親が生駒御前である事を必死にとどめておきたいようにしか見えない。
そんなに言うなら自分こそ「信忠の生母は生駒御前である」という確かな証拠を
示せばいいのに・・・。

643 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 00:29:41
うわ・・・、
土曜は朝から外出してたんだけど、
このスレの伸びようは・・・、読むのに疲れそう

644 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 00:30:26
不都合というよりオナニーで書き込むなということだろ。

645 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 00:53:54
信長の閨房や子の母については
史料が少ないから研究者も踏み込まない、というか
研究する必要性や需要もあまりないとみて
研究者もいないんだろうな。

そんなに角突き合わせてする問題でもないのに
なんでみんな尖がってんかね。

646 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 01:19:31
尖ってるのは一人だけじゃん。

647 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 01:19:56
まぁ今まで通り、少ない史料ながらあれこれと語り合うのでいいんじゃないの。

648 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 01:42:50
また伊勢湾台風なみのがきたら、どっかの旧家の倉から歴史を覆すような
史料がでてくるかもしれない。

649 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 02:28:38
全然関係ないかもしれないが、妊娠あたりのレスを読んでいるうちに
信忠の幼名が奇妙丸だったことを思い出した。

650 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 03:03:09
>>648
台風なんぞ来なくても史料なら実は毎年いろいろと出てくるぞ。
ただ読解できていないものが多数だし、あってもチラ読みして
発見がなさげなものはパスされ再びお蔵入りなんてこともある。

あと、そういう文書などがあるらしいという噂を聞きつけて
尋ねて行っても門外不出、先祖の遺言で家の者にしか見せれない他で
実質調査不可能なことも少なくない。特に寺社。

651 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 10:18:44
>>650 倉の史料なんて地雷踏むかもしれないからな。
ご先祖のとんでもない醜聞がばれたり、信じていた先祖が
まったく違う人だったりなんてことがばれちまう。
前野家文書の検証を第三者にいっさいせないのはそのあたりの事だと思う。
寺社が閉鎖的なのもそう。
有力者の墓がまったくの別人だということがばれちまったら
大変だからな。
グレーのままにしておいたほうがいい場合もあるわけだ。

652 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 11:24:26
仁徳陵なんかも、実際本物かどうかがわからんから
昔から学者が立ち入りさせろと言っているのに
宮内省が絶対許可しないもんねぇ。

653 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 12:18:52
天皇家関係なんてそれこそ・・・
ルーツがはっきりわかっちゃったらしゃれにならん。

地方にはうそ臭い家系図や甲冑の類で武田の末裔、平家の末裔を
自称している家けっこうあるよ。

654 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 12:33:46
でも封建社会ならともかく、
今の世で「源氏の血筋です」「武田の末裔です」って言っても
一般人なら「フーン」だし、歴史好きからしても「おー、すごいなー」で
終わる気がするんだけどね。
遠い先祖が偉人だからって就職できるわけでもないしw

655 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 12:47:13
古墳の調査ができないってことは、歴史研究、特にわが国の黎明期の研究ができない。
天皇家のルーツがはっきりわかったら、何か都合が悪いことがあるのだろうか?
どのように、この国が形成されてきたかの歴史を知ることが、『愛国心』の基本だと思う。

656 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 12:58:35
>>654 地方だとやっぱり○○の末裔はまだまだ威光があるよ。
地元に何の貢献もしてないのに地元の名士になってたりする。
身元がはっきしているということでもあるし。
身元(B出身か否か)は今でも地方では結婚問題を大きく左右するんだよ。

元々本陣や庄屋クラスの大農家が、戦後のどさくさに収集した
古物もので怪しい伝承に箔付けしてることも多いんだけどね。
先祖伝来の甲冑や刀、だなんていいながら全然違う家紋が
ついていたりしてもお構いなし。
これは敵方の分捕り品で、となる。
当然偽造品も多く、それがばれるのを恐れて地元の
歴史資料博物館への展示を断る。

657 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 13:03:30
>>654 そこに価値を持っている人は相変わらずいるってこと。
ここのスレで信忠は生駒が生母だと粘着している人って
自称信雄の末裔なのかもね。
信忠と同腹のでないと信雄の価値が下がるからさ。
もしくは生駒家の末裔?
生駒が嫡男を産んだか、産まないかでは、生駒の価値が下がるじゃん。
最近の考察で、生駒が正室がわりどころか、ただの側室で
とっとと信長のもとをさって実家で寂しく亡くなったことが
わかっちゃったしね。

658 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 13:22:10
生駒氏や信雄系のこと悪く言うのイクナイ!
そもそも、家康に逆らった当主秀信の父信忠が信雄と同腹だとしたからって
江戸初期の生駒氏も、信雄系も何の得もしないんだぞ。

私も偽装だとは思ってるけど、偽装だとしたらその理由は
信忠が「身分低い女性から生まれたんじゃね?」と言われるのが
嫌だったから、信忠の名誉の為だと思ってる。
(しかもホントは濃姫の子だと思ってる。痛すぎるのは百も承知)
名も知らぬ、濃姫の侍女が産んだとされるより、
大名家である生駒氏出身女性の腹の方が
当時としては余程信忠の名誉は保たれたんだから。


659 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 13:55:54
生駒の実家である生駒家は別に身分が低いわけじゃないじゃん。
家禄は少なくとも由緒ある家柄だし、生駒の宗家は城持ち。
土田家の次男だった人物が生駒家に婿養子に入って、その子孫にあたるのが
生駒なんだから。土田御前も土田一族だったというから、生駒は信長とも血縁関係
にある。
もっとも生駒家が大名になれたのは、信忠死後で、それまでは生駒家は
裕福だったとはいえ、武士とは認められていても商家という位置付けだったから
生駒が身分が高い出自というわけではなかったのは確かだな。

ただ、正室と側室には越えられない壁があるからね。
信忠にとって、出自のいい生母をもつことよりも、濃姫が養子にしてくれたという
ことの方が幸いしたわけだ。仮に信忠が身分の高い側室の子だとしても、
濃姫が養子にしたのが別の男子だったら、嫡男にはなれなかったろうからさ。

信雄が信忠生母と同腹だとやたら主張したのは、織田家の家督相続があったから。
そういう箔でもなければ、武士としても器量があり、誕生日も実は20ほど信雄より早いとされた
信孝とあらそっても勝ち目がなかったかもしれないとあせってたんだよ。
その時期に記された信雄寄りの史料にのみ、信忠の生母は生駒と書かれている。
それ以外の利害関係がからまない史料には、信忠の生母は不詳のままで、
ただ濃姫の養子になっているとだけ記されてる。
嫡流が自分になるか、信孝になるかだから、信忠生母の問題は
ものすごい損得がからむじゃないか!

660 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 14:30:36
>>658 >>名も知らぬ、濃姫の侍女が産んだとされるより、

側室腹となると↑は当たり前だ。
徳川家康の子なんてどれもこれも母親の出自は低い。
徳川将軍家の将軍生母は武家の娘ですらないものが多数いる。
それゆえに側室腹だと格下に見られ、後から正室の子が生まれると
お決まりのように家督争いが起きる。家臣にとっても
正室の子でないと嫡男と認められない、という本音もあるから。
武田勝頼が家臣の信頼を得られなかったのには、他家を継いだ側室腹の子
ということが原因の一つでもある。

661 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 15:03:39
勝頼は武田家相続もしてないしねぇ。
信玄の跡取りはあくまで勝頼の嫡男だし。
勝頼はあくまで後見であり、風林火山さえ認められてない。

662 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 17:06:30
信雄や生駒家が悪いというより、武功夜話なんて先祖顕彰小説を
あたかも史実ですとして出版した、吉田家と、出版社と
お墨付きを与えた小和田教授と、大々的に宣伝したNHKや朝日新聞が
悪いんじゃないかなぁ?

武功夜話が創作だとしたら、土田弥平次が夫ってこと自体
嘘って可能性が高くなるし、そうだったとしたら、べつに
人質って意味合い含めて側室になってた生駒宗家の娘が、
信忠産んでも全然おかしくないと思うんだよね。

信忠が生駒腹じゃないって言う仮定は、武功夜話に書かれた
土田弥平次が夫だったってことが、本当だったって言う前提なんだから。

663 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 17:23:30
土田弥平次の後家であっても信忠正母の可能性は
やっぱり五分五分でしょ?
妊娠時期の矛盾はなくなるというだけの話。
別の側室の産んだ可能性が抹消されるわけではないと思うけど。
武功夜話の話が嘘となると、一身に寵愛を受けていたという話も嘘となる。
現に坂氏の娘と完全にかぶって床をともにしてるし、さらに別の側室が
その時期存在したとしてもまったく不思議じゃないと思う。
そもそも側室は同時期に複数あげるという習慣があったしね。
一人だけに寵愛が偏らないためもあるらしいけど、とにかく
子孫繁栄という目的があったから。
道三がなくなって、GOサインがでたとたんとりあえず健康で出自の
無難な側室が濃姫の承認のもとに集められたはず。

664 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 17:30:36
武功夜話が全く全部創作ってこともなく、元になった史料もあって
信憑性の高い部分もあるんだろうけど、こうなってくると
みんな怪しく思えてきちゃうな。
とりあえずわかるのは、土田弥平次の妻だった女性と信忠の生母は別人だろうってこと。

665 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 17:39:15
結局、信長の寵愛を一身に受けて、正室扱いだったって
夢を手放したくないから、武功夜話が史実だとしたいのかな?
そのせいで、嫡男生母だったって否定される方が、よほど痛手じゃないの?

666 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 17:55:22
武功夜話の生駒屋敷に信長が足繁く通って生駒を見初めた話が嘘となると、
どういう経緯で生駒を側室にあげたのかな?
武家扱いではない当時の生駒家から、後家の年増女が側室になるというのも
不思議なんだけど。
土田家の後家ならば、側室になった理由もそれなりに推測可能なんだが。

667 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 17:56:56
武家扱いじゃないと言われているけど、一応武家だよ。
犬山城の信清の納戸頭の家だから。

668 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 18:32:17
信長とは敵対関係にあった犬山城主に仕えていた家の後家だしな。
信清と縁切りになった証として信長に生駒を差し出した人質という
のが一番しっくりくるんだけど、信清はいったんは信長の妹と縁組して
関係が良好になったからそんな必要もなかったし。
信康が信長に反旗を翻したのは生駒が側室にあがったずっと後だしな。

669 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 18:42:18
生駒氏が側室になった頃は、まだ義龍と通じてると思われてた頃だよ
信賢が叛旗を翻した時、義龍と犬山城が味方だと思っていたのに
犬山城が想定外に敵対したんだから。

670 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 18:57:48
なんだよ、じゃあ信長が生駒屋敷に通ったのだった真っ赤な嘘じゃん。
そんな敵に通じているような家に夜な夜な無防備に通うわけもない。
生駒は生駒家の事情で人質という意味合いで信長に送った側室だったってことだな。
子供を産んだ後は、人質となって織田家にとどまる理由がなくなったので、
実家に帰って、亡くなったということか?
亡くなる前に出家したのは最初の旦那が亡くなった時に本当は出家したかったのかもな。

671 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 19:30:05
1562年に信清が信長に反旗を翻し、犬山上を追われたので、
吉乃もそのあたりで用済みということで、城を下がったかな。


672 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 19:42:04
>>667 どちらかというと土豪という位置付けじゃないか?
馬借などで財はなしたが、武士としては下位だったし。


673 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 20:07:36
>>671 1559年に五徳を産んでその下はいないようだから、
五徳出産後早々に下がったんじゃないか?
年子を続けざまに産むほど妊娠しやすい体質みたいだし、
もし1562年まで側室をしていたら
さらに下に子供を産んでてもよさそうだけど。

674 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 20:58:33
生駒家の家系図には生駒の最初の夫が記載されていないのだが、
年齢的に一度は誰かに嫁いでいたはず。
信長の側室になったような女性だから、元の嫁ぎ先のことも
きちんと記録に残っていてもよさそうなもんだが?
墓石にもそのへんのことは何も記されていないのかな?

675 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 21:40:21
バロンまた他家で荒れてるよ。
この人生駒に対して異常にこだわりや固執があるね。


676 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 21:45:09
そして他家でも大ひんしゅくかってんな。
生駒をしょせん側室呼ばわりされたら、切れてやがる。
武功夜話を否定したら、生駒の消息なんて「しょせん側室」以外の
何ものでもないことがはっきりしてんのに、何をあんなに必死こいてんだかw

677 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 22:07:28
武功夜話の「吉乃」は、生駒氏女をモデルにした創作上の女性で
その前夫、側室になった経緯等も全くのフィクションですってことなら
信忠誕生の日程的余裕が出るし、信忠の母というのも不自然じゃない。

678 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 22:08:22
信忠が濃姫の子か、生駒の子か、という論争なら白熱するのもわかるけどね。
側室の誰が産んだ子か、なんていうのにそんなにホットにならなくても
よいのに。生駒が生母だろうが、別の側室が生母だろうが、信忠の母は正室の濃姫だ。
生母が判明したところで織田家の歴史を覆すようなことは何もないのに。

679 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 22:11:59
あれのどこが大ひんしゅくなんだよw
しょせんというならお濃も同じだろ。
確かな記録が織田家はもとより江戸まで残った元家臣の家にも
伝承すら残されなかったしょせんその程度の正室。
そしてバロン曰くの濃姫かわいや生駒憎しやは言い得て妙。
生駒を批判することでしかお濃の意義を確立できないような流れは
もはやオナニースレ以外何者でもないだろうよ。

680 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 22:21:05
正室・濃姫>>越えられない壁>>側室・生駒その他大勢

御台の消息を示す史料はあるよ。
むしろ他の側室より多い。
元家臣の家なんぞに伝承される必要なないだろ?
寿命をまっとうし信長と子供達とともに同じ織田家の墓に埋葬されてるんだから、
それが何よりの証拠。

681 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 22:28:48
何かここにいる濃姫ヲタって三条ヲタと同類のような気がする。

682 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 22:33:06
ちょっと前までは、信忠が嫡男になれたのは最愛の吉乃の子だったから
なんて説が当たり前のように語られてたから、その反動が出てるだけじゃないの。
それは変だろうと内心思ってた人も多いだろうし。

683 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 22:46:14
でもさ、吉乃を否定するわりに、武功夜話の土田弥平次を根拠に
信忠の生母が生駒じゃないというのは、やっぱり変だと思ったな。

信忠の生母が当時の文献ではっきりしていないのって、結局正室の養子で
正室腹扱いだから、どの側室が生んだかなんてことはどうでもよかったってことでしょ?
それで、第三者はよく分かってなかったってことだと思う。
乳母制度だから、生母が育てる訳でもないし、他所から見たらよく分からんって感じ?
ただ、系図ではどの側室が生んだか記載する必要があったから、
織田家に伝わっている、生駒の腹だってことが記載されたってことじゃない?

684 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 22:52:29
武功夜話が大々的に紹介されるまでは、信長の奥のことなんて
結局どうでもよかったから、注目されずに研究されなかったんだろ。
濃姫が斎藤道三の娘だってことが重要で、それ以外はどうでもいいってこと。
で、武功夜話以降、本当に吉乃が正室に取って代わったのか?って
戦国期の奥の慣習なんか知ってる人間が、おかしいぞって思って
調べるようになって、御台のこと書いた文献なんかが、広く知られるようになった。
要するに、濃姫にしても生駒にしても、信長の奥って分野は
研究としては、まだ黎明期に近いって訳だよな。

685 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 22:54:28
他家でも側室腹の子が正室の養子になって嫡男になることもよくあっただろうけど
生母の名は残ってないものなんだろうか。

686 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 22:56:05
正室の正式な養子になってって言うのは、少ないんじゃないかな?
庶子のまま嫡男指名されてってことの方が多いと思う。

687 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 23:00:22
>>686
その後正室に男子が生まれて揉めるってパターンだな。

688 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 23:05:42
>>結局正室の養子で正室腹扱いだから、
どの側室が生んだかなんてことはどうでもよかったってことでしょ

生母が誰であるかは意外と明確。
生駒であれば、すでに信雄の生母ということで公に知れた存在だから
まったく利害関係を生じない立場のものが書いた史料に書かれていてもなんの
不思議もない。意図的に書いてないのではなく、不詳なので書けない、
という印象を持ったがな。

689 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 23:23:33
不詳だったとしたら、なんで生母が分からなくなったんだろう?
正室の養子になるほど、素性のしっかりした庶子ってことでしょ?
信孝みたいに、それこそ熱田で生まれてる、かなり身分の低い庶子でも
生母の素性くらい分かってるのに。
もっとも信孝生母に関しては、自分は坂氏の縁者の娘じゃなく、
坂氏の養女と考えてるが。
つまり、それほど身分の低かった女性。
岡本家の侍女辺りだったんじゃね?って思ってる。
そのままじゃ側室にあげることも出来ない身分だったので、
便宜上坂氏の養女にして、側室としての体裁を整えた……みたいに。
じゃなきゃ、信長の子供生まれて1ヶ月近くもほったらかしにされる訳がない。

690 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 23:39:56
伊勢軍記にしても信長公記にしても、全ての出来事が終わってから
いろんな断片的な資料などを収集したりして、信用のおける日記などを
参考に後年書き上げたもの。
当然生駒の存在は信雄生母という記述があるから知っていたわけだよね。
もし生駒が信忠の母ならそう書いたと思うよ。
そのへんの事実関係を詳細に残すための記録だし。
そう書いてもなんの支障はないはず。すでに家督争い問題なんて全て終わってから
作成した文書だもの。
信忠生母が生駒だと書いてないものがあるということは、その資料の著者は生駒であるという
話を信じていなかったか、事実ではないと知っていたからだと思う。
さらに本当の実母が誰であるかも、確実な事実確認ができなかったんじゃないかな。
三法師だって仮にも織田家正統な当主となり、信忠に正室がいなかったのだから、
側室であっても生母が誰なのかという記録が残ってもよさそうだなのにまったくない。
塩河さんが主張してなきゃ塩河氏娘の存在すら知れることもなかっただろうけど、
かといって塩河家に伝わる史料や根拠を鵜呑みに塩川氏が信忠正室で、三法師の母親
だなんて信じている人はいないんだろ?

691 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 23:45:55
>>689 側室は身分は不問だよ。側室の身分と子供の待遇は比例しない。
例えば濃姫に付き従ってきた美濃出身の侍女(濃姫が信用を置いているという意味で)
あたりが産んだ子などのほうが、さくっと養子にしやすかったと思う。
生母の身分のせいではなく、一番最初に生まれたのが信忠だったから、
信忠を養子にしたんだと思うよ。
もし信雄が先に生まれていたら、信雄を養子にして、嫡男としたただろうし。

692 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 00:22:33
武田家も一般的には勝頼親子が自刃して嫡流は断絶したと思われがちだけど、
正室の三条夫人の産んだ信親の系統が現在まで武田宗家として残っていて、
正室の子である信親の方が側室腹の勝頼より正統な武田家嫡流の系統だと
なっている。三条夫人の出自がいいからというのではなく、正室の子と側室の子の
正統性が違うんだと思う。

693 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 00:39:04
>>でもさ、吉乃を否定するわりに、武功夜話の土田弥平次を根拠に
信忠の生母が生駒じゃないというのは

いや、きちんとロムってみれば全部が全部そう主張していないよ。
土田弥平次の後家の話を抜きにすれば、生駒が信忠の生母であることは
可能だけど、他の側室が産んだという可能性もおなじくらいあるのでは?
といっている人もいるよ。

信忠の生母であると盲目的に信じていたから、意外な視点だけど
確かに一理あるな、と思える。

生駒が信忠の母であると書かれた史料の性質が偏っているということは認めるから
自分も今は五分五分だ。

694 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 02:19:26
>>692
スレ違いを承知だけど、
竜宝の家系が武田信玄の民法上の正系と認証を得たのは
確か昭和元年のことなんだよね・・・
そして、比較されたのは上杉家に仕えた信清の子孫の系統。

勝頼でないにせよ、信清が側室の子だったことから、
正系の血筋と認められなかったのは事実だし
正室と側室の社会的立場を言いたいのはわかるけど、
例としてあげるに妥当な例ではないのでは・・・



695 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 08:37:01
織田家は織田宗家は信雄の系統ということになった、という認識でいいの?
でも嫡流は断絶した、という認識でいいのかな?
そのへんがどういう扱いになっているのかと。

別の観点から信忠が生駒の生母でないとしたら納得する点がある。
生駒家が信長生前の頃は非常に影が薄く、信長に取り立てられている
様子がまったくない。他家の例をみても嫡男の御腹様の実家は優遇される
もんだからな。そのあたりも不思議だった。

696 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 09:39:01
>>671
生駒が貰ったって言う、国中往還認可状が本物なら、
側室としての労をねぎらうために貰ったんじゃないかと思っているので、
永禄3年9月に奥を下がったと考えている。
>>695も書いているが、信長生前に生駒は取り立てられていない。
それにも関わらず、国中往還認可状が出ているってことは、
商人としての位置づけもあるだろうけど、褒美だと思うんだ。
側室として信忠(については、5分5分かもしれんが)と信雄と徳姫を生んだ褒美
信清を味方に引き入れた褒美って言う、両方の意味合いで。
永禄5年に信清が叛旗を翻したときは、生駒はどうしたんだっけ?

697 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 10:04:08
>>969 永禄3年なら五徳が生まれた一年後だ。
その時に奥を去ったのなら子供達は母親の顔も覚えていなかったろうな。

生駒が亡くなったのは永禄9年5月だから、永禄5年の頃は実家にいたか、
法名から仏門に入っていたと思われるのでどこぞの尼寺にいたかもしれない。

信長が生駒に近づいて、側室を召し上げたのは信清側に生駒家お財力や人
(浪人などもたくさん労働者として抱えていた)が信清に流れることを
警戒してのことと思っている。
信長が生駒を見初める機会なんて皆無だったろうから。
そんなに早く奥を下がったということは、人質として織田家にいる必要が
なくなったということなのかとも思うので、その頃に信長の妹と信清が
婚姻でもしたのかな?

698 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 10:31:03
>>697
ごめん、信清が信長に敵対した時にどうしてたのかな?って思ったのは
生駒宗家女じゃなく、生駒家っていう意味。
信長について、信清に敵対したのか、信清に味方したのか、
中立で通したのか、その辺知らないから、生駒家が取り立てられていない
理由の考察として知りたいなと思ったんだ。

699 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 10:32:32
>>692 
久しぶりにすげぇ頭の悪いレスを見たw

700 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 10:33:09
間違えた。
生駒宗家×
生駒家宗○

701 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 10:43:47
「新説・生駒の生涯」の生駒のほうが悲劇ではかない女の一生で、萌える。
実家のために信長のもとに側室にあがり、子供をもうけながらも
後ろ髪を引かれる思いで、幼子を残して側室をさがらなければならなかった。
その後出家して、39歳という若さでひっそり亡くなる。
時が流れ、生駒の産んだ娘も徳川に嫁ぎ、家同士の事情で理不尽に夫が切腹、
幼い姫を二人嫁ぎ先に残し、実家に戻ることに。
母娘そろってそんな哀しい運命だったなんて・・・

702 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 11:03:17
>>701
それは萌える。
でも、当時の情勢、常識その他諸々を考えると
新説(笑)の方が本当にありえる話だからな。

703 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 12:05:30
生駒が永禄3年あたりにお側をさがり、永禄9年に亡くなるとしたら、
武功夜話の何年も信長が生駒の病気のことも知らずに〜という
ところと一致しない?
いくらなんでも生駒の病状を長い間信長が知らなかったのはあまりに
不自然だから、お側を下がったので生駒のことには関心がなく、
亡くなってから知らされた、というのが信憑性がありそう。
ある程度の事実の上に、膨大な肉付けをして出来上がったのが武功夜話なんじゃ
ないかしらね。




704 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 12:18:53
武功夜話は、何年も病気を知らなかったなんて書いてないもの。
パッと読んだだけだった、ほんの数ヶ月って思うよ。
だって、産褥で弱っててって書いてあったら、普通、出産してから
それほど間がないと思うでしょ?
でも、計算してみたら6年だったって事。
武功夜話内でも計算したら4年になるらしいけどね。

705 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 12:59:45
>>696 織田信長の家来、馬廻、小姓から選り抜かれた家臣集団の黒母衣衆の
ほうに、生駒勝介が名を連ねている。永禄12年の伊勢大河内城攻めに参加
してからの消息はぷっつり不明。
生駒勝介は親重の弟の子(と言われているけど)で、織田信清の家臣だった人物。
黒・赤母衣衆の結成は永年2年前後といわれていて、いつ頃メンバーに
加わったのは定かではないけど、永禄3年ごろ生駒が実家に戻されたとしたら
その頃生駒家は織田家へも恭順の意を示し、信清のもとを離れたので
そういうはこびになったのでは?

706 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 13:08:38
初期の信長の近習って、家の跡継ぎとは関係ない
次男とか三男だったんだよね。
跡継ぎのスペアだけど、潰しのきかない男子を集めて
側近にしていった事で、精鋭部隊が育ったって。
だから、本来跡を継ぐはずじゃなかった利家なんかが
信長の台頭とともに、跡を継ぐはずだった慶次を
押しのける事になったんだよね。
その割に、生駒勝介はパッとしないよなぁ。

707 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 13:46:21
生駒勝介の場合は、信清から生駒家を離し、生駒家を自分のほうに取りこむために
そういうポジションを用意したのだから、精鋭部隊に見合う実力は
二の次だったんだろうよ。

708 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 14:58:06
う〜ん、新説のイメージだと
生駒は若い頃の大原麗子が似合いそうだな。
濃姫はおいらもやっぱり若い頃の松坂慶子。最強。


709 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 15:28:56
土田家ってその後どういうことになったんだ?
そっちから生駒のことがなんかわからないのかな?

土田弥平次の後家だったというのは案外本当なんじゃないかな。
亡くなった時期がもっと早ければ問題ないわけだし。
実際はもっと早くに亡くなったとかさ。
土田家宗家の当主だったというなら、土田家の史料などにそのあたりのことが
残されていてもよさそうだけど。

710 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 16:19:31
こっちの土田家とは姻戚関係にあるの?
http://moura.jp/scoop-e/seigen/pdf/20060417/sg060417_ogawa_01.pdf#search='%E7%BE%8E%E6%BF%83%20%E5%9C%9F%E7%94%B0%E5%AE%B6'

確かになくちゃ困る仕事だけど、世襲というのも辛いな…

711 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 16:42:03
生駒家になんでそこまで執着するのかがわからん。

712 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 18:08:20
>>709
>土田家宗家の当主
土田弥平次は当主なんかじゃないよ。
土田原太夫の次男だよ。
土田家は、三郎が跡を継ぐけど、本能寺で明智に味方して、坂本城で討死。
そこで滅亡だよ。

713 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 18:53:37
確かに新説・生駒のほうが萌えるw
信心深くて分をわきまえた控えめな女性だったんじゃないかな。

714 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 19:00:25
親重の子を祖とした尾張土田は、小折村に居住して現代まで
続いていると思うが?傍系ではあるけどね。


715 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 19:20:35
>>713 有吉佐和子あたりにを執筆してもらったら、いい作品になりそうだな。
俺も自分の意思を押し殺して自己犠牲に生きた女性像がうかぶ。

716 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 19:31:29
弥平次は、親重の方の土田家じゃなく、
滅亡した土田城の土田源太夫の次男って説の方が
可能性としては高いと思うよ。

717 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 20:13:46
だいたい、信長母の土田御前の家筋さえ、
美濃の「どた」か、清洲の「つちだ」か、両説あるくらいだよね?

718 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 20:50:32
ふうむ、
信長と信行が家督相続で争った時、
母は信行についたといわれてるけど、
その実家はどうだったとか、記録はないの?

719 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 21:02:58
信行についたというより、信長に信行の命乞いを
しただけじゃないか?母親に免じて一度は許しちゃったんだよな。
そもそも信行を溺愛して、信長の廃嫡を図ったなんていうのは
創造話。
信長母の実家にしてみれば、同腹の二人のどっちが
織田家の当主になっても利害関係は一緒だったろうから
土田家はまったくタッチしない問題だったはずだけど。

720 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 21:03:20
信勝(信行)についたと言っても、信秀死後そのまま古渡城にいて
2人とも古渡城に住んでいたって事と、助命嘆願したって言うことしか
よく分かっていないからな。
実子同士の争いだから、助命嘆願するのは当然だし、
信長が既に、那古野城主だったから、信勝が信秀生前住んでいたところに、
そのまま住むのは自然。
おまけに、信長は清洲城を手に入れちゃってるし。
だから、本当に信勝に肩入れしたのかどうかは、分からないよ。
実家の事は、それこそ何にもさ。
もし仮に肩入れしたんだったら、実家は肩入れしてる方につくかもね。
「どた」「つちだ」にかかわりなくさ。

721 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 21:14:11
自分の産んだ嫡男の廃嫡を画策し、その弟を嫡男に据えようとする話といえば、
信長、政宗、家光、が有名だけど、本当なのかね?
当主である父親は何してたんだ!という話になるけど。
土田御前はどういう人物か不明だけど、政宗母や家光母は、
そんな浅はかなことをするキャラとは思えないんだけどね。

ただ家光母って火葬にされてんだよね。
あの時代では火葬されるのはかなり珍しいことで、貴人では
初めてではないか?とまで言われてる。
全身に発疹ができて死亡したので毒殺?を隠すために
火葬にしたという説もあった。

722 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 21:38:22
しかし、新説って言っても結局武功夜話以前の解釈に戻っただけだよな。
生駒氏息女が信長の側室になって、信忠と信雄と徳姫を生んだ。
生駒氏息女はあまり野心強くもなかったから、安心して信忠を養子にできたって感じか。
信忠は濃姫の養子で、斉藤家美濃衆に囲まれてて、生駒家からは切り離されてる。
生駒家と結びついているのは信雄で、側周りに生駒家がいて、
生駒氏息女の喪主もつとめている。
武功夜話以前と何にも変わってない。
遠回りして、結局こうなったのかって感じだな。

723 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 22:02:21
新解釈では生駒が生母確実といえる子供は信雄だけとなった。
信忠も五徳も別の側室が産んだ可能性もあるということに不自然さがなくなった。
それと濃姫が信忠を養子にしたのは、長男だったからで、生駒の子だから、という
わけではない。もし別の側室が信忠よりも先に男子を産んだら
そっちを養子にしただろうな。結果的に生駒にしろ違う側室にしろ
生母の存在が薄いので信忠を養子に選んだのは正解だったろうけど。
武功夜話によって思い込みだけでスルーされてきたことに注目するようになって
新たに検証されるようになったのだから、武功夜話以前に戻ったとはいえないと思うよ。

724 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 22:45:42
新解釈ってw、あくまでも2ちゃんのこのスレ内でのことでしょ?

725 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 23:13:01
>>724 Wikiではすでに新解釈後の生駒で武功夜話を偽書と断定してるよw

726 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 23:22:27
>>724
だけど考え直すにたる新解釈だと思うけどな。
別にここだけの話題だろうと、歴史なんてタイムマシンがない限り
100%のことなんてわからないし、いろんな説や解釈が出てくる分には
いいことだと思うけどな。
そういう否定意見だけだと、逆に何でそこまで否定するのかが気になってくるなw

727 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 23:34:40
歴史の考察なんてこういう繰り返しなんだよね。
新説が事実と断定され、定説となるまでには時間がかかる。
学会とかだといろんなしがらみもあって難しいんだよ。

でもこういう考察面白いじゃん。
信忠の生母が生駒かどうか、ということを論じるだけで、
多くのことを知ることができて自分は有意義だと思ってるよ。
>>710の話なんて95へぇだったもん。

728 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 00:05:49
武功夜話も役に立つ事もあったってことだな。

729 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 08:48:58
>>725
三法師の母の諸説に、未だに松姫説の記載があるのもwikiだよねw

730 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 08:53:25
>>729
そう思うなら、削除して、理由書いてくればいいだけじゃん?

731 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 09:59:28
WIKIでは三法師の母については断定してないじゃん。
塩河氏と断定しているものよりはるかにましだ。
松姫と婚約した、元婚約者、という記載ならそれを否定するだけの
根拠がないのだからいいのでは?破談になったことは書いてあるし。
正室だったなどとは一言も書いてないし、八王子から信忠に
会いに行った云々のこともまったく書いてないし、
構わないと思うがねw

Wikiの生駒否定は手のひら返したようなかんじだな。
あれを初心者が読んだら信忠の生母は生駒ではないと
思うだろう。

732 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 10:33:33
武功が偽書と認定されただけでも大進歩!

733 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 10:34:06
729は>諸説の中の説、ってちゃんと書いてるけどね。

734 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 10:58:53
生駒も武功夜話が真実なら信忠生母に矛盾が生じ、
創作なら矛盾は解消されるって書いてあるけど。

735 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 10:58:54
このつっこみで松姫の名が諸説から近々削除されるな。

736 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 11:31:50
Wikiの生駒の項目って、武功夜話の項目より、偽書説の証明しているじゃんw

737 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 12:02:40
>>734 矛盾は解消されるけど、生駒一人が寵愛を受けていたという
ことも創作ということになって、他の側室が信忠、五徳を産んだ可能性も
でてきたってことになるよ。
五徳なんて生母が誰かなんていう記載は家系図にもあまり載ってない。
女子に関しては誰もがそんな扱いだから、生母が生駒と丁寧に書いてある
家系図は逆に怪しい。

738 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 12:13:58
そういえば、寛政譜って、徳姫のところは、「母は信忠におなじ」になってるよな。
信雄も「信忠におなじ」になってるけど。
信忠のところは、「母は生駒蔵人家宗が女」ってなってる。
ちなみに、徳姫以外の女子で母親が書かれているのはないね。
勝頼夫人は、元の父親名「苗木勘太郎某」を書いてるけど。

739 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 12:40:57
寛政譜は各家に伝わる家系図を幕府が編纂したものだからね。
信雄の流れの織田相宗家が提出した家系図なんだから、
そうなってるのって決まってんじゃんw

740 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 12:54:01
>>738 養子縁組の時は実父の名前だけを書くのか?
義父も書かないとのちのち関係が把握しにくいと思うが。



741 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 13:03:21
>>740
だって信長の家系にいるんだから、元の父親の名前を
書いておけば、養女って分かるじゃん

742 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 13:19:28
あっ、すまん武田家の家系図のことじゃないのか。
武田家の方では勝頼夫人は信長養女という記載があるのかな?


743 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 14:07:22
生駒の久庵桂昌大禅定尼(大禅定尼がないという説もあったし)の戒名って
織田家のお腹さまにしてはお粗末すぎる戒名じゃないか?
お鍋だって院殿号だけど。

ところで信雄より20日早く生まれたが報告が遅れたから三男になったが、
本当は信雄の兄だという信孝の主張はどうなんだろう?
熱田からの連絡がそんなに時間のかかるのかな?
こっちもなんだか無理矢理っぽいんだけど。

それと坂氏の身分が低いからという理由もありえないと思うんだけどな。
当時なら坂氏も生駒氏もどっこいだろ?

744 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 14:40:21
>>743
だが、信雄側の文献にも、第3者の文献にもそう書かれているんだから
報告が遅かったんだろう。
20日までかどうかは分からないが、清洲城内の産屋で生まれてたら
生まれた数分後には知れる訳だしな。
数日遅れても、大きな遅れになるよ。

あと、坂氏の方は、生んだ時点でまだ坂氏じゃなかったのかもな。
坂氏と言っても、坂氏そのものじゃなく、坂氏の遠縁のまたその縁の……
って感じだしな。
それこそ、岡本家で生まれている事から、岡本家の奥に仕える侍女とかだと思う。
下働きとかじゃなく、大奥で言えば上臈辺りの身分とかな。
実家じゃないから、簡単に男を引っ張り込んで許される立場でもないだろうし、
生駒の娘が生駒屋敷にいて、信長の子供を産んだって言う話よりは、
信憑性があるんじゃね?
信正の母親の直子も、実家だっただろうから、信憑性がなかったんだろ。
親は子供可愛さにかばうもんだからな。

実際、信孝が一番信長に似ていたと言われているし、実子だったんだろうし。

745 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 14:57:21
ということは信孝のほうが兄であるということには間違いがないんだな。

信孝が後回しにされたのは、信孝の生母が正式な側室という立場でなかったから
かもしれないな。正室の管理する奥にあがっていなかったというのは
はっきりしているわけだし。生母の身分が低いという理由よりそっちの理由のほうが
納得がいく。
ある時期まで非公認の隠し子扱いで、その後無事に実子扱いに昇格したとかかも
しれない。

746 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 15:48:16
実は20日以上遅れたのは、信長自身はもう出産を知ってて
坂氏の養女にする手はずを整えてたとかな。
正式に発表する前に、信雄が生まれちゃって、城内で生まれてるから
みんなに知れ渡ってしまったって事かも。
実子って言う確証は、濃姫にはこっそり外にいる側室の存在を知らせておいて
濃姫の手配で、監視をかねた御付きの侍女を付けてたとか。
信正との扱いがあまりにも違うからな、信孝は。
きっと、かなりお気に入りだったんじゃないか?

747 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 16:00:44
ぶっちゃけ、側室の中で寵愛が深かったのは信孝生母だと思ってたりする。
濃姫は別格だから、養子になってる信忠が嫡男は妥当だけど、
身分的には下におかれている信孝は、身分に比べて出世している。
信孝自身の能力も、もちろん秀でていたのだろうが。

意外と信孝と同腹の姫とか、いるのかもと思ったり……。

748 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 16:14:32
正室経由や政治的な背景がないから、信孝母は純粋に信長が見初めて手をつけた
可能性があるよね。
ただもしその後子供を産んだとしたらさすがに正式に奥入りしたと思うんだけど。

信正の扱いがひどいのは濃姫が嫁ぐ前にできちゃった子だからだよ。
婚姻前にできた子は当時でも家の恥とされたから。
正室がきてからなら側室に何人子供を産ませようとOKだけどね。
三法師も信正的な存在だったから清洲会議でもめたんだよ。

749 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 16:23:00
信正が生まれたのは天文23年
濃姫が嫁いだのは天文18年

750 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 16:51:06
>>748
>三法師も信正的な存在だったから清洲会議でもめたんだよ。

憶測される出生事情から鑑みると、
家内での立ち居地も微妙な子だろうけど
そのことばかりが原因とは言い切れないのでは?と思う。
織田家内の実質権力争いのかけひきの中、頭抜けた秀吉に擁立され
まだ自己判断もできぬ幼少者が、老獪な秀吉の手ごま扱いされ
嫌悪感をかったのも要因の一つだと思うけど。

751 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 17:30:31
その結果秀吉は手ごわい信孝を逆賊の汚名をきせて合法的に葬ることもできたわけだ。
ボンクラな信雄なんて赤子の手をひねるようなもんだもんな。
信雄は2度も改易させられ、流刑で転々としてるんだよな。
信長の血を引いているとは思えんお馬鹿ぶり。
生駒家の血が濃かったのかね。

752 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 17:41:02
日本国のやんごとなき御一家の次男以下の方々をみればわかるように、
嫡男教育は他の兄弟とはまったく別格だからね。
信雄もそういうポジションでずっときたから、当主の器量不足は仕方がない。
出自のコンプから信長の子供という立場に甘んじることなく器量を磨いた
信孝はえらいよ。それが仇となったけど。

753 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 18:21:03
坂氏は熱田に行った時たまたま手を付けただけの侍女か何かじゃないの。
信長の接待する役目だったとかの。
子供が出来たけど信長の子かどうか証明できないから報告できず
子供が生まれてみたら信長似の男児だったから、遅ればせながら報告されたんだと予想する。
疑いようがないほど、信長に似てたんだろう。

754 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 19:18:09
>>753
信長の子かどうか証明できずって小説の読みすぎだろ
いい加減、そういうくだらん視点からの推測は捨てろ。
さもなくば戦国板でやれよ。マジに。

755 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 19:32:11
生駒の次は坂かよw
ウザさでは三条ヲタの方が上だが濃ヲタもかなりウザいというか
始末が悪いな。さすがの三条ヲタもここまで他の側室のみならず
出した家まではそんなに叩いてないもんな。

756 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 19:36:00
>>748
坂氏は信孝出産後は奥入りしてると思うけど?
してないと思う理由は何?

それに、>>749でも書いたけど、信正は濃姫が輿入れ後の子供ですから。
それで信正と信孝の扱いの差を考えれば、信孝は濃姫をはじめとした奥でも
最初から確認できてたと考える方が普通じゃないのかな?

757 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 19:38:58
>>755
だした家は叩いてないでしょ?
坂氏は、坂氏じゃなく縁者だというのは広く知られている事じゃない。
それを書くのが叩く事になるの?
坂氏でも、伊勢鹿伏兎氏の分家の縁者って分かってきてるじゃない。
養女に格で側室に上がったと考えるのは、おかしな事じゃないと思うけど。

758 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 19:39:42
>>757
>養女に格で×
養女格で○


759 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 20:03:02
>>756それなら信孝はなんで清洲で出産しなかったんだ?
清洲で出産していたら、まがりなりにも20日も先に生まれた信孝を
押しのけて信雄が兄になることはなかったろうし、する理由はないだろうし。

子供の序列と坂氏の実家の身分も、坂氏自身の出自もあまり関係ないと思うけどね。
信長の時代の生駒家だってまだまだ下級士族だったじゃん。

760 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 20:04:30
坂氏が身分が低いってのはホントのことじゃないの?

761 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 20:08:51
坂氏の場合は生駒と比べての身分、生駒が嫡男生母だ、という
ことで、そう位置付けられた。
信長の子供を産んだ女は不詳なものが相当数いるので、中には
もっと身分の低いものもいただろう。
子供の生母の名前が不詳なのは実家もたいしたことがなかったから
そっちにも記録が残らなかったということもいえると思う。
現代まで続くような家柄ならそれこそ子孫がだまっちゃいないだろうからさ。

762 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 20:27:59
>>759
信孝出産後に奥に入ったら駄目なの?
清洲で生まれていないのは、おそらく複数文献に載ってるから
間違いないと思うし、それでも信長胤と分かってたって事でしょ?
信正は分からなかったって事だけじゃないの?
それで信孝は庶子になってるんだし、信孝生母は奥入りしたと考えるのが普通じゃない?

坂氏とはいえ、信孝生母はその坂氏の更に縁者の
伊勢鹿伏兎氏の分家の縁者。
坂氏そのものでもないんだし、奥入りするため体裁を整える必要はあったと思うけどね。

763 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 20:40:34
>>747
もし信長の寵愛が深かったんなら、妊娠がわかった時点で
坂氏や生まれてくる子供が不自由や嫌な思いをしないように
出産前に正式に奥に引き取るなど体裁を整えるものなんじゃなかろうか。
それで正式に側室として出産させて、二番目なのに三男なんてことには
ならなかったんじゃ。

764 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 20:42:58
>>762 信長の胤だとそこまで断言できるほど確かなら、
妊娠が確認されたらすぐに奥に入るもんじゃないか?
確かにその女が出産したのを正室なりの直属の侍女が確認するというのも
大事じゃないか。
女子を産んで、男子とすり替えたりしたらどうする?
死産だったのでそのへんの孤児を「信長様の子供です」と主張したらどうする?
奥の役割はそういうところにもあるぞ。

765 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 20:47:13
>>763 伊勢に言った時に夜のお伽の接待をした女、というだけの存在だったんだろうな。
たまたま大ヒットで御懐妊。奥勤めでもしていて、信長のお種に間違いないということで、
とりあえず出産まで坂家にお預けで、男子が生まれたので、実子の認定されて
母子ともに清洲の奥入り、ということかな。
信孝親子が清洲にいた記録とかはあるの?


766 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 22:02:06
ここは濃姫のスレじゃ〜ないの〜?
生駒や坂他側室のことについて語りたいなら
いい加減該当スレに行ってそこでやれば〜?
第一なんでわざわざ濃姫スレでやるのかな〜

767 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 22:11:35
信長の子供に関することは、正室の濃姫に関係することなんだってば。
側室は正室の代わりに子供を産んであげるわけだからさ。
信長と側室、その子たちとのかかわり方を解読していくと
濃姫と信長の関係も見えてくんだよねぇ。

768 :日本@名無史さん:2006/12/19(火) 23:22:35
言い訳はいいよ

769 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 09:52:55
濃姫を考察するためには、関係者一同の考察をするのは当たり前だろ?
斎藤道三だって親子二代説が定着したのは、父親と思われる人物の
いろんな検証をしていくうちに、一人では年代的な矛盾などが
出てきて、結果的にそうなった。
濃姫の後家説が生まれた背景を考察するには土岐一族のことまで
調べなくてはならないし、かなり広範囲に話題が飛ぶのは当然だ。

770 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 10:00:34
正室と側室の立場や格の違いはよくわかってるつもりだが、
ただ側室女性を落すような言葉遣いの人が「一部」いる。
側室やその子を叩いているのか?と思えることもしばしあるな。

771 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 10:29:05
それなら>>755のような書き込みはなんだ?
それに盲目的に濃姫や生駒を擁護ばかりしている書き込みばかりではないぞ。
わき道それても軌道修正してスレが機能しているのだからいいじゃん。

772 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 11:57:04
だから「一部」って言ってるではないか。
なんで、そう攻撃的口調になるのかな。

773 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 15:12:08
側室子女は実際問題立場が弱かったんだろうな。
淀殿もねねに実子の男子がいたらあそこまでいい待遇ではなかっただろうし。
自分の血筋からいったらどこぞの大名の正室クラスが当然だから、
それもあってよけい去勢張っちゃったんだろうな。

774 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 18:12:07
実際、側室は正室に比べて低い身分の出身であることが多いし
立場も不安定だったんだろう。
でも当時を今で考えれば彼女らはセレブ。
このスレにいるような一般人から同情されるほど落ちぶれてはいないなw

775 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 18:57:22
生駒家広┬生駒豊政─家宗────────┬八右衛門×
      └娘                     ├娘(蜂須賀八右衛門室;小六の兄)
        │                    ├娘(織田六郎三郎室)
        │                    ├中江殿(森正成室;生駒家家臣)
        │                    └娘(土田源太夫室、後信長室)
        │                        │
山内秀定┬土田秀久┬泰久─久道        ┌土田弥平次×(明智家家臣)
      └娘    │   ┌親重(生駒・土田)┴生駒親正──┬生駒一正
        │    │   │                     └土田重次
        │    └政久┴土田御前
        │            ├──────信長
織田敏定─織田信定────織田信秀        │
                                 │
                   斎藤道三        │
                      ├──────帰蝶
                  ┌小見の方
                  ├光安───────光春
            明智光継┼光綱───────光秀

776 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 19:17:33
>>775
その家系図だと、生駒氏女は源太夫の室か。
源太夫って弥平次の父親といわれているんだよな。
源太夫=弥平次ってことにこの系図ではなっているけど、
彦五郎秀久ー源左衛門泰久ー源太夫ー弥平次(次男)
     │          └三郎(明智家臣本能寺後坂本城で討死)
     │
     └彦六郎政久ー甚助信正(後に生駒親重)

年代的には、多分こっちの方が正しい。
まぁ、源太夫も弥平次も弘治2年9月に討死したとされてるけどね。

777 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 20:24:32
>>775>>776の家系図は生駒家に伝わっているようなもの?
幕府が編纂したという生駒家の寛政期のものはそのあたりどうなってるの?


778 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 20:34:17
>>775は生駒家に伝わる系図かな
>>776は美濃国武家諸家譜と土田城の城史と白鬚神社の記録辺りからの複合考察だな?

779 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 20:47:28
なんだ、生駒家に伝わる家系図に土田弥平次との婚姻を示すものが残ってたんじゃん。
生駒家にはそんなものは残されていない、と断言していた人がいたからさ。
ただ武功夜話は昭和に編纂されたものということだけど、
参考にした資料はある程度古いものなんでしょ?
その資料の中にこの生駒家の家系図があったので、生駒が土田氏の後家
という設定でキャスティングされたんだと思うんだけど。
家系図は信憑性がないというけど、それならば生駒と土田氏との
婚姻の記録を抹消したものを残すよね。そうしなければ信忠嫡男生母でないという
ことが後年ばれてしまうから。
やはり生駒は信忠の生母ではありえないということになるのかな。

780 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 20:53:21
>>源太夫も弥平次も弘治2年9月に討死したとされてるけどね

これって武功以外でも何かしらの文献や史料に残ってるのかな?
どっかで、弥平次は4月戦死、というのを読んだ気がするんだけど。
記憶があやふやで弥平次じゃなくて別の土田氏だったかもしれないんだけど。

ところで生駒の姉か妹が室となっている「織田六郎三郎」という
くどい名前の人物は誰だ?

781 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 21:08:25
ちょっと待てよ。
>>775だと、「信長室」となってるから、正室ということだ。
側室なら「妾」という表記になる。
そのあたりからして、かなり生駒家に都合いいように書き換えられている
可能性あるな。信雄は正室腹だから正当な織田宗家だ!ということにした
かったとかさ。

782 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 21:11:58
四郎次郎が信実
三郎五郎が信広っていうのは知ってるけどなぁ

六郎三郎だと、小沢しか思い浮かばん

783 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 21:25:14
だからおまいら側室に関する事項を語りたいなら
側室スレに行けよ。

784 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 21:38:23
>>782 織田家との姻戚関係を強調し、生駒家の家柄をよくみせようと
家系図を偽装工作したんだよ。織田六郎三郎は架空の人物。

785 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 21:39:26
図々しい奴だな。側室スレでやれよ。

786 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 21:42:15
側室の家柄・血統について
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1134824863/l50

787 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 21:59:19
768、783、785、そう意固地にならなくてもいいんじゃないの。

濃姫の話題がひととおり出て、他の女性の話に今は傾いてるけど
濃姫が織田信長家の正室であった以上
信長という男を巡り、一家の内情を語るうえで
他の側室の話が出るのも仕方ないと思うけどね。


788 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 22:36:08
はいはい言い訳はいいよ

789 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 22:44:43
というよりスレタイ2行目をよく嫁といった感じかと。

790 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 22:46:43
土田秀久は明智家の婿養子になって明智家一門になったと言われ、
その子孫の土田御前の子供である信長は光秀とは遠縁にあたる可能性がある。
また信長の正室の帰蝶は光秀と従兄弟とも言われている。
清洲織田家と明智家の強い結びつきを感じる。

791 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 23:01:26
>>788
はいはい、では何かマジレスしたり、話題を提供すればー!

792 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 23:06:18
明智家の血筋の娘の帰蝶が、明智家の家臣で信長の生母の実家の土田家から
養子にいった生駒家の娘吉乃を側室に迎えるのは自然な流れ。
明智家の帰蝶が家臣の土田家の養子先の生駒家の娘を側室に迎え、
生まれた子供を養子に入れ嫡男とする。
おそらくこういう図式なのだろう。

793 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 23:19:37
妄想なら戦国板へドゾー

794 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 23:33:28
姑に当たる土田御前が明智家家臣の娘であり、
信長を排斥しようと信行を担いで失敗した人物でもある。
この事から、帰蝶が姑に対しても強い立場で居られた事が推測できる。
土田御前にしてみれば、頭領の家柄の娘が嫁では姑としてやり難かったのだろう。
それが信行溺愛、信長排斥にもつながった。

795 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 23:41:19
>>792までは同意できるけど、>>794は最後の行は妄想だな

796 :日本@名無史さん:2006/12/20(水) 23:41:51
結局、信長の生母で嫡男を産んだ家柄でありながら、
生駒・土田家が織田家で勢力を伸ばせず、
明智家が織田家筆頭家老の地位を占める様になったのは、
明智家の信長vs土田家の信行という家督争いでの主導権争いに勝ち、
また、元々の主従関係も明智家の家来の土田家と、
その養子の生駒家という構図が勝利した結果であろう。

797 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 00:01:05
>>794 信行溺愛を証明するもんなんてなんにもないよ。
仮に事実でも通説では濃姫が来る前から信長のことを毛嫌いしていたというし。
濃姫が嫁いで一年後には信秀は亡くなり土田殿は剃髪して隠居。
織田家の女主人は濃姫になったし、信行の反逆のフォローなどでむしろ当主の
信長には低姿勢になっていたろうから、姑風を吹かせる立場にないだろうに。

それから、明智云々は結果論であって、当時の織田家にはさほど重要な
意味はなかったのでは?
濃姫の母方が明智出身だけど、濃姫はあくまで斎藤家の姫。
信行の補佐を美濃出身者が多かったのは、義理であっても濃姫を母とする
信行に対する忠誠心を期待してのこと。勘九郎という幼名からして
道三を意識し、さらに忠誠心を煽いでいる。
明智の信長ではなく、道三をはじめ、美濃衆を味方につけることで
天下統一の基盤を作ったと解釈しているし、その後の織田家において
明智や土田、生駒に比べたらはるかに美濃衆のほうが
いい仕事してる。
生駒が信忠の生母であっても、なくても、↑は同様であったと思う。

798 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 00:03:19
>>794だけど訂正

勘九郎という幼名ではなく、通称だった

799 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 00:03:47
美濃衆が信行を補佐???????????????????????????

800 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 00:04:04
>>ごめん、また間違えた

>>797の訂正でした

801 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 00:18:14
信秀が亡くなったのは、万松寺過去長などからみて、天文21年ですよ。
天文19年に信秀は判物を出していますし、その時点で生きていた事になりますし。

802 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 00:27:07
織田信秀の死には諸説ある。
天文二十一年(1552)三月。 万松寺過去帳。
天文十八年(1549)三月。 寛政重修諸家譜。
天文十七年(1548)冬。 織田系図。 等々。
天文二十年(1551)三月三日が有力な説で、小説や映画もこれにならっている。
だが、昨今注目を浴びているのは天文十八年(1549)三月三日説。

803 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 00:32:23
>>799 義理であっても濃姫を母とする、という文脈から信忠の間違いだろう。

>>802 なぜこんなに諸説あるのか不思議だな。
武功では信玄の真似?をして、亡くなったことを伏せるように言ったという
ことだが、公に葬式を行ったんだからそんなの伏せようがない。

804 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 00:35:33
帰蝶は道三を殺すかもと言うぐらいだから、斎藤家の娘という感情は薄かっただろうな。

805 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 00:40:21
>>804 あんた嫁ぐ前の親子の会話聞いたのかえ?
斉藤家の姫だから政治的な背景で織田家の嫡男と縁組があったわけで、
明智に姫なら縁組はなかったよ。

806 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 08:47:02
葬儀の日時じゃあなくて、何年隠したかが問題だろ。

807 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 08:51:43
>>802
天文18年説は武功から来てる説だからなぁ。
19年の判物で否定されてて、いまは21年か20年かってところだね。

808 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 09:25:49
>>805
>あんた・・・って、なんでそういう口調になるかね?

809 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 09:50:45
万松寺の過去帳が一番信憑性が高いと思う。
寺の過去帳を偽装することはできないし、家伝の家系図などより
よほど詳細に記されてるよ。それこそ子孫が知らないようなことまで。
なので天文二十一年(1552)三月に亡くなったのだと思う。
平手が切腹したのは翌年。信秀死後激しくなった家督問題で家臣間でも対立があり、
信長の正統性を軽んじるものたちへの抗議の意味もあったのでは?
とも思ってる。切腹に至った理由は諸説あるけど、信長への戒めというのは
疑問なんだよね。唯一の理解者だったし、若輩の信長をまだまだ補佐しなければ
ならない立場だったのに。

810 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 10:14:31
信秀の死を隠した事が家督争いに大きく影響して尾張の混乱を長引かせたんだろうな。
それが茶番葬儀での信長の奇行に繋がった。

811 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 10:20:11
え、死を隠したって武功夜話の説信じてるの?

812 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 11:32:18
武功夜話のその話って、信玄が遺言で亡くなったことを3年は伏せておけとして
おいた、というところと類似してんだよね。
信玄は影武者たてたというけど、家臣が喪に服す様子から他家のスパイが
すぐに気がついたというけど。その話もちょっとどうだろう?と思ってる。

葬儀での信長の奇行のことだって後年伝聞の話を史料に書き記したもの。
信長の異常性を強調するエピが尾ひれがついてそう語り継がれたのかも
しれないし、かなり誇張して伝わっていると思うんだけど。

813 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 11:34:56
武功夜話の天文18年3月の話って、信長公記に18年とあるけど
19年の判物もあるし・・・ってことで、死を隠した事にしたら
ドラマティックで面白いよねという安易な動機で創作されたと思う

814 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 11:53:03
ところで>>775で生駒の姉か妹が室となっている「織田六郎三郎」
は本当に誰なんだ?
小沢六郎三郎の間違いだとしても、小沢氏と生駒氏との縁組は本当にあったのか?

815 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 11:53:59
思う思わないはお前の勝手な判断。

816 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 12:53:47
義龍の母深芳野は一色義清の娘とも言われる。
土岐頼芸から道三に下された際には、既に義龍を身ごもっていたとも言われる。
義龍が道三を討った際には、母方の一色義龍を名乗ったと言われる。
一方、光秀の母は、若狭で一色と争っていた若狭武田家の娘。
光秀の祖父光継は斎藤道三に取り入って、娘の小見の方を室にし、
ついには土岐一族が追放され、美濃源氏の中で明智家が名実共に1の地位に上り詰めた。
家臣の土田に縁組のあった清洲織田家と斎藤家との関係修復のため、
小見の方と道三の娘を織田の嫡男の信長に嫁がせる。
その後、道三と義龍のパワーバランスが逆転。
母方の土岐家再興を名目に義龍が道三討伐軍を旗揚げする。
長良川合戦では義龍に付くが、結局その直後に居城を攻められ明智一族は離散。

817 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 13:18:38
>>家臣の土田に縁組のあった清洲織田家と斎藤家との関係修復のため、
小見の方と道三の娘を織田の嫡男の信長に嫁がせる。

これって明智がらみではなく、織田家と戦闘状態を続けることが
不利という判断を道三もしたので、織田家からの和睦の申し出(婚姻)
に応じたんだろ?使者は平手だし、明智は関係ないだろう。

それと義龍の胤は道三に決まってるだろう?
正室小見の方には男子も産まれているのだから、
側室が産んだそんな出生が怪しいものを嫡男に据えるわけもない。

818 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 19:17:36
ちょっと聞きたいのだけど、褒美に自分の女(妾)を与えるというのは普通にあったことなの?
特に政略結婚というのは家同士の結びつきなわけで、>816だったら土岐家と一色家の関係締結の
ための結婚なわけだ。それを有力者とはいえ土岐家の家臣に下げ渡すというのはあり得る事なのか?
家という背景を持たない、大名が個人の嗜好で下層から拾い上げたような妾ならともかく。

819 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 19:58:31
褒美に側室を家臣に与えるのは普通にあったことだと思う。
有名なところで、秀吉が政宗に与えたケースや家康が家臣に与えたら
家康の子供を身ごもっている事が判明しすぐにで戻ってきた側室もいる。
実子すらも政略の道具に使うのは当たり前なのだから、側室を手駒として
家臣の褒美にする、ということも感覚的にはおかしくはないだろうな。
それだけ家臣を信頼しているという証になったんだと思う。

深芳野のことは深芳野が一式家の出身かどうかは定かではないし、当時の一般的な
感覚で道三に下げ渡したのだと思う。ただもし頼芸の胤かどうかわからない子供を
産んだら少なくとも嫡男にすることはないはずだね。側室の子だから
いくら長男であっても嫡男にしなければならない理由はない。

820 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 21:30:03
濃姫の話をしようぜ

821 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 22:13:33
信長の勢力拡大に中心的な役割を果たして、
家臣団の中でも権力を握っていた森家と濃の関係はどうだろうね。
道三の土岐家追放で美濃から追われて信長の家臣になった森家は、
濃とはいい関係ではなかったのだろうか。

822 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 23:04:31
濃姫は一切政治に口出ししてないようだから、いい関係もなにも、
社交辞令を交わす程度の仲だったんじゃないか?

道三のことを快く思っているわけないから、
内心「マムシの娘のくせに」なんて思ってかもしれないけど。

まぁ森家としても、昔のしがらみに縛られるより
信長に仕えて出世して森家の繁栄に励むほうが優先だから、
濃姫との主従関係はきちんとしていたろうけど。

823 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 00:11:51
縁戚・血縁による勢力拡大も重要な政治の一部なんで、
濃が政治に一切口出ししなかったなんて仮定を勝手にしないように。

824 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 00:34:31
確かに正しくは、濃姫が政治に関与した記録が残ってない、だね。
信長の正室として発言力を持っていた可能性も
822の通り、政治に関与しなかった可能性もあると思うよ。

森氏は濃姫との政略結婚の前から小谷仕えてるよね。
濃姫は、道三との和解の証として尾張に来たので、
気に食わないも何もなかったのでは?
和睦した後も怨恨引っ張ってる武将ってあんまり居なくない?

825 :824:2006/12/22(金) 00:35:42
誤字ありましたすみません。
×小谷
○織田に

826 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 00:41:40
戦国時代はいちいち怨恨を引きずっていたら正直生き抜けないだろ。
腹の中はどうあれ表面上はうまくやるさ。
主を3回変えてこそ真の武士が戦国時代の武士間では当たり前。

827 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 07:46:43
そういう個人の主観を語ってもらっても困る。
縁戚で勢力を伸ばすのも、戦国時代では重要な政治の一部。
濃の関係で、織田家の奥に森は入り込めなかったのではないか。

828 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 09:00:36
森家って織田の中ではやたら勢力伸ばしてるじゃない。
本能寺で信長と一緒に、小姓として息子が3人討死。
長可なんて、関所破りしても、その豪快さ故に信長さえ笑って許したり。
可成が葬られてるからって、聖衆来迎寺は焼き討ちを免れてるし。
三法師の生母の墓だって、聖衆来迎寺にあって、森家の女性って話もあるくらい。
聖衆来迎寺と何の関係もない塩川家の女性より、よほど関係ありそうだ。
嫡男の側室には、森家の女性は(森家の養女だったとしても)適任だよ。

829 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 10:55:07
>>827 >>濃の関係で、織田家の奥に森は入り込めなかったのではないか。

森氏の息女が信忠の側室になったというのは何か史料にでも残されているのかな?
信忠に関しては濃姫が奥を仕切る立場ではないので、森氏と確執があったとしても
正室のことはともかく、側室のことで口出しする権限はないと思われ。
信長が森家からあえて側室をもらう関係にはないので、よほど信長が気に入って
召し出す息女がいなければ、森家の側室がいなくても当たり前のような気がするけど。
濃姫のことなんて関係ないのでは?

830 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 11:00:11
塩川学長が、三法師の生母は自分ところの祖先だって言い出すまでは
墓の関係で森氏女って説が結構言われてた覚えはあるな。
聖衆来迎寺の過去帳はどうなってるんだろうな?

831 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 11:37:42
三法師の墓はどこにあるんだ?
生母だと三法師と同じ寺に葬られたりしないのかな?

832 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 11:41:58
秀信の墓は、高野山を追放された後、向副で亡くなったんだが、
寺でもなんでもない、道沿いに墓が建ってるんだよ。
凄く気の毒な感じの墓だ。

833 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 12:14:25
三法師生母って実家になんの力もない家柄も悪い女性だったんじゃないか?
それなりの家柄ならせめて徳川の治世になってから、
墓を建てなおしてあげるぐらいのことしてあげてそうだけど。
世間に先祖は信長の嫡孫の生母だった、ということをアピールできるじゃん。

834 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 12:16:03
秀信、関ヶ原で西軍についちゃったからねぇ。
他の織田家がそれなりに生き延びていくのに、秀信はそこで家系も途絶えちゃった様なものだし。

835 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 13:57:33
秀吉の霊廟も破壊されまくって、盗掘され、徳川の時代はそのまま放置されて
いたというけどな。

836 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 16:36:15
秀信は信長が寺をいくつも焼き討ちしたから高野山から追放されたんだよね。
でもさ、高野山にも光秀の墓とされるもんがあって、比叡山の焼き討ちは
光秀が総大将をとって、その後信長から褒美の賀郡5万石をもらったと
されてるし、そのへん矛盾があるんだよね。

837 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 16:55:04
織田秀信(幼名・三法師)=信長の孫
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E7%A7%80%E4%BF%A1


838 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 16:59:10
キリシタンになってしまったのか・・・三法師秀信

839 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 17:26:32
バロン発狂
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152424560/

840 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 17:36:58
1990年代の歴史関係の雑誌では、三法師の生母を塩川氏とも森氏とも言われているという
曖昧な記述が結構あったんだけど、いつの間に塩川氏ばかりが言われるようになったんだろう?
やはり声の大きいものが、強いってことかね?
森氏だと、、森長可が信忠軍だから、その縁で?とも考えられるがな。

841 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 17:45:39
前スレかなにかで、濃姫の本名が「鍋」と伝わっている家があるって話が出てたと思うんだけど、
本能寺後の崇福寺や丹羽長秀への手紙の署名が「なへ」でしょ?
これが、小倉と呼ばれていた信高の生母の書いたものと、確認されているのはなんで?
もし、濃姫の本名が「鍋」だったら、濃姫の可能性もあるって事?
むしろ、本当に「鍋」が本名だったら、崇福寺や丹羽長秀に位牌の安置などの指示を出すのは
正室の役目だから、濃姫が書いたと考えるのが普通じゃないかと思うんだけど。
大体、小倉の名前が「鍋」とされてる理由がよく分からないんだけど、
確実に小倉が鍋だという証拠ってあるのかな?
濃姫の本名が伝わっていない&本能寺の頃にはもう死んでいたと思われていたから、
濃姫だと思われていないってこと?

その辺詳しい方、説明御願いします。

842 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 18:37:18
鍋は本名ではなく、信長がつけた呼び名(あだ名)と聞いたけど。
この時代だと、濃姫ほどの身分でも本名は定かでないのが当たり前だから、
鍋が本名というのはそういう意味で怪しい。
帰蝶も真偽ははっきりしてないし。

843 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 18:43:57
バロン必死だな。
こいつ、生駒の自称子孫かもな。
怪しげな家伝書や家伝の家系図をみて、思いっきり勘違いしてるんだろう。
とにかくこいつがくると荒れるだけで迷惑だ。

844 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 18:54:25
IDでバロンと別人と分かってる相手にまで、バロンと決めつけている
15V4P9s5=9ZHwJBqYは確かに必死だな。
20日にも別人をバロンと決めつけてるしな。
ID出てる板くらいID確認して煽れば?

845 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 19:01:07
>>844 ?何のこと?スレ間違えてない?まったく理解不能。

846 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 19:02:52
つか、>>834の煽りにすかさず食いついてくるのはどうみてもバロン本人だな。
すごい執念だね、だけどよそいってやっとくれ。

847 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 19:10:57
悪いけど、>>834は自分が書いたものだし、>>844も自分が書いた
あなた、戦国板から出て来ない方がいいよ。

848 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 19:21:21
>>847 
話の流れから>>834ではなく、>>843の間違いだと思うんだけど、
>>843はきみなの?

849 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 19:23:23
あぁ、うぜぇ。
>>844も戦後板のことをなんでこっちに書くんだよ?
こっちは関係ないだろ?
バロンのことでこっちにいちいち擁護レスを書く必要あんのかよ?
とっとと消えろ!

850 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 19:23:37
>>841
秀吉の手紙で「小倉鍋殿」宛ての手紙があるから、鍋が本名と言われている。
信長は鍋とは呼ばず、小倉と呼んでいた。
もし仮に濃姫の本名が「鍋」であったとしたら、手紙に「なへ」と書くのは
おかしくはないので、たまたま同じ名前だったとかで、小倉と呼んでいた可能性もある。
信高の席次の関係で、鍋の他の子供と区別されている気がするから、濃姫の子供では?と、
分家で書いていた人がいたが、生母の名前が偶然にも一緒だったら、
その辺混同されたのかもね。
確かに、天正4年生まれの信高の方が7男、天正元年生まれの信吉は8男で、
小倉鍋は信吉と同居だしな。
ただ、信高が生まれた頃、濃姫42歳(実年齢40〜41)だから、どうかと思うが。

濃姫の本名が「鍋」と伝わっている家って、信長のおとなの家系だっけ?
曖昧なblogだった覚えがあるので、あまり信憑性はないと思うけど?

851 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 19:25:21
うざいね、確かに
最初に戦国板のスレ張ったヤツ、あっちに籠っとけよ

852 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 19:30:48
お鍋の方は『言経卿記』によると、
公家・白川雅朝の室を介して山科言経に平家物語の書写を依頼している。
『言経卿記』が手元にないから確認できないけど、その箇所で
お鍋をどういう表現で書いているかでわかるのでは?
濃姫なら信長公御台とか安土殿、というふうに記されているだろうから。

853 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 19:32:36
>>844はバロン確定。超恥ずかしいやつ。

854 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 19:37:40
なんで信長の正室がねねの侍女に召抱えられ、茶々の情けでいきていかなくちゃ
ならんのだ?お鍋はお鍋だろ。それに濃姫が男子を二人も産んだなら、
清洲会議でもっともめてもよさそうなもんだ。


855 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 19:46:41
小倉鍋と、斎藤鍋の2人いたの?って言う質問だろうに。

856 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 19:54:00
読解力ない奴が多いのか?
信高は斎藤鍋(濃姫)が生んで、信吉は小倉鍋が生んだんだったら
混同されたのかもしれないという仮定だろうに。

小倉鍋はいたな、確かに。
濃姫の本名が「鍋」なら斎藤鍋はいたになるし、違うならいないになる。

信憑性は低いが、濃姫の本名が鍋だと伝わっている家もあるってことだろう。

857 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 20:32:47
本能寺の変の時信高は14才。当時なら元服するような年だし、
濃姫が後継者争いで黙ってないと思うし、信高を推す後継者
がいてもいいんじゃないか?
まった〜く圏外で、その後他家にお預けになってるし、
ありえないな。

858 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 20:42:39
信高や信吉の生母云々はともかく、濃姫の本名が鍋なら、
崇福寺や丹羽長秀への書状の主は、濃姫の可能性は高くなるかもね。
実際、あの書状の差出人が「なへ」となっていた為、
正室は既におらず、小倉が正室代わりに奥を取り仕切っていたと
言われるようになったんだしね。

本名が鍋ではなかった場合、なんで安土殿が書かずに、小倉が書状を書いたのか?
って言う疑問は確かにある。
ただ、書状の文面を見る限り、誰かに指示されて書いたかどうかは分からないんで、
安土殿が小倉に手配させたのかもしれない。
制札をたてるように言ってるが、側室が丹羽長秀にそんな事命じる事ができたのか?
という気はするんだけどね。

859 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 20:50:18
濃姫とお鍋は敵対まではいかないけど、お鍋と子供達が秀吉の
配下になっているし、そういうコンタクトをしていた間柄とは
思えないけど。

860 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 20:54:07
>>859
だが、書状は本能寺の2日後に書かれているものだから、
一緒に日野城に逃れていた時じゃないだろうか?
その後全く離れてしまったらともかく、それ以前までは
安土城の奥で共に暮らしていた訳だし。

861 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 22:01:46
表にでてきている史料ではどっちとも真偽がつきかねるけど、
信高の家に伝わる書簡などから、明らかに信高の生母がお鍋、だと
わかるもんが残っているのではないか?
それに信高は明らかに秀吉についてるから、当時の中立的な濃姫の立場をみても
その説には無理があるんじゃないか?

862 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 22:13:09
>>841は、信高の生母について聞いていないからそこはひとまずおいておくとして、
濃姫の本名が「鍋」であれば、崇福寺と丹羽長秀への書状が濃姫の書いたものの可能性はある。

>>850で信高の席次の事が出てきて混ざってしまっているけど、そっちは無理があると思う。

863 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 22:23:07
「安土殿」が「小倉」の通称であった可能性はないの?

信長の晩年のお相手はお鍋の方であるし、
美濃御前(濃姫)は本当はもういなくて、
お鍋が「安土殿」と呼ばれ、御台扱いを受けていた可能性はないんだろうか。

864 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 22:28:05
信雄分限帳の記載年代には、小倉は既に秀吉から知行を貰ってるからな。
信雄が知行を与える必要はないな。
まして、記載順見たら、とても側室の記載順序じゃないし。

865 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 22:29:11
晩年のお相手って、名前が知れてるのが秀吉に仕えた小倉だけで
他にも姫を生んだ側室達は何人もいるんだから、小倉だけ飛び抜けてた訳じゃないよ。

866 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 22:32:42
一周忌の法要を、妙心寺でおこなった信長公夫人もいるし
それは、秀吉主催の一周忌に出ていた小倉のはずはないから
誰か妙心寺で主催できるだけの夫人がいた事になる。

867 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 22:50:09
>>863お鍋が信長の側室になったあとに信忠が御方(義理の母の濃姫)に書状を送ってる
から、濃姫がいないということはまずない。濃姫がいたということは
どんなに信長の寵愛があったとしても安土殿とは呼ばれることはない。

868 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 22:53:54
>>866 この法要って同日にやってるしな。信長の男子を産んで、とりあえず
側室の中ではそこそこ教養もあったお鍋に目をつけた秀吉が、将来的な
子供の待遇をえさにお鍋を信長の室代わりに呼んだんだろうな。
このことで、さすがに濃姫とお鍋は決裂したんじゃないか?
お鍋の粗末な墓石がそれを物語っていると思う。
お鍋の墓はあの中では墓石があまりに系統が違うから
最初は別のところに葬られていたのかな?と思ってるんだけど。
濃姫と対立したからか?

869 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 22:55:43
というか、信長の名前も存在も知られていない側室って
奥にいた侍女の誰かなんだろうなーと思う。
その辺の女で間に合わせていたイメージ。

信長は女に対して淡白というか・・・秀吉のように高嶺の花好きだとか、
処女好きだとか、そういうこだわりがあまりなさそう。
男だからそれなりに強い性欲はあるだろうし、戦前後なんかだと闘争本能が高まって
女が欲しくなったりもするんだろうけれど、
いまいち女好きというイメージがないw(秀吉、家康はあるんだけどw)


安土どの=濃姫で、信長の奥におけるトップなのだとしたら
多分女として惚れていた云々ってよりも能力主義の信長のことだから、
奥を取り仕切る能力が優れていた為、大切にしていたって気がする。

870 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 22:56:53
信長は卑しすぎなんだよ。
源氏の名家の娘と子供を作っておけば良かったのに。
嫡男の嫁が塩川って何だよ。

871 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 23:00:49
もしホントに御台扱いされるほどお鍋が信長の寵愛が受けてたのなら
信長死後すぐに秀吉に乗り換えたみたいなものだから
織田家の側からしたらいい感情は持てないだろ。

872 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 23:07:35
>>867
御方宛ての手紙は、漢字だけで書かれているから男性宛てだと思われ。

873 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 23:10:41
>>870
そうしたくても肝心の源氏の名家が嫁をよこさなかったからな〜。
これに関しては信長も悪いが信玄も悪いからどっちもどっち。
そして翻弄されたあの二人が一番悲惨。

874 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 23:23:00
しかし、あれほど側室から正室に取って代わる事はないと、既出なのに
小倉が御台代わりとか、安土殿なんて正室の名称で呼ばれてるとかって
話が、なんで出てくるんだろう?

875 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 23:27:49
>>874
実際その時代見てきたわけでもないのに何故
「側室から正室になるなんて有り得ない」と言えるの?
生駒が正室になっていた可能性だって捨てきれないと思う。

876 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 23:41:22
それはない。

877 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 23:42:49
>>875 当時の婚姻制度では考えられないからし方ないじゃん。
なら大名家で側室から正室になった例をあげてごらん?
安土桃山までの大名家の当主の婚姻は全て政治的な背景があって、
家と家との同盟関係が前提。
側室はその字のごとく、室の側にいる女、つまり正室に付随する存在で
正室の借腹のためにおかれた女。
正室より側室のほうが身分が高くても同様。
側室となったら身分は不問。子供を産むか、産まないかだけに価値がおかれる。

生駒はまったくないよ。
濃姫より明らかに早く亡くなってるじゃん。
お鍋もまだいなくて、生駒が亡くなったあとに、ちょこちょこ史料にでてくる
御台〜、本妻〜、御台御料所〜、の信長正室は
濃姫じゃないとしたらさ誰なのさ?

878 :日本@名無史さん:2006/12/22(金) 23:56:09
信雄は2度も改易されたり流刑になったりと世間の物笑いになっちゃって。
五徳は信康があんなことにならなければ、二代将軍正室、
3代将軍生母ということで、そっちで先祖自慢もできたんだろうけど
信康母子を死に追いやった張本人という汚名を背負ってしまって。
生駒家子孫が生駒信忠生母説に粘着する気持ちもわかるな。
もはやそれしか自慢できんもん。

879 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 00:03:08
>>877
側室→正室となったその唯一の例外が生駒御前かもしれないじゃない。
そもそも子供を生む為にのみ側室がいたのなら、家督相続争いなんて
おこらないよね?側室を正室よりも重視した大名や武将がいたのは
歴史にも別に珍しい事じゃないよ。
側室への寵愛から側室との間に出来た子供を跡取りにしたい、
例え正室に子供がいても、そういう騒動なんて何度もおきたわけだし。
(武田勝頼は、母親の諏訪御前が寵愛深かったから跡取りになったらしいし。
嫡男が死んだのは謀反が原因だから、事故とも言えるけど)

この時代の御台なんて、実際誰のことかわからない事。
もしかしたらそれを書いた人にしてみたら「信長の夫人」のつもりで
書いていたのかもしれないし。
実際江戸時代には将軍正室の呼称のみとして「御台所」というものが
使われたけど、戦国時代はそうではなかったみたいだしね。

880 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 00:03:32
>>877 じゃあ正室を娶る前に手をつけた女は、側室という名称は正しくないから、
側女とか、妾とかよばれて、日陰の身だったのかな?
三法師の母はそういう立場の女性だったから、三法師の一般受けが悪かったんだな。

信忠の正室は松姫をもらっておけば問題なかったんだよ。
彼女が立派な男子を産んだかもしれないし、子供が生まれなくても
濃姫みたいに松姫が三法師を養子にすれば信孝も勝家も命を落とすことは
なかったろうし、秀吉もあそこまで傍若無人になることはなかった。

881 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 00:14:15
>>879 生駒が織田家の正室なら、生駒家の菩提寺に墓があるはずがない。
織田家の菩提寺に丁寧に葬られてるはずだ。
喪主も信雄ではなく、当主の信長が行っただろうよ。
それに生駒は生前出家していたことが戒名からわかった。
信長が死んでもいないのに、出家するのは不自然。
それと戒名が大名正室にしてはランクが低すぎ。
お鍋よりも格下だ。

政略結婚だから正室より側室に愛情を注ぐケースもあったろうけど、
だからといって敵対する他国の使者でもある正室を軽んじる事は
家同士の問題に発展するから、立場上は正室をたてていたはずだよ。
現に五徳を軽んじたために、大騒ぎになったじゃないか?
もっともどこまで五徳が信康自刃にからんでいかは疑問だけど、
そういう話がまかり通っていたということは、当時の婚姻制度は
そういうものだという証拠でもある。

882 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 00:17:20
>>879 勝頼が嫡男になったのは、正室の産んだ兄貴達がなくなったり、
僧侶になったりで、タナボタで順番がまわってきただけなの。
勝頼は諏訪氏を継いでいたぐらいだから、信玄は武田家を継がす気なんて
さらさらなかったのに、仕方なくそうなっちゃったら、案の定家臣が
猛反発して、武田家滅亡。

883 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 00:19:06
ていうか、勝頼って武田家相続していないよね。
信玄の後の跡取りは、勝頼嫡男で勝頼はあくまで後見だったはず。
風林火山も許されなかったと思ったけど。

884 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 00:20:42
そのへん諸説あんだけど、最近は勝頼家督相続説が有力みたいだ。
風林火山の話はほとんど創作だから。

885 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 00:23:02
>>881
源氏物語だって、源氏最愛の女性・紫の上が別に源氏がピンピンしている時から
女の身の憐れさから出家したがっている。
別に夫が死んでいなくても、出家する理由なんていくらでもあるんじゃないかなぁ。
例えば五徳を生んだ後に、奇妙丸のその当時正室だった濃姫への養子縁組がきまり
子供をとられたというショックで、世を儚んでしまったのかも。
そう考えると、信長への愛情はあったにせよ自分の身はなんて儚いものなのかと
思い出家したり、葬儀ももしかしたら遺言で愛する息子を喪主に・・・なんて望んだのかもしれない。


886 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 00:24:32
>>879
マジレスすると勝頼が跡を継いだのは諏訪への寵愛が深かったと
いうより年齢的に彼しか妥当な息子がいなかったから。
最初から嫡男候補ではないから嫡男教育もうけず高遠で伸び伸び?と
暮らしていたものを信玄が急死したおかげで突然引っ張り出されて
武田というでかい屋台を背負うというある意味不幸な状況に
陥ったといっても過言ではないだろ。家臣や国人をまとめるという意味では
血筋から言っても最適な盛信もいたが彼はまだ16歳。
さすがに勝頼を差し置いて跡目に立てれるわけもなかろうし、変に担ぎ上げられて
家内が騒乱しないためにも跡目候補からは外されたんじゃなかろうか…。

松姫については同意だがいかんせん本能寺が起きてしまったからもはや未知数。
本能寺以前でも武田方が織田に松姫差し出さなければ意味がない。

887 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 00:24:57
側室から正室になった例
現代ならカミラ夫人かw

888 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 00:31:13
>>886
勝頼と盛信だと諏訪衆vs甲斐衆で対立するのは火を見るより明らかだよな。
あと盛信のキャラって典厩とかぶるな。典厩同様に本人が跡目に関しては
断固として拒否した感は否めない、自分はね。

889 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 00:31:20
>>885 お話にならないぐらいロマンティストだけど、歴史考証の上では
まったく無駄なことだから。
まず公家と武家は違うし、時代も違うし、あれはそもそも創作物語でしょ?
しかも紫の上は正妻じゃないじゃん。
出自が悪いので正妻にしてもらえず、ずっと第2夫人という立場だったでしょ?
源氏の世界であっても正妻との正式な婚姻は全て政略結婚だったということを
忘れてませんか?
だいたい生駒は信雄や五徳の母親でもあったんだよ?
そんなことで世をはかなむかい?
それに側室は正室の借腹だったんだから、子供を正室の養子にしてくれた
ことは大変な名誉なこと。信忠が生駒生母というのが正しければだけど。

そういう妄想はいいかげんやめて、正しい武家のしきたりや当時の
婚姻制度、側室制度を学んでから、もういちど生駒のことを
考察してみたらどうですか?

890 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 00:36:28
松姫の兄ちゃんの盛信が後を継いでたら、松姫の結婚話は進んでたのかな

891 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 00:36:58
>>889
一般的には側室は正室の借り腹なのかもしれないけど、
生駒に関しては違うかもしれないじゃないですか。
さっきも言ったように、正室よりも側室に寵愛を注ぎ、
跡目争いになった大名武将なんて数多くいるんだし。
子供をとられて感謝する母親なんていないと思う。

そもそもさっきから正しいしきたりやら当時の常識を語っているけれど
その当時生きていて、武家社会で生活でもしていたんですか?
そうじゃないなら確実な事なんて何一つわからないし、
生駒が正室になっていないという断言だって出来ないと思う。

892 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 00:39:51
このスレ自体がお話にならないぐらいオレ様展開なんだが…w

ちなみに源氏と葵の婚姻は政略というより当時の習慣+親のエゴ+親心
政略目的なら帝の寵愛深しといえど葵は源氏ではなく東宮妃として
入内させていたろ。女三宮の場合は政略ではないとはっきり言える。
完璧に父親の親心と源氏のマザコン心が一致した結果。

893 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 00:49:50
だから、墓一つとっても織田家正室の扱いを受けてないからわかるんです。
あなたのいうことだと、歴史考証はまったく意味をなさないことになるますね?
当時は子供を敵の家に10歳満たないのに嫁にだしたり、人質に差し出したりが
当たり前の時代ということはおわかりでしょ?
そういう価値観であった時代に、現代人の恋愛感覚や親子の情愛を
おし通そうとする考えの方がよほど不自然だ。

お家騒動になるのは、パターンが決まっていて、代表的なのは
長いこと正室の子供ができなくて、側室にできた子供を嫡男にしようとしたら、
ひょっこり正室に男子が生まれた場合。
当然正室の子供が有利なので、そっちを嫡男に据えようとすると、
すでに嫡男扱いだった側室の子供の取り巻きが反対して、
家臣団が真っ二つに別れるパターン。
寵愛の深さが原因なのではなく、正室の子供の正統性が強いことからおこる
ためのお家騒動です。そのへんも思い違いをしているようですね。

そもそも生駒が信長の寵愛を受けていたというのは「武功夜話」にのみ
記載されていること。その武功夜話が時代考証も、事実関係も、年代的なことも
めちゃくちゃな偽書だということをご存知ないのでしょうか?
武功以外で生駒が史実に登場することもなく、信長のもとを去ったのは
亡くなる直前ではないこともわかっているのですから、位置付けとしては
大勢いた奥の側室の一人であるといっても過言ではないと思います。

894 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 00:50:10
>>890
微妙だろうな。家康君がどう動くか、そして盛信がバカ親父の残した
負の遺産をどう処理していったかによると思われ…。

895 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 00:53:03
>>893
まぁそう顔を真っ赤にしなくても。

896 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 00:55:02
>>892 いやぁ、皇女という立場の女を正室に迎えることのメリットも
大いにある。源氏はああみえて、けっこう野心家じゃん。
皇女でなかったら正室に迎えることはなかったろう。
自分が天皇になれないのは、実母の身分が低くなれなかったというコンプが
あるしさ。紫の上はそういう源氏の腹を見抜いていて、自分の出自の低さを
悲しんでた。あれは物語だけど、基本的に宮中においても、結婚と恋愛を
完全に切り離してたな。

897 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 00:57:25
>>893
濃姫厨必死すぎですよ?

あなたが言ってる事は全て「資料を読んだ」結果のものでしょ?
実際戦国時代に生きてて、武家社会で生活していたわけでもなければ
実際の信長と生駒の生活を見ていたわけでもないじゃない。
何故その他の資料を信じれるの?嘘かもしれないのに。
同時にもしかしたら「武功夜話」が本当なのかもしれない。
全てが、とは言わなくても、生駒への寵愛深さは本当かもしれない。
何でそんなに必死に否定しているの?

898 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 00:57:27
紫の上と生駒、どこかかぶるけなげな女性。
でも紫の上は源氏に一番愛されていたというのは読み取れるけど、
生駒はどうだろ?武功が嘘なら・・・並み程度?

899 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 00:57:58
女三宮が降嫁した時の源氏はすでに皇籍だったんじゃなかったっけ?
皇籍と言っても宮家とかじゃなく天皇以上上皇以下みたいな感じ。

900 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:00:59
>>897 おたくが逆切れしているように見受けられます。
歴史考証の場で、その時代に生きてもないくせに、ということで
全てを否定するのは発言そのものがスレチな発言と思いますが?
ここは信長と濃姫について現代で語りあう場なので。

901 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:04:26
>>899皇籍のものと結婚する時も降嫁という表現になるの?
源氏は皇子ではあるから、皇籍のままだと思ってた。
ただ皇子でも母親が出自によってすごくランクがあんだよね。
皇子で一番ランクが高いのは皇女を母に持つ場合でいいのかな?

902 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:04:53
武田の話でなんだが、
諏訪よりもなお遠い北信仁科氏を継いだ十代の盛信が
「もし、武田を継いでいたら・・・」
というような仮定話は、考えようとも思わない。不毛だ。


903 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:06:15
>>897
だったら、どんなに否定されても自分だけはそう信じていればいいんじゃないか。

904 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:06:39
信長と濃姫について話すスレと断言するならそれだけ話してればいいじゃんか。
生駒のみならず生駒家や武功、土田あたりのことまで展開させるのを許すから
こうやっていろいろと突っ込まれたり話題をふられるということにいい加減気づけよ。
ここはあなただけのスレじゃないんだよ。
自分が気に入らないことを書き込まれたくないならブログでも作ってそこでやれ。

905 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:06:56
>>901
源氏は「源氏」を与えられ、臣下にされているから
皇籍ではないという認識だと思われ。

906 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:07:51
武家の婚姻制度を語ると必ず濃姫擁護だ、生駒を否定するのに必死だとか
と言い掛かりをつけるやついるな。お約束のようにでてくる。

907 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:09:19
さっきから必死になってる濃姫厨って、例のブログ持ちの主婦なんじゃないの?w
濃姫が出産していたとかいう設定の小説書くとかなんとかで
生駒の事を偉そうに語ってた人。
あの人じゃないかなって気がするw

908 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:11:16
>>906 そうそう、そして必ずでてくる、俺様レスやめろコール。

生駒マンセー側にはしつこく食い下がっても文句を言わないところがポイント。

909 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:11:18
>>905
了解。それじゃ源氏が皇籍に復活して院と称されたことはスルーなんですね…。

910 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:11:20
>>907
もう止めとけば

911 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:13:46
どっちにしても皇女の妻を欲しかったんだよ。
ちょうど正室がいなかったし、恋人は吐いて捨てるほどいたから、
正室は箔付けに皇女ってことだな。

912 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:16:09
>>907
自分は最初から彼女と思っていたが…。
そういえば濃姫好きのお友達が信忠生母は生駒じゃない何たらという話を
言っていてとブログに書き込んでいたのを読んでからここは彼女と
そのお仲間達の憩い場スレなんだろうと自己認識してるんで
自分はロム専に徹することにしている。

913 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:16:57
でも、歴史的な事実を無視して、当時の慣習とかを考慮もせずに
現代人の感覚と中途半端な知識だけで生駒のことを語られるのも正直不快だな。
この人HPで一度みた生駒の子孫という女性?と思った。
ものすごい生駒びいきな解釈で武功夜話を信じきって史実だと
信じて疑ってないんだ。それもびっくりしたけど。

914 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:19:06
>>912 ロム専に徹してないじゃん、カキコしてんじゃんよw

915 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:19:07
>>912
ロム専に徹するって書き込んでるやん

916 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:20:01
>>911
欲しくて貰ったというより渋々貰った(預かった)という感じみたいだけどね。

917 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:20:10
912と907って同一人物みたいだな

918 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:20:51
>>914-5
くだらん揚げ足はヤメレ

919 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:21:51
>>907
やめなよ、恥ずかしいよそんなこと言うの。
大体、あの人は濃姫が子供を産んだとしても、
生んだのは「姫」だろうけど、
話として面白いからって、読み物として書いてみたいと
普通に書いてあったじゃない。
mixiでも、そう考察してたよ。
大体、あの人、生駒の事、かなり好きな人だよ。


920 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:22:24
>>918
でも突っ込まずにはいられないだろw
1秒差で二人突っ込んでるんだから。

921 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:23:29
>>918
図星を突かれたことによる逆上かとw

922 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:24:39
いい具合に荒れてまいりましたage

923 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:24:44
>>919
本人乙wwwww

924 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:25:08
何でも本人乙なんだねぇ

925 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:25:11
このスレでも生駒を否定というより、何だか萌えるねって流れだったのに
定期的に生駒を否定するなというレスが付くような気がするな。

926 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:27:04
何ていうか個人的には濃姫がずっと正室でいて欲しいとは思っているし、
子供を生んでいたのならまた歴史って面白いなーと感じるんだけど、
長文で生駒が側室に過ぎなかった事を延々と語られるとなんかもにょる('A`)
>>912が事実なら、なおさらそういうのは個人ブログでやってくださいと感じるし、
そんな粘着して一人で延々と生駒厨に応戦しているのを見ると
なんかみっともなく感じるよ。

927 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:27:09
>>907はブログ主に何かコンプレックスでもあるのか?

928 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:29:38
>>926 そうか?せっかく正論を正しているのにまったく聞き入れず
アホな妄想を延々書き込んでいる生駒オタのほうがみっともなくないか?
なんでそっちはスルーなの?

929 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:30:00
ブログの人も大変だな。
粘着してるのがいるようだから、しばらくはそのネタはやめた方がいいな。

930 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:30:37
ヤフトピの自称吉乃の子孫が来たのかと思たwwww

931 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:31:17
>>926
生駒を正室だとしつこく食い下がっていた人も反論レスと同じぐらい長文だが?

932 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:33:27
>>928
いや、生駒女厨は痛いと感じるよw
ただたった一人の誰から見ても厨の言い分を長文でやり込めてるのを見ると
小学生の悪口相手に、大人が正論で長々反論しているのを見ている気分になるw
さっきから長文で遣り合っている人が、本当にブログの人なのか
それとも他人なのかは知らんけど、とりあえずこのスレで
厨相手に正論をずーっとかましてる人も何だかなーと思う。
どう見ても理解しそうにないお子様相手なんだし、何もそこまで必死にならなくても・・・
と思うのは私だけなんだろうかw

933 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:33:33
>>930 そいつ誰かにこテンパに論破されてたのが笑った。

934 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:34:43
その時代に生きてなかったくせにとか言われたら
戦国時代の話は誰にも出来ないよw

935 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:35:24
>小学生の悪口相手に、大人が正論で長々反論しているのを見ている気分になるw
ここちょと同意w

936 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:35:48
>>932 それならスルーしとけ。

937 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:36:50
長文で反論してる正室オタの人が我にかえって、
>>907を書いたとしか思えなかったけどね。

938 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:36:50
>>934 戦国時代どころか、戦前の話もそのうち誰もできなくなる時代が来るな

939 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:38:03
>>937 そうやって人にふるな、おまえが書いたんだろ?

940 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:38:15
>>938
その前に戦後すぐの話が出来なくなる日の方が近そうだw
戦前生まれは長生き、それ以降はぽっくり死ぬって気がするw

941 :サーバー負担軽減にご協力ください。:2006/12/23(土) 01:38:29
とりあえず次スレはもう立てないでね。

942 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:38:45
>>937 自分もちょっと思った。我に返って恥ずかしくて、所行をなすり付けたと思ったよ

943 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:39:30
みんなすごい妄想力だなw

944 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:39:51
今夜でこのスレ終わる勢いだけど、次のスレタイはすんなりいくかな?
確か規制入りまくりで大変だったんだよな・・・
どさくさで分家もできちゃって。
そういえば分家どうしてるんだろう?

945 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:40:31
>>943
そりゃこのスレの内容を読めば自ずとわかろうというものでして

946 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:40:54
だから>>942>>937なのはばればれだって

947 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:41:00
>>945
たしかに。

948 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:42:23
分家も同じように荒れたりまったりしたりだ。

949 :サーバー負担軽減にご協力ください。:2006/12/23(土) 01:43:59
次スレはもう立てないでくださいね。
信長や姫に関するスレは他にもあるのですからそちらを
まずは消化してください。

950 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:44:00
バロンが荒れているのといのは分家のほうか?

951 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:44:54
>>949 さては分家のスパイだな?

952 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:45:27
いや、戦国板の方
あれてるのはバロンじゃないけどね
一昨日、自分、バロン認定されちゃったしw

953 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:46:48
厨二病を目の当たりにした感じ
妄想力の高い人が多いね

954 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:47:01
バロンてあんなキャラだったっけ?
最近いやに尖ってるけど、何かあったのかね?

955 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:53:37
クリスマス前だからな。
色々思うところがあるんだろう

956 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:54:11
>>955 プッ、なんだよれw

957 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 01:54:59
「そ」が抜けてた。
プッ、なんだよそれw

958 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 02:00:16
基本的に生駒マンセーは生駒の自称子孫とかに多いのかね?
前にどっかの歴史もののHPのBBSで自称信雄末裔のやつが
武功夜話を史実だと信じていて、歴史オタのやつとたたかって負けてた。
やっぱり生駒のことをすごく誇りにしてんだよ。
信長に一番愛された女性の子供が我らの先祖だ、ということにしたいみたい。
ただの側室の一人が産んだ子ではダメみたいだ。
そいつ武功夜話も歴史小説も全部こちゃまぜになっていて完全にいかれてたな。

959 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 02:03:12
ところで、濃姫信高生母説は玉砕?
お鍋正室説も玉砕?

960 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 02:05:02
まぁ一時期あれだけメディアでも信長の相手は濃姫じゃなく吉乃だったし、
いまだに信長関連の考察本(小説じゃなく)でも信長の初恋は生駒みたいに
かかれていたりするから、そう頑なに信じてしまうのは子孫じゃなくてもいるかもなー。
信長って母親に疎んじられていた幼少期があるから、無償の愛で包み込む側室と
そんな年上の女に初めて惚れた魔王って設定は萌えなんだろうw


961 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 02:05:20
信高の生母は、いくらなんでもないだろう

お鍋の正室説なんか、もっとないだろ?
信長正室が、高台院の侍女なんて、やってられるかよ

962 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 02:09:46
この世は所詮弱肉強食
強ければ生き、弱ければ死ぬ。
自然の摂理だ。

963 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 02:10:44
最初に見た信長物の設定にも結構影響されるんじゃないの。
一昔前は信長と言えば濃姫だったけど、この所は大河ドラマでも生駒重視が多かったし。
でもゲームとかだと濃姫が出てくることの方が多いのかな。

964 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 02:14:53
そういえば、最近の信長出てくるドラマはNHKもテレ朝も吉乃じゃなく濃姫だったな。
さすがに偽書説がこれだけ普通に言われるようになると、吉乃は出しにくいかな?

965 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 02:18:32
自分は秀吉妻妾の情けで扶持をもらっていた高畠氏に、
生き抜く術を模索する後家の哀愁の漂いを感じて、わりと好きだなw
哀愁・・・というより、気丈に踏ん張ってたのかもしれないけど。

まあ、侍女といっても(例えで江戸大奥を出すけど)上臈のような職で
昔話のお話相手のようなものだったと思ってる。

966 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 02:28:56
>>964
吉乃が出ないのはただの作品の設定のせいだろ。
大河「功名が辻」がそれ一本の原作とせずに、総合的に
国盗り等の司馬の諸作を混合して脚色したような作であったし、
テレ朝のやる気なし「太閤記」が大河を意識して追随したからだろう。

去年のテレ東も、そのものずばりで「国盗り物語」だったから、
濃姫主筋は当然。

歴史好きならともかく、武功の偽書説なんて
ドラマを見るお茶の間には浸透していないだろうし、
視聴者が創作を楽しむことにおいて偽書云々の説明は不要だし、
第一、テレビドラマの制作陣なんでそんなこと気にしてないよ。



967 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 03:25:08
>>961 信高実子説が無いの根拠をもちっと詳しく教えて欲しい・・・・・・。
高齢だからはなしね。数えの42なんて余裕で子供生めるし。当時でも生んでる人居るし。
ホント近江地誌が出てきてから、イタイ妄想ばっかりして自分がヤダ。
でも、濃姫については、重要な人なのにもかかわらず残ってなさすぎなので
当然残ってるはずのものがないことに作為性を感じてしまって、地誌の方が正しいような気がしてしまう。
近江の人間は乱世慣れしていて、表面では権力者にへつらいつつもしっかり記録は残すカンジ。
だから一般的な史書より近江地誌の方が個人的な感覚としては信頼できる。(根拠になってないけど)
とすると、信房が信長と濃姫の子じゃないかと。それは、後の厚遇を考えても無茶な想像とは言えない気がする。
でもこの子の母は記録されて居ない。つまり、濃姫の子は記録に残らないか、残せない可能性がある。

信房が濃姫実子で、信忠が養子だったら、遠山夫人に養子くれって言われた時は最大のチャンスなんだよね。
信忠はまだ元服していないので、お坊は駄目だけど奇妙なら養子に出せるよと答えれば、何もかも丸く収まる。
これで家督争いも無い。信長が10年ほど余分に頑張らないといけなくなるだけで。
でも養子に出されたのはお坊だった。濃姫の子は記録に残らないとすると、信忠も濃姫の子かと、思えるようになる。
(手塩にかけて育てた養子は実子と何ら変りません信忠が嫡男ですといったやり取りがあった可能性も否定できないけど)
信長は1573年頃から急に子沢山になっている。これは信長が権力を握った時期と重なるようで、そうでもない。
私には1572年の信房が人質に取られる事態を招いた手駒不足を反省して子作りに励んだように取れる。

で、信秀(1570年誕生)と信高(1576年誕生)なんだが、この人たちは幼名からして同母兄弟だろう。
また、この二人は、信雄信孝を除くと、残った信長の子息では別格扱い。
誰か別の側室が居た可能性も確かにあると思う。その側室の一族が生き残っていたら、徳川を憚って
家系図に載せないだろうから(土方氏もそうだね)、単に実家の都合で解からないだけかもしれないけども。
ただ側室の子とすると、序列の謎が上手く解けない。また信長の父である信秀の名が、側室の子に与えられるとは思えない。

968 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 03:32:48
やはり、正室厨の女性なのだろうか・・・

969 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 09:21:59
歴史は好きだけど、そこまで詳しくないし、
濃姫は好きだし晩年まで生きてて欲しいと望むし、子供生んでたら
なおドラマティックだと思う私だけど、
正直>>987みたいなのは痛いよ・・・・・・。自覚ありみたいだけどさ。。。
漫画やゲームにおけるキャラ論争のノリぽく感じてしまう。
全ての事件、事象を濃姫と結びつけ、濃姫主体の戦国絵巻。
濃姫には織田家の奥で重要人物であって欲しいとは感じるけど、
そこまで全てのことを濃姫に結び付けて考えようとするのは痛い。

970 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 09:36:10
時間的に見て>>967=>>968って感じだな

971 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 09:52:59
三点リーダの使い方に特徴あるからすぐ分かるね

972 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 11:26:02
生駒と信長よりも、濃姫と生駒、のストーリー展開のほうが
ドラマティックで一般受けするよ。
生駒との話はふくらましようがないじゃん。
信長の心の拠り所というには、同時期側室もいたし、
あっさり信長の元を去ってしまうし、ちょっと説得力もない。
信長との接点がせいぜい7,8年でしょ?
濃姫だと信長が14才の頃からの話も盛り込めるし、
斎藤家がらみの話も引っ張れるから、
脚本的においしい。
最後はお決まりの本能寺の変でのなぎなたの応戦でともに亡くなる、
で瞬間視聴率もぐっとあがる、というのは製作側も捨てられないだろう。
そうなると信長と濃姫が仲の良い夫婦で、いつも濃姫の膝枕してなきゃ
面白みも半減。

973 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 11:47:04
>>972 
生駒は生駒、濃姫は濃姫で、きちんと正妻、側室の位置付けで
描かれていれば両者がドラマの華をそえることはできる。
どっちかをいかすために、どちらかの立場を陥れるしかないというのは
問題。そうしなくてはドラマがおもしろくならないのかな。

974 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 13:53:59
というわけでそろそろ次スレを立てたいんですが…
荒れ終了?いい?

975 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 14:32:45
簡単なまとめ。誰か適度にツッコミ入れて

濃姫
 帰蝶。斎藤道三の娘。織田信長正室。
 夭折した子供を出産した可能性・"若君はいない"の記述有。姫出産?
 信長死後は信雄の庇護をうける?法名・養華院殿要津妙玄大姉。

生駒女
 本名・類。俗称・吉乃。織田信長側室。
 信雄、五徳を出産。信忠出産には疑問有

お鍋
 小倉。興雲院。織田信長側室。
 信高、信吉、御振出産。信長死後は秀吉の庇護をうける。

976 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 17:08:00
まとめは要らないんじゃないかな。

977 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 18:19:35
とりあえず、次スレではレスは長文ではなく読みやすいように簡潔にまとめましょう。

978 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 18:56:29
ま〜だ生駒が正室だったとか、お鍋が正室だっとかほざいている連中がいるんだな。
生駒が正室だと証明したいなら、まず濃姫が亡くなったか、離縁されたか、という
ことを証明しないとな。お鍋も同様。
正室同様の扱いでは、依然濃姫が正室という立場であった可能性があるし、
側室という立場に変わりはないから。

979 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 19:47:22
もし信長生前中に濃姫が亡くなったら織田家の菩提寺だった万松寺
あたりに葬られてるはずだな。あれば過去帳などに記載もあるはず。
道三の譲り渡し状から、道三が亡くなるまでは濃姫が
生きていて、信長が婿殿だったわけだから、
それ以降どうなったかだな。
離縁されても帰るところはないし、小見の方のところか、
斎藤か明智の縁者でも頼って身を寄せたのだろうか?
でも譲り渡し状の効力がなくなってしまうので、離縁はありえないか。

980 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 21:08:38
濃姫の葬儀があったなら、言経の日記に書かれていてもよさそうだけど?
離縁してもやっぱり書くんじゃないか?
すごく些細なことまで記録してあるからさ。

981 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 22:05:07
言経は慶長16年に亡くなってるからな。
養華院殿要津妙玄大姉は慶長17年に亡くなってる。
もし養華院殿が濃姫なら、書けないな。

982 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 22:15:52
>>981 違う違う、濃姫が亡くなって生駒あるいはお鍋が正室に
なったかもしれないという仮説に対してだから、
信長生前に亡くなっていたら、という意味。

983 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 23:21:51
なるほど。
生駒死後なら、父親の言継卿が日記に信長本妻を書いてるから
書かれていると言えば言えるか。
言経卿記ではお鍋の事は、右府殿妾って表現で書いてあるらしい。

984 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 00:03:48
>>983 少なくともその時点では世間的にお鍋は側室という位置付けだったようだね。


985 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 00:30:50
産めage

986 :968:2006/12/24(日) 01:30:48
>>970
すまんけど、>967じゃないよ。
濡れ衣は勘弁。
自分にも好きな歴史人物はいるけど、距離をおいて考察できるさ。


987 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 09:29:41
>>986
濡れ衣は勘弁と言うくらいなら、他人に濡れ衣着せる様な発言しなければいいと思うよ。

988 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 10:49:23
 

989 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 10:50:24
 

990 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 10:51:34
990

991 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 10:53:20
 

992 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 11:17:23
うぜぇ生駒の子孫もどきはとっとと消えろ

993 :967:2006/12/24(日) 11:32:05
失礼なやっちゃな。
生駒氏のお陰で織田家は存続しているといっても過言じゃないのに
(高家も信雄系からの養子で繋いでるところ多いし)
その生駒氏や子孫を悪く言うなんて織田ファンとして信じられん。
信雄は信長のように時代を作ることは無かったけど、最後は時流に乗ったと思うよ。

それは置いておいて、968には別に腹立たないっつうか、どうとも思わんけど。
それよかもっと論理的な反論等が欲しかったんだけど・・・・・・。

994 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 12:21:17
ファンとしての見解を書き込んで、それに同意しろなんて傲慢そのものだ。

995 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 13:47:20
995

996 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 13:49:06
               、....,,_
           、-‐'"  __ ヽー- 、}ヽ
           ,/´/ /  , _,.  _/ ノ レi
        _,// /  /{  i    ー' ノ
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            l l      __ _     /´
          `l丶   ´ -‐ '  イ┐      4回転ジャンプ習得が課題です
            l \      /  」、 _ ,,.
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              !_ _,..   i |  /          ヽ
          /           !.| ,/

997 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 13:51:27
997

998 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 13:53:55
998

999 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 13:55:07
999

1000 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 13:55:32
1000

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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

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