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畿内王権の成立とその前後の過程

1 :日本@名無史さん:2006/10/15(日) 15:08:30
ここでは、2〜4世紀の畿内で、
どのように王権が生まれ、発展していったかを議論します。

純粋に畿内王権の成立のみを扱いたいので、
邪馬台国や魏志倭人伝や神武など記紀ネタは厳禁です。
語りたい人は別スレへ移動してください。

自説展開はソース明示(論文、提唱者、遺物など)
事実と仮説をはっきりと書き分ける(混同や妄想や想像に終始したものは説と見なさない)
「根拠はないが、俺はこう思う」とかいう類のものは、別スレで行い、ここには書かない。




2 :日本@名無史さん:2006/10/15(日) 15:12:30
ttp://homepage1.nifty.com/saizou/ketetusio.htm

1999年福井市泉田町の弥生時代後期(西暦二〇〇年ごろ)の集落遺跡「林・藤島遺跡」から
2千点を超える鉄製品が見つかりました。
当時は貴重品だった鉄の工具も1100点と全国最多の出土数で、
鉄を加工する鍛冶(かじ)の跡も見つっています。
古くから越前が鉄の生産地だったことを示すものです。
県内には玉造りの遺跡もあり、鉄と玉を中心とした交易の拠点で、
大きな経済力が合ったことを示すものです。


3 :日本@名無史さん:2006/10/15(日) 15:26:48
ttp://www.asahi-net.or.jp/~PV3N-SITU/kahei-3.html

古代の人々は、洋の東西を問わず、交換を円滑に促すために、物品貨幣(塩、貝など)を用いていた。

物品貨幣として用いられる物は、
第1に、それ自体、誰にとっても有益なものでなければならない。
第2に、物理的に使いやすい、すなわち持ち運びができることである。
第3に、耐久性をもっていることである。
第4に、分割可能であるほうが便利であろう。

このように考えてゆくと、エチオピアの塩、ローマの牛、ニューファンドランドの干鱈、ヴァージニア(米国)の煙草、シベリアの毛皮など、
世界では多くの物品貨幣が用いられたが、それらに比べると、金属の方がよほど貨幣に適しているということがわかる。
金、銀、銅、鉄は利用価値をもち、誰もが受け入れやすく、耐久性があって、運びやすい。そして分割も可能である。
実際、スペイン人やローマ人は金属を、延べ棒のままで貨幣として用いていた。


4 :日本@名無史さん:2006/10/15(日) 15:31:26
ttp://www.geocities.jp/shimizuke1955/304salt.html

愛知県の製塩の歴史

知多半島、渥美半島、西尾市一帯等の三河湾に面した地域から製塩土器と呼ばれる器が発掘されます。
しかも非常に多くの場所からたくさん出てきます。
------------------------------------------------------------------

記録された塩の産地

流通した生産物としての塩が記録に残っているのは平城京で発掘される木簡が最初。
木簡とは紙が貴重品だった時代に短冊状の木に文字を記録したものです。
奈良で発掘される木簡に愛知県の地名が残るものがあります。

これは税として地域の特産品(調)を中央に納入したときに 塩の荷に付けられて愛知県から運ばれたものです。
当時の首都平城京で消費された塩の中には愛知県産の塩があったことを示します。
愛知県だけではなく西日本を中心として各地の地名が塩の産地として記録されている。
中でも若狭湾の地名が残る木簡は多いのですが、愛知県も尾張と三河を合わせた数はそれに続きます。


5 :日本@名無史さん:2006/10/15(日) 15:37:31
ttp://www.jti.co.jp/Culture/museum/sio/japan/mosioyaki.html

藻塩焼き

私たちの遠い祖先は、どんな方法で海水から塩を採っていたのでしょう。
もっとも原始的な方法としては、焼いた海藻の灰(灰塩)そのものを使用したと考えられます。
次に、灰塩(はいじお)に海水をまぜて濃い塩水(かん水)を採り、
これを煮つめて塩を作るようになりました。さらに、干した海藻に付着した塩分を海水で洗い出してかん水を採り、
これを土器で煮つめて塩をつくる、いわゆる藻塩焼き(もしおやき)の製塩法へと発達しました。
この製塩用の土器は、弥生・古墳時代を中心に、九州から東北まで、全国各地の海岸部で数多く出土し、
当時の製塩をうかがい知ることができます。

----------------------------------------------------

注:上のサイトによると、九州の製塩土器は、古墳時代にならないと出土しない。
弥生中期から製塩が盛んだったのは、近畿である。


6 :日本@名無史さん:2006/10/15(日) 15:47:59
ttp://www.shiojigyo.com/en/backnumber/0402/main4.cfm

塩鉄論

古代中国では秦の始皇帝が全国を統一し、春秋・戦国時代を終わらせ政治体制を確立した。
その政権を倒した漢王朝(前漢)の第7代皇帝の武帝は、
さらに領土拡大を図り、東は朝鮮、西南は四川南部から雲南、南は福建、
広東まで外征を行ったが、特に力を入れたのは北の匈奴征服であった。
その戦費調達政策の一つが塩と鉄の専売制であった。


----------------------------------------------------

論考:塩と鉄は、共に貴重品であり、相互に交換可能な商品だった可能性がある。

7 :日本@名無史さん:2006/10/15(日) 15:59:19
ここまでの考察。

古代では、製塩技術は製鉄技術に並ぶ重要な産業だった。
塩は、保存食を作るためにも利用される。

弥生時代の日本で製塩技術が生まれたのは近畿であった。
塩は交易品として貨幣価値を持っていただろう。
一方、九州では、製塩技術が遅れていた。
近畿から塩を輸入していたという傍証であろう。
九州は、塩を朝鮮半島に売って、鉄を買い付けていた可能性がある。
そして、近畿もまた九州から塩と交換に鉄を買い付けることが出来ただろう。

それとは別に、越では、200年前後から製鉄が盛んに行なわれていた。
おそらく、渡来人からの製鉄技術の伝播であろう。
畿内を取り巻く地域では、鉄・塩といった重要な産業の地盤が形勢されつつあった。




8 :日本@名無史さん:2006/10/15(日) 16:02:51
中卒ヒッキーさん!悪いがこの自作スレで、君は何したいの?
ニート魂に火を付けて、皆さんから大絶賛でも受けたいのか?
無理だろうけど・・・・・・
これから馬鹿丸出しで何十年も過ごすなら、
3年間中学行きなおしても、遅くないと思うぜ!
まっ忠告だよ・・・・・



9 :日本@名無史さん:2006/10/15(日) 16:17:41
土器の拡散についての仮説。

製塩が盛んだった東海地方では、
塩漬にした保存食が発明されていただろう。
そうした食品を土器に入れて、交易品として東日本に拡散させたのではないか?
こうして、弥生時代の東海で富が蓄積され、人口増加につながったのだろう。

やがて、塩は畿内に集められるようになった。
庄内式土器の九州への拡散は、塩・塩漬食品の交易を、九州を相手に始めたからではないだろうか?
畿内は、見返りとして鉄を入手していただろう。

ある時期を境に、塩の重要度が九州で高まり、「鉄よりも塩」という要求の高まりが、
九州と畿内の交易のパワーバランスを逆転させたのではないだろうか?


10 :日本@名無史さん:2006/10/15(日) 16:18:55
>>8

反論があれば、具体的データを伴って行なうこと。

11 :日本@名無史さん:2006/10/15(日) 21:12:35
>>10
データって?

12 :日本@名無史さん:2006/10/15(日) 21:40:59
横レス失礼。
反論というか、>>9への疑問点を提出したいんだけど、いいかな。

>>9
    >製塩が盛んだった東海地方では……(中略)……
    >弥生時代の東海で富が蓄積……(中略)……
    >庄内式土器の……(中略)……
    >ある時期を境に、塩の重要度が九州で高まり……(後略)……

しかし、引用されているページを読むかぎり、どうも「東海が、瀬戸内や大阪湾岸に先んじての塩生産の拠点であった」という主張は、ちとムリではなかろうか。
http://www.geocities.jp/shimizuke1955/304salt2.html

「ある時期」とは、具体的にはいつ頃と考えておられるのか。スレタイにある「畿内王権の成立」その直前、ということか?
それと、師楽式のこと(=吉備)についても、>>9氏の評価を聞いてみたい。

塩が貨幣であった、というのは、君のいう通りだろうと思うよ。ただ「海岸部vs内陸」という観点も必要だろうと思う。
でも、とてもいいページを紹介してくれたね。勉強になったよ。

13 :日本@名無史さん:2006/10/15(日) 22:46:35
>弥生時代の日本で製塩技術が生まれたのは近畿であった.

どう見ても、備讃瀬戸で始まっているのだが。

14 :日本@名無史さん:2006/10/15(日) 23:00:21
>>12-13

製塩が開始されたのは、瀬戸内というのは、考古学そうだろうと思う。
その後、塩の有益性が東海で注目され、東海で製塩が盛んになり、
東海土器の拡散につながった、という意味だよ。

それよりも、製塩技術が朝鮮半島から伝来したものなら、
どうして九州で早くから始まらなかったのか不思議じゃないか?
瀬戸内で、独自に開発されたんじゃないかと思うけどね。



15 :日本@名無史さん:2006/10/15(日) 23:12:24
>>12
>「ある時期」とは、具体的にはいつ頃と考えておられるのか。スレタイにある「畿内王権の成立」その直前、ということか?

もちろん、畿内王権成立直前だと思う。
九州では、鉄器によって農地を開拓、穀物生産力を高めたろう。
しかし、保存できる食料は穀物か、乾燥できるものだけ。
塩漬けの保存食の発明というのは、画期的だったと思う。

九州で、鉄器が普及したあとは、食料の保存のために塩が大量に必要になったろう。
そのとき、貿易相手の比重が朝鮮半島から近畿に移ったと考えられる。
九州にとっては、塩が途絶えると、保存食が作れなくなるので、
近畿からの塩の確保は、死活問題に発展したはず。
こうして、九州と近畿の立場は逆転したのだと考えられる。






16 :日本@名無史さん:2006/10/15(日) 23:22:39
ttp://www.migikata.net/kanji_saijiki/200405/a/a_20040526.html

もとは魚や貝に塩、米飯を混ぜて3カ月から1年間、自然に乳酸発酵させた保存食品のことで、
なれずし(「馴ずし」または「熟ずし」)と呼ばれるものである。
「鮓」の字は厳密にはこの保存食品のことを指し、「鮨」の字はもとは魚の塩辛のことであった。
なれずしは東南アジアで始まった魚の保存法が稲作とともに日本に伝えられたと考えられていて、
奈良時代の文献に「鮓」の字がすでに見える。現在では「近江[おうみ]の鮒[ふな]鮨」が有名である。

---------------------------------------------------------------

ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%82%8C%E3%81%9A%E3%81%97

熟寿司(なれずし)は、主に川魚を塩と米飯で発酵させた保存食品。
寿司の原型ともいわれる。 冷蔵庫などなかった古代に動物性タンパク質を保存するための知恵として生まれた。
熟寿司は照葉樹林文化を構成する食品と考えられている。中国雲南省南部のシップソーンパーンナー(西双版納)のような
少数民族地域やタイ王国東北部では今もなれずしが作られ、市場でも売られている。
この地域には納豆のような発酵食品も存在する。

今日でも日本各地には古い形のなれずしが郷土料理として残っている。
滋賀県守山市や野洲市などの琵琶湖周辺では鮒寿司、鮎寿司、ハス寿司や
オイカワを使ったちんま寿司が作られ、名物となっている。 
こと鮒寿司に関しては、1年数ヶ月から2年かけて作る本格的なもので、
現在は非常に高価な高級食品となった。和歌山県のサンマのなれずし、
岐阜県のアユのなれずしも有名。
日本海側にもアジなどを使ったなれずしが多く、石川県には冬の寒さを利用して
徐々に熟成させるかぶらとブリを使ったかぶら寿司もある。
また米麹を用いたものには、北海道・東北の飯寿司や秋田県のハタハタ寿司がある。

---------------------------------------------------------------
注:塩が必要な、「なれずし」の伝統は、九州よりも近畿の特産と言える。

17 :日本@名無史さん:2006/10/15(日) 23:34:12
>>15
  >もちろん、畿内王権成立直前だと思う。

もう少し具体的に。
庄内期? それ以前?(畿内X様式前葉?後葉? あるいはW?)
それとも布留期に入ってから?

18 :日本@名無史さん:2006/10/15(日) 23:38:39
九州と近畿の食料事情についての考察。

九州では、鉄器によって農地が開拓され、穀物の備蓄が出来た。
しかし、タンパク質の保存は出来なかった。

一方、畿内では、鉄器が無いため、石器による農地の開拓という限界があったが、
製塩技術によって、塩が確保され、タンパク質の保存が可能になった。

おそらく、食料事情は、弥生時代から近畿の方が上だったとも言えなくも無いのではないか?
事実、人口密度は九州より近畿の方が多かった。



19 :日本@名無史さん:2006/10/15(日) 23:40:27
>>17

庄内期は、ひとつのピークで、それ以前から九州は近畿の塩を欲していたんじゃないかな?
土器の移動がそれを裏付けていると思う。
やはり、土器の中身は、「塩による保存食」だったと思う。


20 :日本@名無史さん:2006/10/15(日) 23:44:39
弥生時代の人口と人口密度

ttp://members.at.infoseek.co.jp/Accord/BIGLOBE/KOYAMA/nip18766.htm

東北 33400(0.50)
関東 99000(3.09)
北陸 20700(0.83)
中部 84200(2.81)
東海 55300(3.95)
近畿 108300(3.38)
中国 58800(1.84)
四国 30100(1.58)
九州 105100(2.50)
-------------------
全国 594900(2.02)

注 ( )内は1平方キロあたりの人口密度


21 :日本@名無史さん:2006/10/15(日) 23:51:27
現在じゃ塩の無い生活なんて考えられないが、古墳時代以前の九州じゃ、
塩ってのは一部の富裕層が吉備や四国から買って食べてたものなんだな。
一般庶民は、家畜の血とかから摂取か。

鉄に着目して、一時期九州の優位性をやたらと説く連中が多かったが、
実際問題、鉄の多寡に留意し過ぎていた嫌いがある。
鉄=国力じゃない。あたり前の話だが。
塩はその一例となるんだろう。

22 :日本@名無史さん:2006/10/15(日) 23:54:01
>>20

弥生時代の関東の人口と九州の人口は肉薄してる。
人口密度は東海が一番多い。

鉄器の有無が、食糧事情にどれほど影響していたのか?
本当に鉄器の多さが王権成立に必要条件だったのか?
疑わしくなるね。

23 :日本@名無史さん:2006/10/16(月) 00:41:55
>>9
なかなかいい考察だと思いますが、

>ある時期を境に、塩の重要度が九州で高まり

の説明がよく分かりません。
具体的にどのような事態を想定されているのでしょうか。

24 :日本@名無史さん:2006/10/16(月) 02:39:54
九州は別に畿内からじゃ無くて、備讃岐瀬戸や芸予諸島から塩を輸入すればいい。
特に芸予諸島のある西部瀬戸内は弥生後期から九州との関係が深い。
また西部瀬戸内からの搬入土器(壷類)はよく見られ、あるいは塩を詰めて運んで来たものもあるかもしれない。
また古墳時代初めに九州に移植される土器製塩は形式的に畿内ではなく西部から中部瀬戸内のもの。
したがってここまでの議論は却下。

25 :日本@名無史さん:2006/10/16(月) 07:31:54
>>23

穀物、農作物は、日照りや川の氾濫、台風などの天災ですべて失われるリスクがあります。
一方、壷に詰めた塩漬保存食は、天災による被害というリスクが少ない。

九州は台風の通り道で、常に天災にあう危険があります。
人口が増えれば、十分な食料を確保しなければなりません。
食料不足になると、暴動や戦乱が起こり、クニは乱れ、王権の基盤が揺らぐでしょう。
鉄をいくら持っていても、飢餓は回避できません。

近畿の場合、鉄がなくても食料に不安がなければクニは安定し、王権の基盤は強固になるでしょう。

26 :日本@名無史さん:2006/10/16(月) 07:42:30
>>24
>九州は別に畿内からじゃ無くて、備讃岐瀬戸や芸予諸島から塩を輸入すればいい。

それで結構です。
いままでの論旨は、以下の通り。

1、九州では塩が不足しており、保存食を作り難かった。クニは常に不安定で戦乱が繰り返された。
2、近畿では塩が生産され、保存食を備蓄し、クニが安定した。王権の基盤が強固になった。
3、九州は、大量の塩を瀬戸内以東から求めるようになる。
4、九州は、鉄の優位性を失い、塩を中心とした近畿の交易圏に取り込まれてしまった。
5、その時期は、九州に近畿の搬入土器が増え出す頃。土器の中身は主に塩漬け保存食。

27 :日本@名無史さん:2006/10/16(月) 15:27:18
ttp://homepage2.nifty.com/adema/history.html

日本の時代区分でいうと弥生時代。
中国では、後漢末から三国時代へ移行していく頃。
この頃の東アジアは、気候が寒冷化し、小氷河期と呼べるほどでした。
そのため、農業は、大打撃を被り、大飢饉となりました。
中国では、後漢の終末前、人口が増加し、5000万人ほどに膨れ上がりましたが、
この寒冷化に伴ない、わずかの間におよそ10分の1の500万人ほどに激減します。

-------------------------------------------------------------

考察:弥生時代の終わり頃、アジアでは小氷河期の影響で農業が打撃を受けていた。
一方、塩漬けによる保存食は、寒冷地ほど適している。
こうした状況から、九州でも農業が打撃を受けたと考えられる。
近畿では、保存食によって、飢餓を乗り越えられたであろう。

飢饉に陥った九州がどこから食料を調達するか?
九州より寒い朝鮮半島より、近畿から食料を求めようとしたことはありうる。




28 :日本@名無史さん:2006/10/16(月) 15:32:14
ttp://www.yu-ji.com/kouchi.htm

主に弥生時代に高台に設けられた集落を高地性集落と呼ぶ。
高地性集落は低地を見下ろし、また、近辺の高地性集落の見える位置に作られていることが多い。
したがって、眼下の情勢を見張るだけでなく、連絡にも便利なようにできている。
高地性集落にはその最高地点に焼け土の跡が発見されているが、これはノロシ台であると考えられている。
瀬戸内海沿岸地域の高地性集落を使って北九州から大阪平野までノロシを使った実験をした結果、
わずか数時間で伝達できることが判明した。

弥生中期にあたる第V期から防衛的な高地性集落が多くなるり、
第W期においては北九州を起源地とする中細形銅剣と銅戈、
次の時代の平形銅剣や銅戈の分布地域(銅剣・銅戈・銅矛参照)と不可分な関係にあること、
さらに第X期においては前後二回その出現期があるが、
周防から安芸にかけての地域と、大阪湾岸から紀伊水道の東岸にかけての地に多く出現しており、
動乱の発生地域が瀬戸内から畿内を経て紀伊水道の東岸の地域に局限されていたことをあらわしている。

--------------------------------------------------------------------

考察:九州勢力の一部による、瀬戸内〜畿内への侵攻の目的は、食料の奪取であったろう。



29 :日本@名無史さん:2006/10/16(月) 20:40:51
>>28
九州勢力の侵攻って、何か根拠があるの?
九州勢力が海賊行為をした位の意味なんだったら、別に構わないが。

高地性集落は単に政治的混乱があったと見るべきで、
戦国時代に山城が多く造られた、と同じ解釈でいいと思います。

30 :日本@名無史さん:2006/10/16(月) 21:05:25
>>29

>九州勢力が海賊行為をした位の意味なんだったら、別に構わないが。

それで構わない。
古代では、「国家と盗賊」、「漁師と海賊」の区別は無かっただろうしな。


31 :日本@名無史さん:2006/10/16(月) 21:08:54
>>29

>高地性集落は単に政治的混乱があったと見るべきで、

古代で「政治的混乱」の原因はなんだと思いますか?
やはり、キーワードは食料でしょう。

クニの中で食料が枯渇すれば、他のクニの倉を襲いにいく、
これが、戦乱の原因であるはずです。



32 :日本@名無史さん:2006/10/16(月) 21:15:12
高地性集落にノロシの跡が見られるということは、
瀬戸内〜畿内が、共同で防衛に協力したということを示している。
いかにも、クニ同士が「連合」を始めたような様相に見える。

強い敵と対峙するとき、弱い国は連合する、というのが歴史の証明するところでしょう。
ノロシを最後に受け取るクニが、「敵が来たらノロシを上げるように」と、指揮をしていた可能性があるでしょう。
高地性集落の東端が、畿内ということは、
つまり、畿内にリーダーが存在したという傍証になるわけです。


33 :日本@名無史さん:2006/10/16(月) 21:32:07
弥生時代の後期に、瀬戸内〜畿内にノロシという情報伝達手段を配備したリーダーが畿内にいた。
九州方面の海賊からの防衛という目的で、クニの連合という意識が芽生えはじめていた。
ここまでは、おそらく異論の無いところだと思われます。
奈良盆地というのは、防衛に関して、天然の要害だったでしょう。

しかし、一方で、鉄器に関しては、弥生後期に、播磨あたりまではかなりの出土がありますが、
畿内となると、ぐんと少なくなるという考古学上の事実もあります。
播磨まで伝播された鉄が、畿内にまで到達しなかったのは何故でしょうか?

1、単純に畿内は遅れた地域だった。
2、畿内にも鉄があったが、溶けた。
3、鉄器産業は播磨に任せ、畿内では鉄の過不足が無かった。(畿内は開拓途上だった?)

瀬戸内〜畿内の、高地性集落というまとまりを考えると、3のような気がします。



34 :日本@名無史さん:2006/10/16(月) 21:36:46
>>32
狼煙についても、それで畿内までリレーしたかどうかは分からない。

倭国全体を巻き込むような流通体制の再編成は庄内以降に
起きたと見るべきでは?

そもそも弥生後期に瀬戸内・畿内が連合していたという証拠が見当たらない。
むしろ、各地域毎に、独立独歩であったと思われますが。

35 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 09:44:25
クニとクニが連合するといっても、
まず信頼関係がなくてはいけません。
ある日突然、連合しましょうと呼びかけて連合することはありえない。

連合といっても、古代では契約書も違反した場合の罰則規定も裁判所も無い。
すべて、首長同士の信頼関係に依存した上での連合しか起こりえないと考えるべきでしょう。
もちろん、武力で制圧したという証拠もありません。

首長同士が、まず信頼関係を作り、子供や孫の代で、相手国と婚姻関係を結ぶなどして、
クニ同士が兄弟関係になるということを考えれば、明らかに連合したという状況になる前に、
50〜100年の熟成期間を考える必要があるでしょう。

>>34
>倭国全体を巻き込むような流通体制の再編成は庄内以降に

庄内開始より、50〜100年前から、瀬戸内・畿内の首長同士の結びつきが深まっていったと、
考えられるのではないでしょうか?
それは、高地性集落の形成時期とよく一致すると思われます。


36 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 09:54:22
水争いで戦争になったり、同盟関係が出来たりして、小さな集落が国へと成長していったと思う。

37 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 21:08:45
弥生後期に畿内王権の萌芽を見るのは、福永とかも言ってたが。
見る銅鐸を共通のレガリアとする首長連合が生まれていたと。
この連合を促したものとして、遠隔地交易の重要性が増したためとする。
弥生後期は吉備、出雲、筑紫と各地でパラレルに首長連合が誕生していたようで、
あえて畿内のみを切り離して考える必要はない。
同じような連合化の流れが畿内でも起きた、でいいのではないかと思う。


38 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 21:30:40
高地性集落を単純に九州の脅威と見るのは、反対。
しかし天候不順による食糧不足が戦乱をもたらしたのはそうだろう。
弥生後期初めに、全国的に集落の消滅など大幅な人口減の現象が見られるが、
それも同じ文脈で語れるかもしれない。

39 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 21:39:41
>>3
鉄はともかく、金銀銅って実用価値あるの?


40 :月光仮面:2006/10/18(水) 12:59:00
高地性集落はバルカン、夏王朝時代のアルタイ、百済等にも類型はあるし、山戎という
のもそうしたものであった可能性もあり、環濠集落のような社会制度的な感じがする。
畿内政権成立の時代背景ではあろうが、直接原因とは言いにくいだろう。青銅祭祀器具、
原料の入手経路を考えると204年に倭・韓が公孫に属する、つまり、金印による後漢ルート
から画文帯神獣鏡を初めとする鏡製品ルートに切り替えを余儀なくされたこと、これにより
近畿・東海の銅鐸圏に新体制を樹立する必要に迫られたこと、そしてそのために楽浪から
積石古墳とセットになった渡来民が流入することになったことが直接の建国の動機だろう。

41 :月光仮面:2006/10/18(水) 13:06:39
日向の神武が拓いたとされるヤマト国、邪馬台国、は沖ノ島のショートカットもあり、
九州海幸というか、伊都国奴国政権を庄内並行文化で制圧した。これは一筋縄では
いかず、海幸・安曇海人族ネットワークの出雲は銅鐸原料のルート販売商権もあり、
強烈に反対し、倭国全域に大きな緊張が走り、高地性集落もこうした中で大きく変動
したということはあろう。

42 :月光仮面:2006/10/18(水) 13:12:08
ホケノヤマ、鳴門萩原はいわゆる忌部、シャーマンであり、初期の卑弥呼政権では
相当活躍をしたことだろうが、結果的には鏡作り程度に落ち着いたのではと言う感じ
がする。天皇と言うのは山辺の道の名の通り、山林のオーナー、つまり、昔からの
地主のようなステータスを持つものではなかっただろうか。

43 :月光仮面:2006/10/18(水) 13:44:22
しかし、吉備を中心とする倭国乱、孝霊の伯耆遠征などは出雲が馬韓月支国を
呼び込み天孫と対立しようとしたのではないかと思われます。荒神谷・加茂岩倉
その他の秘匿青銅器は国家転覆計画の証拠だと思うんですがね。

44 :月光仮面:2006/10/18(水) 14:19:23
三雲・岡本須玖政権というか、唐津・博多政権に対して天孫・山幸が上位に立ち、
東方葛城方面との連携を確立するのは倭面土国帥升の安帝訪問があると思う。
つまり、倭面土国帥升は倭委奴国とは別であり、天孫・ニニギ系であろう。これは
古い渡来系または縄文系が古い渡来系文化を吸収し、霧島連山(日向(東方では
なく南方)高千穂)周辺山岳地帯に跋扈していたのではなかろうか。倭面土国とは
豊前・周防・安芸方面に多い大元、御許という神社・地名と関係があると見ている。

45 :月光仮面:2006/10/18(水) 14:28:56
山幸がシオツチ(塩釜神社系の東北日本海側)から受ける井戸のあるところに行き、
葛城に登れという指示は中心に井戸の出土した池上曽根遺跡・葛城山のことであろう。
塩に沿ってということは対馬海流で隠岐・丹後経由、あと南下せよということか。

46 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 16:10:49
>>40-45

純粋に畿内王権の成立のみを扱いたいので、
邪馬台国や魏志倭人伝や神武など記紀ネタは厳禁です。
語りたい人は別スレへ移動してください。



47 :サガミハラハラ:2006/10/18(水) 16:19:18
神武など記紀ネタを禁止されては畿内王権の成立の論議はできないのではないでしょうか?

48 :太国:2006/10/18(水) 16:21:44
>>1 >>46
記紀ネタが駄目だとか、どうかしてるぞ?w
目的地の畿内湾へ行くのに、「船のチャートを無しに航行しろ。」と言って
るのと似たようなもんで、これでは到着地があさっての方向に行くのは固い無謀
この上もない、たわけた奴だ。論じても効果全く0さ。ww

49 :月光仮面:2006/10/18(水) 16:25:31
記紀は日本人の先祖が作った世界で最も古い科学的歴史書だと思う。
銅鐸時代以降に限定していると言う点だけでも優れものだ。

50 :太国:2006/10/18(水) 16:30:02
>>49
山片蟠桃と対照的ですな。w

51 :月光仮面:2006/10/18(水) 17:01:24
秋刀魚で言えば腹の部分がいいんですね。

52 :月光仮面:2006/10/18(水) 17:10:18
記紀には何とか宗教史観、何とか主義史観と言うのが全くなく真実のみを
一書、一書で全ての異説を書き尽くしている。この態度が極めて科学的ですね。
天皇ですらなんとも思っていない。それでいて一応天皇の監修は受けているんだ
もんなー。

53 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 18:25:42
>>47-52
ゴミ屑どもは、こっちへ逝け

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1160799871/

54 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 18:28:45
月光仮面は鹿島昇ですか?

55 :サガミハラハラ:2006/10/18(水) 18:38:55
>>53
あなたは、畿内王権の成立は記紀の記述とは無関係とお考えですか。
して、その根拠は?

56 :太国:2006/10/18(水) 20:22:01
だから、奴は記紀とかがあったりすると自分の研究を語るのに何かと煙ったい訳
なんさ。自由に自分が言いたいことを言わんがため、こんなスレを作ったんだろ
うがね? つまり自分のに於いて、突かれる面倒なことを回避するアタマさ。w

57 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 20:45:18
>>1が読めないのか。わざわざ別スレ立ててまで棲み分けしてるんだからさ。
わざわざ出張して来なくていいだろ。
きみたちにはきみたちに相応しい妄想スレがあるだろw

58 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 20:47:07
>>55-56

「棲み分け」を100万回唱えてみろ。

59 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 20:51:35
古代史を語る上で、最低限の考古学知識は身に付けてもらいたい。
話はそれからだ。
文献の重要性は認めるが、あくまで古代においては考古学>文献。
同時代に書かれた資料が倭人伝しかない状況で、文献>考古学とか言ってる奴は馬鹿。

60 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 21:10:32
>>56

面倒だから反論しない。

「ああ、その通りだよ。おまえは正しい。
だから他のスレで自説を展開しろ。ついでに詞ね。」

61 :太国:2006/10/18(水) 21:47:54
>>59
逆だよ。w 文献のほうが重要だ。

62 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 21:54:00
>>61

面倒だから反論しない。

「ああ、その通りだよ。おまえは正しい。
だから他のスレで自説を展開しろ。ついでに詞ね。」


63 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 22:21:12
どちらも大事だよ
文献 =状況的証拠(目撃証言)
考古学=物的証拠
勿論、3大要素の自白は無いので完全決着は無理だが

64 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 22:40:30
文献を重視すればこうなる。

1、高地性集落=倭国大乱の跡

2、倭国大乱を収束させた卑弥呼を女王とする邪馬台国連合=九州から畿内を含めた連合国

1+2より、卑弥呼以降の九州勢力の畿内侵攻はありえない。

よって、答えは次の2通り。

A.邪馬台国=畿内→後の大和朝廷
B.邪馬台国=九州→後に大和朝廷に滅ぼされる

よって、邪馬台国東遷説を唱えるやつは、すべてバカ。

65 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 22:45:08
邪馬台国東遷説なんて主張する奴、今時、アホの安本しかいないだろ。

66 :サガミハラハラ:2006/10/19(木) 16:41:31
私も東遷はなかったと思います。しかし九州勢力の東征はあったと思います。
遷都とは、その国の政治中枢機能がそっくりうつるということですが、確かにある時期から奈良県では九州の影響が強くなりますが、その政権は九州を支配していたとはみられないからです。
となると、九州の一部勢力が畿内に入り、はじめは大和盆地南部の片隅に橋頭堡を築き、次第に勢力をひろげていったのではと考えられます。

67 :サガミハラハラ:2006/10/19(木) 17:01:16
その新勢力は九州の勢力とは断絶状態です。

68 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 17:37:03
東遷という言葉を良く使うのだけど、安本氏の東遷にはちょっと無理があるかな。
織田信長が羽柴秀吉あるいは柴田勝家を派遣したように、武将の派遣と
いうのを考えても良いと思う。
高天原の天照大神や高皇産霊尊が天菩比神や天若日子あるいは
建御雷之男神を出雲に派遣したように、記紀にもそういうのが良く登場する。
崇神天皇の四道将軍派遣と言うのもある。

また、安本氏の東遷説では、日向の説明がうまくできないのではないかと思う。

>>66 >>67

九州と断絶では、大陸や朝鮮半島との交通に支障があるでしょう。
また、記紀を読む限り、断絶状態は見られません。
景行天皇や神功皇后は何の支障もなく九州に来ているわけですし。

九州と畿内は熊襲を除き良好な関係だったと考えられます。


69 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 18:26:19
九州と畿内に断絶が無ければ、
邪馬台国=大和と考えるしかない。

いいかげん、眼を覚ませアホウども。


70 :サガミハラハラ:2006/10/19(木) 18:42:50
このレスは畿内王権成立の前後です。
景行天皇や神功皇后の時代はとっくの昔に王権は確立しています。

71 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 19:13:02
>>66
ある時期から奈良県で九州の影響が強くなる、って具体的に何を指して言ってるの?

72 :サガミハラハラ:2006/10/19(木) 19:14:19
考古遺物です。

73 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 19:15:59
>>72

どんな考古遺物だよ?

74 :サガミハラハラ:2006/10/19(木) 19:23:34
邪馬台国畿内説の学者さんがいっている遺物です。

75 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 19:40:56
もしかしてホケノのこと?

76 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 19:45:45
>>74

ねえよ。

77 :サガミハラハラ:2006/10/19(木) 21:25:18
>>74は邪馬台国東遷説の学者さんの間違いでした。


78 :サガミハラハラ:2006/10/19(木) 21:28:56
すみません。また間違えました。頭を冷やしてでなおします。

79 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 22:10:29
九州勢力東遷説の人たちは、やたらと九州の影響を強調するからな。
正確には、

九州の影響も一部見られる。

九州の東遷→初期ヤマト政権という単純な征服史観が
未だに蔓延っているが、5〜6世紀に生まれた神武東征伝承に、
引きずられ過ぎ。
科学的じゃないよ。

80 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 22:46:38
九州の影響もあるだろうが、吉備や東海の影響の方がでかい。

81 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 23:45:31
九州の影響として考えられるのは、

弥生時代から九州で見られる鏡、剣などの副葬品が畿内では古墳時代から
見られる。
弥生時代の畿内の墓は方形周溝墓だったが、副葬品は見られない。

棺の内部を朱で塗る九州地方の習慣も古墳時代から畿内で見られる。

記紀では、九州中心に分布する矛や鏡が頻繁に登場するが、
畿内中心の銅鐸は全く登場しない。

銅鐸文化の消滅。

奈良盆地の弥生遺跡、唐子・鍵遺跡と纏向遺跡に連続性が見られない。

要するに弥生時代の畿内と古墳時代の畿内に連続性は見られず、
弥生時代の九州と古墳時代の畿内に連続性が見られるということかな。

82 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 23:58:34
>>81
こういう九州中心、九州優位説が、永らく言われていたんだよな。

83 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 23:59:55
初心者的には
吉備や九州、出雲や丹波てのははわかるけど
東海の影響ってのがどうも
わかるようでわからないです

84 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 00:28:59
>>83
確かに俺にも分からんが、多分マキムクの立地によるんだろうな。
地形的に言って、海路より陸路に目が向いてる。
唐古鍵もそうだけど。

一時期、前方後円墳vs前方後方墳の仮説が提示され、畿内=邪馬台国、
東海=狗奴国の図式が提示されたことがあったが、
そんな単純な対立関係があったかは疑問が持たれ始めている。
畿内に前方後方墳があることからも。
前方後方墳も、前方後円墳と同じ「思想」で築造されたものではないか?

マキムクの搬入土器の大半を占める東海が、畿内王権とそこまで深刻にラディカルに
対立していたとは考え難い。同じ銅鐸文化圏だし、弥生時代からの旧い付き合い、
腐れ縁だからな。
対立の時期も無かったことはないだろうけど、基本的には友好関係が保たれ、
最終的に一つの国になったのだろう。

85 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 07:52:54
大和王権の祭祀の中枢だった、箸墓、大神神社、石上神社などが、
奈良盆地の東側の丘陵沿いにある。
山を越えれば伊勢があり、大和から出土する土器全体の1割は東海系(伊勢)土器。

九州の影響を見ることは逆立ちしても出来ない。





86 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 02:15:25
>>46 >>57-58 >>60 >>62

この思考停止っぷりはなんだ


87 :月光仮面:2006/10/21(土) 07:47:14
同じことを何時までも言うなよというご批判のようだが、何とか党みたいに批判だけで
中身、対案がないのは議員失格だよなー(xxhh

>>85 箸墓は古墳初期、三輪神社は鎌倉時代、石上神社は弥生以前の上にできている。
神武紀ではこの辺をしきりに攻撃、女性酋長を殺したりしている。石上神社は上流に滝
があり、女性酋長がいてもおかしくはない。が、九州の影響は三輪神社でも全く残らない。
しかし、纒向からは九州を含めた全国からの搬入土器が出土する。搬入の中でもっとも
多いのはご指摘の通り東海であり、纒向時代に九州の侵入があったとはいえない。

纒向に先行する唐古・鍵遺跡にそうした痕跡もなく、従って神武紀というのは考古学的
立証が極めてしにくいものとはいえる。だからと言ってこのストーリーを捨て去ることは
できるだろうか。他方では纒向建設の動機もわからない。

神武紀の大和部分は奈良盆地東部の葛城方面の部族が古くからもっていた伝承と
東海の豪族と協力して纒向に九州系文化を導入しようとした磯城の豪族の話と言うこと
かなーとも考える。


88 :月光仮面:2006/10/21(土) 08:01:08
橋本さんの資料を見ると盆地農民は纒向建設が開始されると農業を捨てて東部に
集結している。つまりこれは山之辺の道筋を中心とする都市化が始まったのだろう。
なんだか江戸の建設が思い出される。加美・久宝寺方面が経済とすれば、纒向は
Washington DCといった機能だったのかなー。

89 :月光仮面:2006/10/21(土) 08:04:36
磯城、旧唐古・鍵の豪族の打算は河内の上位にたつことのできる政治的中心の導入
と言うことで、長髄彦に象徴される勢力の失脚を狙ったのかもしれない。

90 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 08:06:30
>>87

>東海の豪族と協力して纒向に九州系文化を導入しようとした磯城の豪族の話

纒向に九州系文化などありません。


91 :月光仮面:2006/10/21(土) 08:10:07
こう考えると、神武色のするのは周防灘の供献土器、画文帯神獣鏡を持つ
ホケノヤマである。鳴門萩原の画文帯神獣鏡も神武船団の一部かもしれない。
日本版アルゴノートというのか。

92 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 08:17:27
画文帯神獣鏡は、九州のどことどこから出土したか言ってみ。


93 :月光仮面:2006/10/21(土) 08:37:56
九州からは出土していないと思う。が、だからと言って神武とか、ホケノヤマが日向
出身者ではないとも、であるともいえない。ホケノヤマを纒向に搬送した移動母体
は瀬戸内海を東進した九州指導者を含む集団であったのだろう。大和のシイネツヒコ
が豊後水道で神武を迎えるのは歴史的事実であったのかもしれない。

橋本さんは纒向から、楽浪土器ではなかったとおもうが、なんか半島の土器も出土
すると書いておられた記憶があるんだが。

94 :月光仮面:2006/10/21(土) 09:06:05
オオヤマト地域における九州と東海の対立は戦闘的なものではなく政治的・文化的
なものであったのであろう。孝昭辺りは后が尾張だし、葛城に高尾張などの地名もあり、
前方後方墳としてはマバカ古墳などが有名。尾張においても前方後円墳と前方後方墳
は両立したまま推移する。ただし、S字甕集団、銅鐸系文化、イセツヒコ等は東方に向
かう。一方、タケハニヤス、クガミミノツカサ等の反乱もある。狗奴国もこうした背景で
理解すべきものと思う。

95 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 09:21:35
画文帯神獣鏡は九州からも出土している。
どこかのホームページで見ただけなので若干不安ではあるが、
完形鏡が24面ほど。破鏡が11枚くらいかな。
たとえば、宮崎県の持田古墳群。
http://www.miyazaki-archive.jp/d-museum/unit/hakubutsu/kou/k0043/index.html

96 :月光仮面:2006/10/21(土) 09:22:20
安易な東遷論というのはありえないのはわかるが、瀬戸内海東部に楽浪方面に
起源を持つと見られる古墳文化が始まるきっかけは何であったか、これが九州の
プッシュであったか、大和のプルであったかという大事な問題がある。この点
神武紀の言うようにシイネツヒコが日向灘まで出迎え、明石海峡の警備を解いて
入れていると言う記述は大和のプルであったということを物語り、更には神武という
ヒーローさへも元からあった大和盆地のヒーローの書き換えの感じがしないでも
ない。しかし、ホケノヤマ等には西方から来たという痕跡は見られる。

97 :月光仮面:2006/10/21(土) 09:23:56
>>95
ありそうなところにはあるもんだという気がした。ずばり予想的中だ。

98 :月光仮面:2006/10/21(土) 09:43:46
池上曽根・加美・久宝寺地域vs唐古・鍵地域において首都誘致合戦が始まり、
取り残され支配される危機を感じた東海、越、大和勢力が九州と積極的に組み、
河内首都による倭国支配を妨げること、つまり最大の敵は河内ではなかったの
と言う感じがする。あるいは、河内がそういう段階に達したため足を引っ張られた
と言うのが日本建国の動機だったのかもしれない。

99 :月光仮面:2006/10/21(土) 10:31:35
大和勢に敗北した河内政権、長髄彦、ウマシマジ等の亡命先として東北説が
よく言われるが、逆にありえるのは平家同様西国を目指し、奴国に庄内土器と
共に入ったということだ。東国は邪馬台国の勢力が福島県位まで到達していた
可能性がある。
しかしこの仮説を立証するためには筑前において発見される庄内式土器が
河内のものであり、大和のものではないといった考古学的事実が必要だが。
外れたら御免。少々言い過ぎたが、これくらいが2CHのいいところ。

100 :月光仮面:2006/10/21(土) 10:39:09
そして亡命政権の担ぎ上げたのが平原の女王。ところが、何らかの邪馬台国の
巻き返しを受け、王権は大和に移される。・・・これくらいのことは考えられるね。

101 :月光仮面:2006/10/21(土) 10:46:08
この筑前物部というか、旧長髄彦集団は神功皇后の時代に河内物部として
故郷に帰還する。どうしても連投だな。

102 :月光仮面:2006/10/21(土) 11:22:04
>>100
「女王国より以北には、特に「一大率」を置き、諸国を検察せしむ。 諸国これを. 畏憚す。 常に伊都国に治す」
伊都国にはシマと呼ばれる出島のような地域があり、後に葛城のシマの宿禰等が
対外問題を担当しているところから、伊都国探題とでもいうべきものがおかれていたの
だろうが、諸国を検察せしむ。 諸国これを. 畏憚すの諸国とは勿論周辺諸国であり、
奴国のこととしか考えられない。あまり上下関係の発達していそうにない邪馬台国
時代に何でここまでのイジメのような関係が成立するに至ったのかを考えても、旧
長髄彦勢力が出雲、ニギハヤヒの伝を頼りに奴国に亡命したと言うことはありえる。

103 :月光仮面:2006/10/21(土) 11:36:04
古代においても北九州には多少なりと↓
http://www5.ocn.ne.jp/~ys2001/page3-muhoumatu.html
こうした気概はあったであろうに、諸国これを. 畏憚すとなにごとか。

104 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 12:37:21
長髄彦一党は東国に逃げたのでは?
あ、いや本気で神武伝承を信じてるわけじゃないけどw
本当に西海道に亡命したとするなら、なんらかの伝承なり自称子孫が出てきても
おかしくないんじゃないかと。

105 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 13:28:05
>月光仮面

純粋に畿内王権の成立のみを扱いたいので、
邪馬台国や魏志倭人伝や神武など記紀ネタは厳禁です。
語りたい人は別スレへ移動してください。



106 :月光仮面:2006/10/21(土) 13:34:13
長髄彦一党東国亡命説、物部秋田入植ですが、唐松神社。天日宮
http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/txt/ao1krmt.htm
ここに祀られる香具土命はイザナミ産道を焼き、生まれながらに父イザナギに斬殺され
るという最大級の呪詛を受けており、これは銅鐸冶金文化に対する聖典的な禁忌を
意味するものと考えられます。これが祀られることは多分狗奴国の銅鐸分子が亡命し
たか、あるいは、東北で金、鉄などの資源探査をする部族が祀ったものではないか、
また、他にニギハヤヒがありますがこれは長髄彦系統かなとも思われます。玉鉾大神
(これは横手の梵天様か)というのもあります。ただ、古代東北文化のスケールは出羽
三山を見ても九州等に引けをとらずにスケールが大きいので単に亡命の結果東北文化
が生まれたと言うものではないでしょう。


107 :月光仮面:2006/10/21(土) 13:39:23
>>105 了解。直ちに移動します。

108 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 14:18:53
畿内王権の成立を考える上で、前方後円墳祭祀が重要となる。
恐らく画期となったのは、吉備の楯築墳丘墓だろう。

東瀬戸内経済ブロックの統合、首長連合は何度も模索され、
その結果として、マキムク箸中山が生まれたのだろうと。
倭人伝の言うところの卑弥呼共立、径百余歩の塚に埋葬だな。

109 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 15:12:08
>>108

倭人伝を語りたいなら別スレへどうぞ。
ここは、畿内王権成立を考えるスレです。

倭人伝で歴史上参考になる記述は「倭国大乱」「女王共立」これだけ。

畿内の首長が「卑弥呼」という名前だったかどうかは、畿内王権成立と関係ない。
邪馬台国が九州だと言うやつには言わせておけばいい。

考古学が出した答えは、2世紀の瀬戸内海中心に高地性集落が作られ、
3世紀に近畿を中心とした経済ブロックが出来たということ。
さらに、東国との関係も明らかになってきている。
東国と畿内の関係を探るとき、魏志倭人伝に足を引っ張られてはならない。
クナ国尾張説とかな。尾張と畿内は緊張関係には無かったのだし。

110 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 15:22:27
>>109
じゃあ、狗奴国はどこなのよ?

111 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 15:30:32
>>110

そういうのが、「畿内王権成立」と関係ない話だというのだ。
畿内王権と対立する勢力が、3世紀に存在したかもしれんが、
それが「狗奴国」という名前だったかどうかは、どうでもいい話だ。

畿内王権と対立する勢力が存在したなら、どこの地域に存在したかを、
物証で明らかにしていくのが考古学。

112 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 15:57:14
>>111
なんかねえ。逃げにしか思えない。

倭人伝至上主義はどうかと思うが、少なくとも3世紀には、
魏が言うところの「邪馬台国」は存在していたし、「狗奴国」は存在
していたことは確実。

考古学では(科学的には)なかなか答えられないとは思うけど、
存在したのは事実なんだからさ。
確証は無いにしろ、それなりの考えも持ち合わせていないのかね?

113 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 16:01:06
>>112

それなりの考え?

俺は「邪馬台国」「狗奴国」がどこかなんて興味ないの!

畿内王権が、周辺地域とどのように関係を持って成長したか、
それを裏付けるどういう物的証拠が発見されたか、ということにだけ知りたいのだ。
古代ロマンを空想したいなら他のスレへ行け。



114 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 16:17:07
>>113
あえて、倭人伝を無視する必要はないと思うけどね。
確かに議論が泥沼になる嫌いがあるが。

倭人伝でいうところの邪馬台国=畿内王権と考えるのが自然だし、
それを前提に話を進めた方が分かり易い。

115 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 16:17:14
邪馬台国が九州か畿内かなんて論争は、永遠に答えは出ないだろ。

たとえ、3世紀の畿内が九州を支配するほどの強国だったという証拠が発見されても、
九州説のやつらは、「九州勢力が、魏を騙した」と言うだろう。
東遷説のやつらは、「少数の九州の武将が大和でクーデターを起こした」と言うだろう。
そうしたトリッキーな妄想に対して真面目に反論する必要などない。

九州勢力が「魏を騙した」にしろ「大和でクーデターを起こした」にしろ、
その頃の畿内は、九州以外の周辺のクニから大量の人間が流入し、奈良盆地を開拓していたのは明らか。
どの勢力がどのように奈良を開拓していったかを知りたいのだ。

ところが、文献屋は、九州からの神武東征しか念頭に無いから、
磯城や葛城や山城や鴨王といった大和の古代豪族については、何も考えようともしない。
大和の古代史の紐解きがちっとも進まない。




116 :日本@名無史さん:2006/10/21(土) 16:55:04
九州説の可能性を否定しきれないのは確か。
北部九州一帯を支配したツクシ政権が、三世紀にあった可能性は限りなく低いが。
東遷説は確実に否定出来る。

117 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 04:37:24
>>114
>それを前提に話を進めた方が分かり易い。

それがォデモの始まり

118 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 04:44:57



119 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 04:46:55
↑失礼
×それがデモの始まり
○それがトンデモの始まり

120 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 07:47:56
>>119

×それがトンデモの始まり
○それがトンデモの九州説を呼び寄せる始まり


121 :サガミハラハラ:2006/10/22(日) 10:23:31
>>71の件について、
問題はスレにあるように畿内王権の初めをいつにもってくるかです。
東遷説にみられるように、畿内に文化的変化が大きくみられる古墳時代からとみるか、
記紀の伝承にある、神武東征にもってくるかである。
東遷説では、九州の邪馬台国が移動したということから、その始原は九州とされる。
一方の神武説では、元皇室の先祖は九州から来たとの伝承から、その始原はやはり九州とみられている。どちらにしろ、畿内王権は九州に始原をもつとされる。
畿内王権大和(または畿内)自生説は、文献上は無理であり、考古的にも断絶や大きな変化があることから、成立しがたいのである。
それでは私がいった、九州の勢力の武力侵入の場合はどうであろうか。
記紀の場合を例にすると、その規模はせいぜい数十人とみられる。
そうすると、彼らが九州から持参した九州特有の物体はきわめて少量であったとみられる。それらが考古遺物として構成発見される量は微々たるものであろう。
かといって考古遺物が発見されないからといって、渡来しなかったとはいえないのである。
しかし最初は少数であったにしても、その勢力は次第に増加し続け、大和地方に大きな文化的影響を与えた。
もともと出身は北部九州(私はかれらは福岡市出身であると考える)なのであるから、その文化圏は銅矛銅剣文化である。
彼らの行動の痕跡は大和盆地の文化の変遷にみられる。
畿内文化の特徴のひとつは、銅鐸文化であるということである。しかるに北部九州は銅矛銅剣文化であり、どういうわけか両者はあいいれない。
その結果、大和盆地において、北部九州の勢力が拡大すると共に土着の銅鐸が次第に姿を消していくことになる。
これは新来者により駆逐されていった結果であるとみられる。
銅鐸文化圏において、ある時期から大和盆地にはポッカリと穴があいたようである。
・よって文化的影響のひとつはこの銅鐸の消滅にある。
・盆地の周囲の高地性集落については、もう少し調査してみないとならないが、この係争に関しているのではとも考えられる。
・なお考古遺物については、強いて挙げろというならば、元天皇家が保有しているといわれる三種の神器がある。

122 :サガミハラハラ:2006/10/22(日) 10:27:27
>>121の元皇室は現皇室の誤り。構成は後世の誤り。元天皇家は現天皇家の誤り。

123 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 15:46:00
青銅祭器から古墳祭祀への移行は、全国的にパラレルに起きている現象なんだけどね。
若干の時期の差はあれど。
弥生後期に始まる首長権力の強大化。首長霊祭祀が創始されたため。

和辻が言い始めて以来、銅鐸の消滅を東遷論を結び付けて考える説が多くあったが、
実際そのような征服を思わせる遺跡は現在見つかっていない。
征服者に銅鐸の遺棄を強要されたとは思われず、むしろ畿内の人々が自主的に棄てたの
であろうと。
出雲の加茂岩倉のような、青銅神との決別→特定個人の崇拝(首長霊祭祀)が
行なわれたと思われる。
むしろ、弥生後期の初めに戦乱の痕跡が見られ、時期的に百年以上の開きがある。

124 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 18:33:16
銅矛文化が銅鐸文化を滅ぼしたなら、
畿内に銅矛がいっぱい出土するはずだがな。
いったい、畿内からどれくらいの銅矛が出土したのか聞いてみたいよ。

125 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 19:15:40
★神道と日本文化★
http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=1054&forum=1&viewmode=flat&order=ASC&start=0




126 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 19:38:56
>>121
天皇家発祥の地は南九州です

127 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 20:18:41
>>126

その天皇家が、南九州に墓参りに行ったことはありません。

128 :サガミハラハラ:2006/10/22(日) 21:14:35
>>124
九州からの一団はごく少数であり、文化を広めようとやってきたのではなく、自分たちの領地を持とうとしてやってきたのです。
戦に際して役にたたない銅矛はせいぜい数本ぐらいでしょう。ほとんどは鉄の兵器です。
家は仏教徒ですが仏像は一体もありません。
銅矛は持ってこなかったが、銅鐸を嫌い排除する主義は身につけてきました。

129 :サガミハラハラ:2006/10/22(日) 21:20:58
そうして銅鐸を排除していったのです。

130 :日本@名無史さん:2006/10/22(日) 21:33:39




>>129
既存のお偉い先生のお話とか、
全く証拠も無い通説を無視して、
それ以外を組み合わせれば、
直ぐに解るよ、
しんじつなんて。


君さ、どっかの証拠もない、人気の本を、見て書いているじゃないのか?





131 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 08:29:33
考古学的に、東遷の証拠は何一つ出てないんだけど。

庄内期の畿内古墳(いわゆるマキムク型)開始は確かに突然だが、
九州の直接的影響より、阿波や播磨の影響が大きい、というのが、
昨今の流行り。
単純な九州東遷説は、最早、過去の遺物かと。

132 :サガミハラハラ:2006/10/23(月) 08:29:53
どっかの証拠もない、人気の本ではありませんが、「後藤幸彦著、明窓出版刊、卑弥呼の登場」を見てかいています。

133 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 09:16:19

神武東征神話は、100年くらいかけて九州の一集団が少しずつ畿内に移動し、
まだ未開の地だったイハレ地方にムラを構えたもの。
結果的に、そのムラの出身者が奈良盆地で台頭したのだろう。

もっと現実的な視点を持ったほうがいいと思うがね。



134 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 12:34:42
イワレ地方はすでに未開の地ではありませんでした。
記紀をよくおよみください。
当時は弥生時代も後期です。西日本では、当時の技術で耕せるところは耕され、住めるところは既に人が住んでいたのです。

135 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 14:16:25
ようするに、九州の小集団が畿内にわりこめる隙は無いってことだ。


136 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 14:31:49
畿内は貧しく遅れた後進地域

137 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 14:35:42
今でも関西は食料自給率全国最低の農業不毛地帯だもんな。

138 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 15:11:27
農業先進国の東海が畿内に進出したということだな。

139 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 15:17:21
九州の高度な文明が流入して豊かになったと考えるのが正常だろ。

140 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 15:26:35
九州の遺物が出てこないのに、どんな高度な文明が流入したというのか?

141 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 16:31:31
銅鐸は畿内説では、どこに位置づけるのでしょうか。

確か、寺沢説では、
銅鐸の終焉は、出雲、吉備、畿内、東海、それ以東と時間差があるとされている。
銅鐸の終焉時期は、布留式〜古墳前期あたり。
そこで、寺沢は、大型古墳の出現時期に器台等に発展的解消としている。
共同体の祭祀が首長の祖霊への祭祀に変質したという考え。
要するに、九州勢力による禁圧ではないという考え。

これでOK?

142 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 16:49:46
東海の遺物も文献も出てこないのに、どんな高度な文明が流入したというのか?

143 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 16:55:49
東海土器が出てますが何か?
東海から皇后を出してますが何か?

144 :サガミハラハラ:2006/10/23(月) 18:41:02
時間差のある終焉はすなわち九州勢力の拡大を意味します。

145 :サガミハラハラ:2006/10/23(月) 18:52:02
私寺沢様の諸説(考古いがい)は基本的に支持いたしません。

146 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 20:45:06
九州勢力の拡大を物語る資料がない。
むしろ逆方向。
奴国は畿内の庄内式土器を受け入れている。
マキムク型前方後円墳も、畿内→九州の流れ。
結局、鏡信仰と神武東征伝承くらいしか、九州→畿内が見つからないのが現状。

147 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 20:51:45
鏡信仰なんてのも無かったんだけどね。
鏡は当時、最先端の文明の利器だっただけであって。
そういうものが手に入るんなら手に入れようとするのが当たり前。

むしろ、破鏡のほうが信仰であって、それは畿内には伝わっていない。


148 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 20:52:30
>奴国は畿内の庄内式土器を受け入れている。
>マキムク型前方後円墳も、畿内→九州の流れ。

裏付けるソースは?

149 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 20:55:38
それに、大王が有難がったのは、矛じゃなくて剣。

文献からも、神器といえば剣であって、鏡や勾玉が神器に加わったのは、後世になってから。
つまり、鏡や勾玉は、ただの宝飾品としか見られていなかった。

150 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 21:11:32
>>148

安本以外のソース全部。

151 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 21:15:46
鏡は畿内王権も重視してたでしょ。
実用性の無い大型の神獣鏡を欲したのは、新たなレガリアとして利用するため。
地方に配布して、ヤマト政権からの承認の証とした。
それが古墳時代なんだからさ。

152 :サガミハラハラ:2006/10/23(月) 21:41:41
ちょっとお待ちください。畿内王権の成立についての時期ですが、私は、「卑弥呼の登場 後藤幸彦著」をもとに、北部九州集団の山と盆地進入は120年代であるとかんがえます。そして3世紀後半に急拡大をして、古墳時代にはいったとみています。
畿内王権の成立を大和侵入時代からとみるか、古墳時代からとみるかで話題がかわってくるとおもいます。

153 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 21:58:04
鏡ついでに、画文帯と三角ついて、ちょっと質問。

1、三角縁のうち、紀年鏡は舶載とするのが、畿内説では多数派のようだけど、これはOK?

2、布留式以降の時代の墳墓から出た「紀年鏡」も舶載と断定するのもOK?

3、三角で舶載を認める森岡とかは、画文帯180〜240頃、三角239頃〜400?頃という考えで、
両者の年代の違いを述べているけど、画文帯をここまで古く見てもOK?布留式時代の墳墓でもOK?

4、そもそも画文帯、三角縁の舶載と国産とをどうやって区別するの?

154 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 22:11:49
>>153
まあ、正直議論の分かれるところで。各自で意見が違うだろうから、
答え難いな。
4は、区別が簡単に出来れば苦労しない、で分かるだろ。

私自身は、三角縁が布留以降にしか出ないことを重要視したい。
箸墓に始まる前方後円墳祭祀と三角縁とは、密接に関連があるのだと思う。

155 :日本@名無史さん:2006/10/23(月) 22:13:56
>>152
その、北部九州集団の侵入を120年代とする根拠は何ですか?
唐古鍵とかと争いは無かったの?

156 :サガミハラハラ:2006/10/24(火) 08:15:27
AD57の金印授受は倭国統一の結果であり、記紀にいう天孫降臨のことであるとみます。
そこからライフサイズ(人の寿命等)で計算していくと神武の北部九州出発はその時期となり、これが北部九州の東征であろうとみました。

157 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 08:31:41
>>156
およそ学問的とは言えないなあ。
ただ、記紀にも初代天皇が九州からやって来たと書いてあるくらいだから、
天皇家のルーツを探れば、九州出身の可能性がある、
くらいで止めておくべきでしょう。それ以上はトンデモ。

158 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 08:47:26
大中遺跡
新宮宮内遺跡
養久山古墳墓群

159 :サガミハラハラ:2006/10/24(火) 09:50:46
>>156のその時期とは120年代のことです。
学問とは追求の上に成り立つものです。トンデモとか創作であるとかいって思考を停止させていては学問は進歩しません。

160 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 10:40:45
>>159

根拠の無い空想は、学問じゃない。
文献は根拠にならない。

シュリーマンだって、自分で発掘して初めて自説を証明したのだ。

161 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 11:11:40
>>159
いやむしろ、トンデモにならないよう、十分に注意する必要があるよ。
宗教やオカルトにひっかかる人間がいるように、
人間の心には、簡単な答えに飛びついてしまう弱い部分がある。
だから科学的検証が大事。
九州東遷にしても、考古学的には証明不可。むしろ逆の結果が出ている。
文献でもあくまで日向からの東征であり、文献を都合良く曲解しているに過ぎない。
これが果たして科学的と言えるだろうか?

162 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 11:45:09
C14測定を無視する連中が、科学的根拠で証明するていう冗談はアレかな、
発掘という捏(以下自粛

163 :サガミハラハラ:2006/10/24(火) 12:50:52
文献は根拠にならないって、シュリーマンは文献をもとに発掘したのですが。

164 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 13:11:46
>>163
物的証拠を示せという意味だ。

165 :太国:2006/10/24(火) 14:35:39
確たる文献は証拠になりうる。→文証

166 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 14:40:39
[確たる文献]の定義は?



167 :太国:2006/10/24(火) 14:55:25
だから文献って云ったって、ピンからキリだろうが。
ここんところは なりうる だよ。全部なるんじゃないいんだよ。
古史古伝は臥海じゃぁマダ no だろうしね。
記紀の神代もちょっと史実だは無理だろう?それに天皇の歳の数字だって
記紀はちがうわけだから、どっちも正ではない。
ただ、文献は役に立たないと言い出す奴はおかしいと言いたいわけだ。

168 :サガミハラハラ:2006/10/24(火) 16:57:41
物証をだせというなら、あなたが例にあげたシュリーマンの発掘した丘の遺跡もトロイであるという直接的な物証はでなかったとおもうのですが。

169 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 17:55:48
>>167
[確たる文献]でなければ、その文献は役に立たない。

>>168
結局、文献に従ってシュリーマンの発掘したものはトロイの時代の遺物では無かったというだけのこと。


170 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 18:08:24
頭の悪いやつのために、もう少し説明しよう。

シュリーマンは、文献にあるトロイを発掘しようと丘を掘った。
たしかに、何かしらの遺物は出てきた。
だから「トロイ遺跡を発見した!」と騒がれた。

だが、これでは、科学ではない。

その遺跡は、いつの時代のものか?という実年代を調べなければ、
トロイの遺跡かどうかは確定しない。

「邪馬台国発見か?」と騒がれた吉野ヶ里遺跡が、邪馬台国では無かったと確定したのも、
実年代をきちんと調べたからだ。これが科学だ。

もし、文献偏重で、科学を軽視していたなら、邪馬台国は吉野ヶ里で確定していただろうな。
おまえらの出番は無くなってたわけだ。
すこしは科学を有り難いと思え。


171 :太国:2006/10/24(火) 18:27:42
どう転ぶかそのへんはまだだろう?
だが、畿内には女王国はな〜い。科学がどうのといえばなおいいことは確かだが
これが畿内説に行くことにはならない。もっと言いたいが、>>1の意向を無視
したくないのでこのへんでやめだ。

172 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 19:27:22
>>171
>だが、畿内には女王国はな〜い。

ここは畿内王権を考察するスレだ。
女王国や邪馬台国が畿内にあったと考察するスレではない。

畿内王権をすぐ畿内説と結びつけるその短絡思考をなんとかしろアホ。


173 :太国:2006/10/24(火) 19:31:59
>>172
だったら>>170にも、ここは邪馬台国のスレじゃない、短絡だということを言え。
なんでこっちだけ言うんだ?

174 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 19:55:34
べつに文献という手法を批判をしてる訳じゃなく、
文献を読んで妄想逞しくしてるなよ、ということ。
文献に書いていないことまで脳内補完するな、と
九州からの畿内侵攻を主張するなら、考古学的にも理論武装する必要がある。
知らないじゃ相手にされないよ。

175 :サガミハラハラ:2006/10/24(火) 20:06:46
なんで文献偏重で科学を軽視したら吉野ヶ里が邪馬台国で決着するのだ。
吉野ヶ里が倭人伝の記述とあわないから否定されたのだ。
科学(あなたのいう科学とは考古学のことであろうが)は文献の裏づけはできても文献の
内容までは判断できないのだよ。

176 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 20:10:11
畿内王権成立に直接九州の影響は無い。
しかし、播磨あたりの影響は見られる。
播磨には、九州から鉄が流れてきている。
神武は、播磨を経由してる。

よって、九州の伝説が時間をかけて畿内に伝わったことはありうる。
妄想するなら、この程度にしておけ。
神武が一世代で畿内に侵攻したなどありえない。

177 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 20:10:32
>>175
諸橋大漢和辞典すら読んでいないおじいちゃんに言われてもねえ。。。

178 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 20:17:43
>>175

たとえ、九州のどこかの遺跡で卑弥呼の金印と墓が見付かって、
考古学上邪馬台国と特定されても、文献屋の誰かは否定するんだろ。

少なくとも「北九州説」「宇佐説」「日向説」があるわけだから、
どこかが考古学上邪馬台国に特定されても、他の説のやつらは難癖つけて否定するだろう。
多数決で、永遠に決着は着くまい。

まず、文献屋だけで、九州のどこが邪馬台国か、統一見解を出したらどうだ?
それすら出来ないではないか。
どうやって邪馬台国と特定するのだ?

179 :サガミハラハラ:2006/10/24(火) 20:20:09
九州の伝説が畿内に伝わったって、あなたも記紀の古代の部分は九州が舞台であったとみる方の一人ですか。

180 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 20:24:38
>>179

全部の神話が九州が舞台とは思わんよ。
国生みの創世部分は、淡路島付近の海人の伝承だろうな。

181 :サガミハラハラ:2006/10/24(火) 20:34:32
確かに出雲が舞台のもあります。
国生みの創世部分は北部九州の(お)能古(ろ)島ではないかといわれています。

182 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 20:35:46
九州の神話って、日向三代だろ。

183 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 20:37:59
>>181

ふざけんな。
淡路島を無視する根拠を言え。

184 :サガミハラハラ:2006/10/24(火) 20:40:02
それもありますが、日向は以前は宮崎県とされていましたが、福岡市西部と考えるほうが合理的です。

185 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 20:57:14
>>184

根拠を言え。

186 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 21:54:49
サガミに聞いてもまともな反論は期待出来ないだろ。彼は考古学無視派だから。
それより、畿内王権の成り立ちに関与した勢力としては、
やっぱり吉備、播磨、阿波、東海とかが有力なのか?
畿内在地勢力との力関係はどんなものだったんだろう?

187 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 09:05:55
楯築墳丘墓に画期があったと考える。
各地域との競合が加熱化する中、東瀬戸内経済圏団結の試みが行われ、
結果的には瓦解した。
その流れの中でマキムクを理解する必要があるだろう。
庄内の最初に、畿内首長連合が形成され、阿波や播磨も主要メンバーとして参加。
阿波や播磨の墓制を参考にマキムク型を造る。
布留に吉備も入り、阿波や播磨の地位が相対的に低下。
吉備の参加で箸墓を最初とする前方後円墳が完成する。
東海は畿内王権と比較的良好な関係を保ちつつ、古墳中期頃に同族化したのだろう。

188 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 11:11:09
丹後は?

189 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 12:38:39
丹波や越も早くから畿内王権体制に参加していただろう。
紀が語る四道将軍の伝承とは、マキムクの頃に、畿内、吉備、
越、丹波、東海らが連合した時の記憶が物語られている。
筑紫が参加していないことに注目。
おそらく連合が成った後、これらの国々の同族化が起こり、
始祖王伝承やら神話が共有されるようになったため。
同族化→神話の共有は世界でもよく見られるポピュラーな現象だ。
神武や欠史八代が創作されたのは、この神話共有化のための要請と考えるべきだろう。

190 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 12:45:25
確かに考古学主体で話を進めた方が、各々妄想広めやすいし、適当にお茶を濁しても指摘する奴もいない。即ち、乙女のロマンチックメルヘン物語を永遠にか

191 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 12:58:44
189が、記紀を元に妄想語ってる件について。

192 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 13:19:10
>>189

そうだね。
畿内、吉備、
越、丹波、東海らが連合したとき、神話を公平に共有するために、
始祖王(神武)は、他の地域から来たことにしたかった。
東は蝦夷の地だから、西から来たことにした。
北九州は畿内の植民地だから、南九州にした。
こうして、日向が天孫降臨神話として創作されたのだろう。



193 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 13:47:23
妄想も綺麗な妄想と汚い妄想があるけど。
汚い代物は悲壮感を感じるね(^^

194 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 14:41:16
所詮考古学主体で妄想やろってやからは、お花畑がお似合いかと
広がるいっぽうだろう

195 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 15:56:42
>>189のようなのが本当の文献解釈。神話学とかも参考に総合的に判断すべき。
私は考古学重視派だが記紀を軽視するつもりはない。
何度も書いてるが。

196 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 15:58:45
>>194
考古学に口出しするなら、
「畑」と「畠」の違いくらい知ってるだろうね?

197 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 17:29:03
>>196

>畠と畑
………………………………現在どちらも中国で確認できず、(国字)とされており、現時点では(畠)の文字の方が古いとされている
畠は白田から
畑は中国の火田が日本で(上火下田)が(左火右田)に変化したものと

畑は焼畑の意、畠は常畑の意とされるが
諸説諸々定かではない。

198 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 17:33:02
それで>>196の解答はいかに? まさか>>197と同じ様な、内容じゃないよな?
皆が期待している GANGARE

199 :月光仮面:2006/10/25(水) 18:10:35
>>192

>北九州は畿内の植民地だから、南九州にした。

北九州は、南九州あるいは南九州と楽浪の力によってによって、南九州に
征圧されたのでは。

200 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 18:53:33
>>198

なんだね?

>>197が、模範解答だと思ってるのか?笑わせるな。

焼畑・常畑が、いつの時代から始まったか、どこの地方が主な生産地で、
ムラの収穫量は、ムラの人口を支えるに余りあるか足りないか、
余剰があれば、その作物を物々交換で他のモノと交換しただろうから、
そこに流通が生まれ、人々の行き来は、ムラを統合させ、大きなクニへと発展する。

こうした歴史の流れが頭に描けるか描けないかということだ。
注目すべきは、「流通」の存在。
それは土器の拡散を見れば容易にわかる。
文献を読んでもわからない。


201 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 18:59:10
>>197なんてものは、ググればわかること。

文献屋は、ググってわかったつもりになる程度の頭しか無いってことだ。

202 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 19:12:24
食料不足は戦争を起こし、政治が安定しない。
戦争の起きてたのは九州だが、畿内では安定していた。
弥生末期の人口密度も、東日本の方が高い。
人口が多くても、戦争が起きなかった、ということは余剰食糧が豊富だったということ。
そこには、安定した政治が生まれただろう。
銅鐸祭祀は、そのシンボルだった。

縄文時代から、東日本の農法は、焼畑だったろう。
焼畑は、水田のように高度な技術が不要なので、もちろん鉄器も不要。

東日本社会が、鉄器を必要としていたというのは、幻想にすぎない。
鉄器が無くても十分に食料が得られていた。
戦乱がなく、人口密度が多いことがその証明。

九州の方が畿内より優位だったという「常識」も幻想。
何が何に対して「優位」だったのか?
あらためて問われれば、明確な答えを返せるやつなどいないはずだ。

203 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 20:45:01
九州の方が畿内より貧しく、戦乱が多かったというのも幻想では?
(確かに今まで北部九州>畿内が言われ過ぎていた観があるが)。
反論としては、
1.むしろ大阪湾沿岸に高地性集落が多い。
2.九州の立地の有利性。半島との中継貿易はかなりの利潤を生み出したのではないか?
富裕化した商人がオウとなり、階層化が進んだと。
ヒラバル王墓を見る限り、筑紫が食糧にも事欠く貧乏国だったとも思えない。

204 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 20:51:25
畿内王権成立における、筑紫勢力の関与は、どの程度あったのでしょうか?
対立したのか、友好的であったのか。もしくは一定距離を置いていたのか?

205 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 21:00:29
・・・引用場辛子・・・
>釈迦はキノコを食べて死んで有名な坊さんからも「知恵がないやつだ。」と言われた。が太国さんはもっと知恵があるよ。


206 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 21:08:43
記紀の神様に亦の名が多いのも、複数いた各地の神様を、
神話の共有化の過程で統合していったからなんだろうな。

207 :日本@名無史さん:2006/10/25(水) 21:09:17
>>203
>1.むしろ大阪湾沿岸に高地性集落が多い。

畿内の高地性集落に、実際に戦闘の跡はありません。
防衛のため築いたものの、戦争は畿内まで及びませんでした。

>2.九州の立地の有利性。半島との中継貿易はかなりの利潤を生み出したのではないか?
何と何をどこへ売り買いして、どういう利潤を生んだのか説明してみてください。
利潤よりも戦争での疲弊のほうがでかいでしょう。
3世紀末から北九州が衰退する理由も説明してみてください。
もちろん、東遷という証拠はありませんので念のため。





208 :日本@名無史さん:2006/10/26(木) 11:45:38
>>207
1、高地性集落というのは、防御的施設というのは、そのとおり。
農耕をしている平地から1〜3時間かかる山の中腹とかに、堀をめぐらしてろう城する施設
を作っている。あと、「のろし」での連絡も、防御網のひとつ。
これが畿内、瀬戸内に多数存在するというのは、少なくとも軍事力において北部九州より
劣位にあった証拠となる。

あと、戦闘の痕跡がないから、戦いがなかったとはいえない。例えば、源平合戦の戦闘の
痕跡がほとんどないから、戦闘がなかったことになるか?ならないと思う。
むしろ、登るのに1〜3時間かかる高地に多大な労力を投入して多数の防御施設を築いた
のは、実際に戦闘があったからと考えた方がよい。

2、銅や鉄は、初期3C頃までは、朝鮮半島経由でしか入手できない。庄内式初期の頃
までは、鉄器の分布においては北部九州の絶対優位が考古学的結論。
あと、ヒスイなどは、北部九州を経由して朝鮮半島にもたらされている。


209 :日本@名無史さん:2006/10/26(木) 12:33:05
>>208

九州が優位だったとするなら、
3世紀末から北九州が衰退する理由も説明してみてください。


210 :日本@名無史さん:2006/10/26(木) 13:42:43
★卑弥呼より前に王がいた?! 前1世紀の近畿に王権か  平成16年12月12日追加

  新聞記事

 《紀元前1世紀(弥生時代中期後半)の巨大な神殿跡が見つかっている大阪府和泉市の環濠集落、池上曽根遺跡の中心部で、整然と配置された大型の掘っ立て柱建物群跡が見つかり、和泉市教育委員会が9日発表した。

 市教委は集落の中枢にかかわる倉庫群と推定。神殿から約100m離れたこの一帯に、支配者の特別区画を設けて政務や宗教、収税など権力機関を集めたとみている。

 邪馬台国の女王卑弥呼が現れるより約200年前で、北部九州以外はまだ農村のような共同体社会とみられていたが、既に権力を一手に握る「王」が誕生していたらしく、弥生時代像の見直しを迫る貴重な発見だ。

 見つかった建物跡は4棟あり、2時期に2棟ずつ建てられ、東西に並んでいた。
柱の直径は30〜35cm。立てるため1辺1.5mの方形の穴を掘っていた。うち1棟は約80平方メートルあり、当時としては最大級という。》
(共同通信)
  ☆ 「伝承年代推定法」では、神武天皇の即位年次をBC127年甲寅と推定しています。紀元前1世紀(弥生時代中期後半)の巨大な神殿跡は興味を抱きます。

http://www.geocities.jp/identaisi22000/sokuinennji.html

211 :日本@名無史さん:2006/10/26(木) 15:11:55
>>209
庄内開始より、畿内が北部九州を介さず、半島と直接取引を始め、
北部九州は徐々に衰退していったのだろう。

212 :日本@名無史さん:2006/10/26(木) 15:54:17
>>211

畿内に半島と直接取引き?

そんな証拠を匂わすほど、半島の遺物が畿内にどれくらいあるというのか?


213 :日本@名無史さん:2006/10/26(木) 16:03:24
>>211のような説明も、少し前の考古学の本には書いてあることだが、
もうちょっと良く考えて欲しい。

それまで、九州が優位だったとして、畿内がどのように、半島との交易の権利を得たのか?
武力なのか政治的にか、まったく説明されていない。

武力なら、「優位だった九州を、弱かった畿内が倒した」というわけで矛盾する話だ。
政治的にしても、「優位だった九州が畿内に権利を委譲した」など論理的ではない。
だいたい、その後の筑紫の歴史を見ても、畿内には反抗的だ。

もともと、畿内の立場は、九州より上だったと考えた方が無理が無い。
鉄器の量が多いことは、上下関係に無関係と見るべき。



214 :日本@名無史さん:2006/10/26(木) 19:41:49
九州とは別の交易ルートがあったのでは?
丹後、若狭とか。

215 :日本@名無史さん:2006/10/26(木) 20:11:08
若狭湾は交易拠点だったろうが、
それならなぜ若狭湾に王権が生まれなかったのか?

結局は、北九州に王権が生まれなかったのは何故か?という問いの繰り返しにすぎない。
「半島との交易拠点が優位なはず」という既成概念を捨てるべき。

216 :日本@名無史さん:2006/10/26(木) 20:37:29
>>215 >北九州に王権が生まれなかった    ・・・・・?

奴国や倭国として中国に朝貢しているし、王おり、王墓も発見されている。
しかも、中国の認証という国際的な「錦の御旗」を手に入れている。
平原の遺物からは、楽浪郡の郡司よりも格上であったことが、判明している。

要するに「王権」はあった。問題はその規模のみ。

「倭国」として@北部九州全体、A九州全体、またはB九州と本州・四国の一部を
統治していた権力が存在していた可能性も十分にある。
本州の倭族を支配したのちに余剰労働力を大型古墳の築造にあてたとも考えられる。

217 :日本@名無史さん:2006/10/26(木) 23:21:54
>>216

>「倭国」として@北部九州全体、A九州全体、またはB九州と本州・四国の一部を
>統治していた権力が存在していた可能性も十分にある。

規模がどうであれ、どうして、北九州を統治していた権力が、
3世紀末に畿内に敗れたのか?ということだよ。
説明できるか?

九州が何百年も優位に立っていたなら、
3世紀末に畿内に敗れる理由は何も無いだろ。

魏が滅んだとか、朝鮮半島が不安定になったとか、
そんな理由で簡単に畿内に権力を奪われてしまうものなのか?

奴国が魏に朝貢してたからといって、
力関係が九州>畿内という理由には全くならない。
ただ、奴国が外交に長けていたというだけのことだ。

ここで言う「力関係」は、あくまでも食料事情だと考える。
東日本は収穫が多く余剰作物を備蓄していた。人口増加につながった。政治が安定していた。
九州は、収穫した作物のほとんどを朝鮮半島に売って鉄を買っていたんだろう。
そのため、飢饉には対応できず、すぐに戦争が起き、政治は不安定だった。

結局、九州は、畿内の安定した政治形態にすがるしか無かったということだよ。

218 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 00:02:18
>>217  >>畿内に敗れたのか?

むしろ、九州王権が畿内をも飲み込んだとも考えられる。倭国王帥升の時代には、
生口160人を伴う大規模な朝貢を後漢に派遣する力を持っていた。当然、徴税や軍役
などの相応の制度が存在したと考えられ、王権の支配域も少なくとも北部九州全域には
達していたと考えられる。

しかも、出雲は、1C以前から北部九州と交易をしていたし、鉄器を畿内より早い時期に
大量に受け入れている。銅鐸文化も畿内より早く終焉している。つまり、九州王権が
出雲、吉備と順に提携(征服)し、畿内に移転したとも考えられる。

記紀でも出雲の国譲りをした後に神武東遷が起きている。
しかも、神武の軍は、吉備辺りまでは素通りで、畿内近辺でしか戦闘をしていない。
さらに、戦った相手も畿内の土豪と手を結んだ天孫族であり、畿内勢力そのものとは
なっていない。要するに、出雲、吉備の延長に畿内があり、畿内征服の後に遷都した
と書いてある。


219 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 00:07:28
>>218

>むしろ、九州王権が畿内をも飲み込んだとも考えられる。

紀元前なら、ありうる。


220 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 00:16:21
>>218

記紀神話は、地方神話のよせあつめってことが理解できないのかなあ?

国譲りは出雲神話。天孫降臨は日向神話。神武東征はイワレ神話。
全然別個の神話だったのを、記紀編纂時にストーリー性をもたせて繋げただけ。
天孫族とかいう、一集団もいない。


221 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 00:28:50
>>218

出雲の国譲りを考古学的にあてはめるなら、四隅突出型墳墓の消滅時期となるだろう。

国譲りが天孫族によるものなら、出雲には前方後円墳ばかりが出来るはず。
しかしだね、よく注意して聞いてくれよ?
出雲には、「前方後方墳」が、まとまって築造されてるんだよ。
いったい、出雲は、どこの勢力に国譲りしたんだろうかね?

↓ソース
ttp://www.pref.mie.jp/BUNKA/TANBO/Q_A/01.htm

分布状況では島根県の出雲地方や栃木県の那須地方に分布密度が高く、
中でも出雲地方東部では約三〇基もの前方後方墳が方墳とともに集中しています。



222 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 01:38:17
>>221  
つまり、前方後「円」墳と前方後「方」分とは、対立する勢力ということ?

似ているから・・・という説でも良さそうだけど。

223 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 06:47:35
前方後円墳と前方後方墳が、対立していようが、共栄していようが、
畿内・東海を中心とする勢力が、
古墳時代に入ると同時に、日本の広範囲に広がったということ。

弥生時代後期に、畿内中心の勢力は地方を抱きこむ潜在能力を持っていた。
まず、九州勢力の東征は考えられない。
それまで九州が畿内より優位だったという考え方も無理がある。


224 :↑↑↑↑↑:2006/10/27(金) 07:19:57
トンデモ妄想かよ。

225 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 11:56:11
半島から来る場合、対馬から海流に逆らってまっすぐに九州を目指すより、
海流に乗って本州を目指す方が楽だと思うのだが。

226 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 21:34:10
>>212
>畿内に半島と直接取引き?
>そんな証拠を匂わすほど、半島の遺物が畿内にどれくらいあるというのか?

画文帯とか色々あるでしょ。庄内以降に畿内で大陸の物が増えてくるのは間違いない。

227 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 22:05:41
庄内以降じゃ、証拠にならんよ。
庄内以前から半島と取引が無くて、どういう理由で突然半島と取引ができるのだ?

228 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 22:51:53
>>227
どういう理由でって、そりゃ需要だろ。
そういう要請があったから、行なわれた。
君は、畿内王権の成立のトリガーを完全に読み誤っている。
畿内王権の成立自体が、瀬戸内海流通の円滑化が希求されたもので、
庄内以降、大陸から文物の流入が安定する。
それまでは、流入が一時期停滞したり再開したりを繰り返していた。

229 :日出づる国の防衛戦略:2006/10/27(金) 23:36:06
■1.超大国の侵略の跡■

「このあたりだ。見ろ、あの白骨を」と、高句麗の将官は馬上から叫ぶように言い、通事が訳した。白骨化した死体が、点々
と地平線までつらなっていた。推古9(西暦601)年、所は高句麗と隋の国境近くを流れる遼河のほとり、ちょうど朝鮮半島が
大陸から突き出す付け根のあたりである。大和朝廷からの使者・大伴咋(くい)は侵略をこととする超大国と国境を接する事
が、いかに恐ろしいことか、思い知った。

中国大陸を370年ぶりに統一した隋が、水陸30万の大軍で高句麗に攻め込んだのは3年前、西暦598年のことであった。
高句麗は今の北朝鮮から、満洲、遼東半島にかけて広大な版図を持つツングース系騎馬民族国家で、約800年の歴史を持つ
東北アジアの強国であった。

この時は高句麗が隋の大軍をよく防いでいる間に、6月の長雨で遼河が氾濫し、中国本土からの補給線が切れるとともに、
隋軍の中で疫病が流行した。隋軍は20数万人の死体を原野に晒して引き揚げていった。

「しかし、隋はまたかならず来襲する」 高官は馬首を返して言った。「30万で負けたとなると、次は100万だ。そのとき野を
埋めるのは、わが軍兵士の骸(むくろ)であるかもしれないのだ」

高句麗を破ったら、隋の大軍は新羅と連合して、百済を蹴散らし、やがては海を越えて、わが大和の国を襲うだろう。大伴咋
の身体は身震いがとまらなかった。
http://blog.mag2.com/m/log/0000000699/107833566.html?js

>2 へ続く

230 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 23:39:13
■2.厩戸太子(聖徳太子)の大戦略■

朝鮮半島の南東部を治める新羅が、半島南端の日本の属領・任那を攻撃したのは、前年の推古8(600)年のことだった。
大伴咋が大将軍として4年も九州に出陣して牽制していた間は、まがいなりにも平和が保たれていたが、その軍勢がひきあげて
数年も経たぬうちに、新羅は軍事行動を起こしたのである。

新羅の狙いは、任那だけではなかった。隋と組んで、北の高句麗、西の百済に侵攻し、朝鮮半島を統一しようという野望を
抱いていた。

大和朝廷では、ただちに新羅征討軍を送り込むことが決定され、四国、中国、北九州の豪族の兵士約一万が続々と朝鮮海峡
を押し渡った。新羅、百済、高句麗とも陸戦には慣れているが、水軍を建設するほどの国力はなく、日本水軍は独り圧倒的な力
で、朝鮮海峡の制海権を握っていたのである。

征討軍は朝鮮半島南端の新羅が支配する旧任那の地に直接上陸して、無人の野を行くが如く、たちまち5つの城を攻め抜いた。
すると、新羅はすぐに降伏して、旧任那のうち6地方を返還すると申し入れて、和睦を求めてきた。しかし、朝廷がこれを聞き入れ、
朝廷軍を召還すると、新羅は再び任那を制圧してしまった。

大伴咋が摂政の厩戸太子(聖徳太子)から「高麗(こま)に赴(ゆ)きて任那を救え」との特命を与えられたのはこの時だった。
太子の戦略は、高麗(高句麗)、百済、日本が同盟を結び、北・西・南から新羅を攻める。朝鮮半島統一の野望を持つ新羅
を孤立させ、任那を守りつつ、新興の超大国・隋に対する防壁を朝鮮半島を南北に貫いて築く、という戦略であった。

>3 へ

231 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 23:46:00
■3.「このうらみ、末代まで忘れまい」■

大伴咋が高句麗の嬰陽王(えいようおう)に謁見して、日本−高句麗−百済の同盟を築きたいと提案すると、嬰陽王の顔に
抑えようもない怒りの色が浮かんだ。「われらは貴国を信ずる。しかし、百済は信用ならん」という王の声は震えていた。
「理由をお聞かせ願いたい」と咋が聞くと、王は答えた。隋の大軍が高句麗の国土をまさに蹂躙しようとしている時、百済の
威徳王は隋に対して「皇帝の臣たるわたしどもが、先導をつかまつりましょう」と、阿諛迎合の書状を献上品とともに隋に差
し出したというのである。「卑劣である。絶対に許し得ぬ行為である。このうらみ、末代まで忘れまい」と、王は恨みをむきだし
にして百済を罵った。咋は半島情勢の複雑さを、今更ながらに味わった。
「なにゆえに、奸物の百済を貴国は身内のようにつねに慈しみ、救(たす)けてきたのであるのか」と聞く王に、咋はこう答えた。

されば、百済はいにしえより、わが国の官家(みやけ)であります。官家であれば慈しみ、救(たす)けなければならぬのは、
当然のことわりでありましょう。「官家」とは、天皇に直属する領地というほどの意味である。第15代応神天皇の時代から、
我が国は百済、新羅、任那の三韓を「官家」と見なしてきた。隋書倭国伝にも「新羅、百済、みな倭をもって大国となし、これを敬い仰ぐ」とある。

咋は、百済が常に日本に王族を人質に差し出していることを明らかにし、「百済がわが国に謀反いたすことは万が一にもない」と断言した。
それに安心したのか、最高位の重臣が代表して、「われら一同、貴殿を信頼し、その信頼をもって新羅征討の軍を起こすこととする」
と約束した。ただし、唯一の条件として、咋が自ら百済に赴き、かの国が裏切ることのないよう、国王以下にこの盟約を徹底させることを
要求した。咋は、翌日、従者とともに馬を駆って、百済に向けて半島を南下していった。
咋を迎えた百済も当初、三国の同盟案に強硬に反対した。盟主・日本の要請とあらば、いつでも新羅討伐に立ち上がるが、仇敵である
高句麗と手を結ぶことはできない、というのである。漢城(ソウル)はもともと百済の都であった。それを約130年前に高句麗に奪われ、
時の百済王は殺され、半島西南部に押し込められたのであった。

>4 へ 

232 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 23:49:09
■4.国民軍■

互いに仇敵であった高句麗と百済になんとか同盟を約束させ、大伴咋が帰朝したのは、推古10(602)年6月、1年3ヶ月に
およぶ長旅であった。

帰路、立ち寄った筑紫(北九州)から長門(山口県)、安芸(広島県)の各港は沸き立つような活況を見せていた。巨木に
よる軍船が建造され、食料、武器、燃料などを満載した帆船が港を埋めていた。新羅討伐のための出兵準備である。
約2万5千の兵力を動員するという。

さらに咋を驚かせたのは、朝廷軍の編成が一新されていた事である。従来は朝廷軍とは名ばかりで、大伴氏や紀氏、葛城氏
などの大豪族が私兵を引き連れて、連合軍を形成していた。しかし、今回は地方毎に集められた兵士が中心となっている。
しかも将軍は、摂政・厩戸太子(聖徳太子)の同母弟・来目皇子(くめのみこ)である。朝廷軍とは大君が統率する国民軍であ
るべきだ、という太子の理想が具現されていた。

しかし、筑紫の駐屯所で出兵準備の陣頭指揮をとっていた久目皇子が倒れた、との早馬が都に駆け上ってきた。久目皇子は
兄の太子に似て、すぐれた資質を持つ青年だったが、まだ20代と若く、軍を率いた経験もなかった。2万5千の兵を率いる
という過労と精神的重圧のためであろう。

>5 へ


233 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 23:52:18
■5.三国同盟、失敗す■

来目皇子が重病の床にあって、朝廷軍の出発が遅れている間に、推古10(602)年8月、百済軍が新羅を攻めた。
対する新羅は大部隊を繰り出して、立ち向かった。この時点で、日本の大船団が新羅沖に達していたら、挟み撃ちの形ができて、新羅
はこれほどの大兵力を対百済戦に集中投入できなかったはずである。百済軍は全滅に近い敗北を喫した。

来目皇子が推古11年2月に亡くなり、あらたに太子の異母弟・当摩皇子(たぎまのみこ)が将軍に任ぜられた。しかし、筑紫へ向かう途中、
身体の弱かった妃を亡くし、悲しみにくれた皇子は飛鳥の都に引き返してしまった。

この頃、こんどは高句麗が千人ほどの精鋭部隊を南下させたが、新羅は国王が陣頭指揮をとって、主力軍で迎えた。日本軍が海上から
攻めていればこそ勝ち目もあったが、単独では敵うはずもない。高句麗軍は戦わずして引き揚げた。

咋は愕然とした思いで、自らのまとめた三国同盟の失敗を見つめていなければならなかった。それもこれも盟主・日本の責任である。

咋は、太子に高句麗と百済の情勢を報告した。太子は「新羅を討つに兵を用いず」と一言、言われた。それが何を意味するのか、咋
が理解するにはまだ何年もの歳月が必要だった。

>6 へ


234 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 23:54:40
■6.「日出づる処の天子」からの国書■

太子の命によって、小野妹子(おののいもこ)が遣隋使として飛鳥の都を出発したのは、推古15(607)年7月だった。
筑 紫から百済を渡り、陸路、高句麗を経て、隋に入った。百済も高句麗も同盟国であり、何の危険もなかった。

小野妹子は隋帝に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや」という一文で始まる国書を
差 し出した。[a]

超大国、隋に対して対等な外交を申し入れたこの国書が、どれほど革命的なものであったかは、高句麗の嬰陽王が隋の大軍
を撃退した後に、差し出した国書と比べてみるとよく分かる。王は勝ち誇るどころか、自らを「遼東糞土の臣(糞尿にまみれ
た遼東の地を治めさせていただいている臣下)」と蔑んだのである。

九州ほどの大きさでしかない百済や新羅に比べれば、日本は大国であり、世界最大級の仁徳天皇陵を初めとする多くの前方
後円墳を作るなど、半島の三国とは桁違いの国力を持っていた。軍事的にも隋を上回る水軍を保有していた。その強国を、
高句麗討伐に手こずっている隋が、粗略に扱える余裕はなかった。

翌推古16(608)年8月、小野妹子は特使・裴世清以下12名の使節団とともに帰国した。隋帝からの国書は「皇帝から倭皇に
挨拶を送る」と始まる丁重な文面で、「皇(天皇)は海の彼方により居(まし)まして、民衆を慈しみ、国は安楽で生活は融和し、
深い至誠の心あり」と、日本の平和な国のありようを讃えている。

>7 へ

235 :日本@名無史さん:2006/10/27(金) 23:56:30
■7.新羅の焦り■

この動きに焦ったのが新羅である。隋の力を借りて朝鮮半島を統一しようという野望が一挙に覆された。その隋が新羅に
とっては夢のような大使節団を日本に送り、あっという間に対等な友好関係を結んでしまったのである。隋と日本、そして百済、
高句麗が結んだら、新羅は完全に孤立する。

新羅の真平(しんぺい)王は、隋帝に高句麗討伐の出兵を乞う書簡を送ったが、隋からはなんの返答もなかった。逆に高句麗は、
当分隋からの侵攻はない、と読んで、新羅を攻撃し、国境近くの山城を落として8千人を捕虜とした。

窮地に陥った新羅が調(みつぎ)をたてまつる使者を日本に送ってきた、と聞いたとき、大伴咋は自分の耳を疑った。しかも任那から
の使者を伴っている、という。新羅が任那を実効支配したのが、48年も前のことだった。以来、朝廷は任那を奪回すべく、何度も遠征軍を
派遣し、あるいは百済を軍事支援して新羅を攻めてきた。

新羅が支配する任那の使者などは、手の込んだ演出に過ぎないが、日本の要求通り任那を復興させ、その使者を伴ってきた、という形式を
とって見せたのだった。隋と対等に渡り合う日本の機嫌をとっておこう、という見え透いた戦術だった。

推古18(610)年10月、朝廷は数十年ぶりに新羅の使者を盛大に迎えた。7年前に太子が言われた「新羅を討つに兵を用いず」との言葉が
ここに現実のものとなったのである。

しかし、咋はこれで安心とはとても思えなかった。隋は高句麗への侵略をあきらめたわけではない。他国を属国としなければいられぬ侵略
国家である。わが国との友好を固めたのを機に、ふたたび高句麗侵略に出るに違いない。

>8 へ


236 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 00:00:12
■8.随の高句麗侵略と滅亡■

咋の心配通り、611(推古19)年に入ると、隋は113万の大軍を持って高句麗に襲いかかった。少し前の「ゲルマン民族
の大移動」が、総計50万人程度と言われているので、それに倍する軍勢である。しかし、あまりの大軍の長距離遠征に糧食
が続かず、わずか数万の高句麗軍が果敢な抵抗をしている間に、随軍は飢餓に襲われ、敗退した。

この後も、隋は二度に渡って高句麗を攻めたが、疲弊した国内で反乱や暴動が起こり、ついに618(推古26)年に滅亡してしまう。

その直後、隋の侵略からついに国を守りきった高句麗の嬰陽王は、戦勝の喜びの品々を日本の朝廷に送ってきた。その中に
は隋軍が運搬に使ったラクダもあった。高句麗の嬰陽王がこれらの品々をすぐに送ってきたのは、当然、日本への感謝があった
のだろう。日本の圧力がなければ、新羅が背後で蠢き、高句麗は随との戦いに集中できなかったはずである。

>9 へ

237 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 00:02:33
■9.わが国の防衛戦略の根本■

大和朝廷の朝鮮半島政策の根本は、推古天皇の父で、任那滅亡時の欽明天皇の遺言にあった。欽明天皇は、死の病床で
皇太子(第30代敏達天皇)の手をとり、「汝(いまし)、新羅を打ち、任那を封建すべし。また夫婦のように相和して、もとの
日のごとくならば、死すとも恨むことなし」と語ったのである。

新羅を攻め、領土を奪えと言うのではない。任那を再興し、新羅、任那、百済の三韓が平和的に鼎立してくれればそれで
良い。平和で安定した半島情勢こそが大陸からの脅威を防ぐ防壁となるというのが、わが国の防衛戦略の根本であった。「新羅
を討つに兵を用いず」という太子の戦略もこの一環で、隋の勢力を引き入れて半島統一を目指した新羅の野望を打ち砕こうと
いうもので、新羅そのものの打倒を目指したものではない。

近代においても、朝鮮半島に高句麗のように独立心旺盛で、安定的な国家が存在して、ソ連や共産中国の防壁となってくれ
ていたら、日清・日露戦争、満洲事変という歴史の流れも大きく変わっていただろう。そして中国と北朝鮮が、わが国の安全
保障上、最大の脅威となっている現代においても、この根本は変わらない。          (文責:伊勢雅臣)

http://blog.mag2.com/m/log/0000000699/107833566.html?js


238 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 00:04:55
古代も朝鮮は日本が支配していた!Part4
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/korea/1151729509/l50

古代も朝鮮は日本が支配していた!Part3 
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/korea/1147010043/ 


239 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 00:33:37
ご苦労様有名人さん!

240 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 00:40:05
>>237  リンク先で読んだが、なかなか読ませる文章ですね。
歴史観は私とほぼ同じだし、サヨク主流の学者が無視する資料も良く押さえている。
百済と高句麗の微妙な対立関係もそのとおりだと思う。
聖徳太子の国際感覚の理解も鋭いと思う。

ただ、コピベの連貼りは止めたほうがいい。てか、畿内王権に関係ない。

あと、百済の官僚に中国系、倭系が数名いたことにも触れていたら、より良し。
百済自身も大国の狭間でバランスを取っていたという視点も欲しい。

241 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 10:08:39
>>228

>どういう理由でって、そりゃ需要だろ。
>そういう要請があったから、行なわれた。
>君は、畿内王権の成立のトリガーを完全に読み誤っている。
>畿内王権の成立自体が、瀬戸内海流通の円滑化が希求されたもので、
>庄内以降、大陸から文物の流入が安定する。
>それまでは、流入が一時期停滞したり再開したりを繰り返していた。


結局、九州勢力が、畿内に流通を許した背景について、
何も説明できないではないか?

畿内は、「需要があった」という「仮定」のもとに、それが円滑で無いことから、
九州勢力は、瀬戸内海流通を妨げていたという「仮定」を提示。
大前提として、そこには「九州勢力が優位だった」という「仮定」が存在する。

「九州勢力が優位だった」なら、どうして畿内が突然九州を押さえつけることが出来たのか?
そろそろ明確な答えを出してくれ。


「九州勢力が優位だった」という仮定が、ただの既成概念だということに気がつけよ。
畿内勢力は、弥生時代後期からずっと九州より優位だった。
大陸の文物が少ないのは、それほどの需要が無かっただけ。
東日本の人口密度が高く、戦乱の痕跡が無いことが、政治が安定していた証拠。



242 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 10:28:23
>>228
>畿内王権の成立自体が、瀬戸内海流通の円滑化が希求されたもので、

加えて指摘するなら、瀬戸内海流通は、けして円滑で無いとは言えない。
鉄器は、播磨まで潤沢に流れてきている。
想像できるのは、瀬戸内海に海賊が出没していただろうということだけ。
播磨と大和が、貿易摩擦で対立していたという証拠も無い。

弥生時代後期、半島からの文物の交易は、播磨が終着地だった。
さらに丹波や東海との交易の利便性を考慮し、
大和川水系に交易の拠点を移し、「市場」が生まれたのだろう。
奈良盆地が開拓されると共に、文物が畿内にまで流通し、
「市場」をバネに王権が育ってきた。

順序をよく考えてみろ。
大和に王権が生まれてから、流通を要請したわけではない。
大和川に文物が流通する状況が生まれ、富が集中した結果、大和に王権が生まれたのだ。

強大な九州勢力が、流通を独占してることを妬んで、畿内勢力が結集して権力を奪ったなどというのは、
安っぽいSF小説のようなもの。


243 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 10:32:23












                                             焼き芋〜ホカホカ〜









244 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 15:02:44
>>241
>畿内は、「需要があった」という「仮定」

弥生後期、畿内の石器量の減少は、鉄器の普及があったからとされてるが。

>九州勢力は、瀬戸内海流通を妨げていたという「仮定」を提示。

実際、弥生期畿内への大陸物資の流入は増えたり減ったりしている事実がある。
先にも書いたのだが。

245 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 15:05:55
>>242
>弥生時代後期、半島からの文物の交易は、播磨が終着地だった。

ふつう、唐古鍵を終着とするけどね。
立地的に言って、マキムクも唐古鍵も殆ど一緒。地図を見てごらん。

246 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 15:08:29
大陸側の事情ということは無いの?
又は妨害したというより、九州に紛争や災害があって、物を送れる状況に無かったとか。

247 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 15:15:22
>大和に王権が生まれてから、流通を要請したわけではない。
>大和川に文物が流通する状況が生まれ、富が集中した結果、
>大和に王権が生まれたのだ。

これについては全く同意見だが。
しかし、弥生後期、唐古鍵までの話だな。
各地に生まれた拠点集落の首長たちはこのように説明出来るだろう。

弥生後期後半、倭国各地で王権が次々に誕生してくるのは、遠隔地交易の需要の
高まりから、強大な権威が必要とされたため。
言えば、流通の安全性を保障するような広域の王権が要請されたと考えるべき。
流通が権威を要請するというのが、庄内期に起きた出来事。

248 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 15:23:35
>結局、九州勢力が、畿内に流通を許した背景について、
>何も説明できないではないか?

北部九州も畿内も、同じように大陸と交易しただけだろ。
何故、どちらかの独占でないと駄目なのか?
何か思い込みがあるよな。

確かに昔は北部九州が流通を独占していて、それで莫大な利益を
上げていたのが、畿内勢力の参入で、徐々に北部九州が衰退していく。

あとさ、西新町遺跡とか知ってるよね? 一応念のため聞いておくが。

249 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 16:31:43
>>244
>弥生後期、畿内の石器量の減少は、鉄器の普及があったからとされてるが。

畿内で、石器量は減少してないはず。


>>245
>ふつう、唐古鍵を終着とするけどね。

播磨に比べて、唐古鍵に鉄器が少なすぎることを、どう説明する?

250 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 17:33:11
>>249
>畿内で、石器量は減少してないはず。

もうちょっと勉強してから書き込んでねw

251 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 18:38:16
弥生時代後期、畿内でも石器量は減少してる。
これをもって、畿内にも鉄器が導入されていた根拠になる。

よって、九州が鉄器を独占していたという仮説も成り立たない。
九州が優位だったという仮説も成り立たない。

九州の独占的支配による鉄の供給不足が倭国大乱を招いたとか、
畿内が鉄輸入ルートを確保し、再配分によって王権を築いたとか、
40年前では言われていたが、現在では主流ではない。


252 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 20:33:06
>>251
軌道修正したようだな。

確かに、今まで鉄を過大評価し過ぎた嫌いはある。
鉄が希少で、需要が高かったのはそうだが、
鉄の多寡=国力ではない。当たり前の話なんだが。
昔はイコールとされていたんだよな。

253 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 20:42:04




見事なニート自作すれだね









254 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 21:25:22
>>251 それも、20年以上前の畿内説の考え。

畿内の鉄だけ腐食しやすいとか、畿内の鉄だけリサイクルされていたという考えで、
出土量の圧倒的不利をくつがえすのは、やっぱり無理だと思う。

鉄は古代ではそれ自体重宝されていたから、素材としての鉄であっても、表面に
焼きを入れて加工したり、墳墓に入れたりしている。畿内で見つからないのは、
持っていなかったからと考えた方がいい。


255 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 21:32:03
>>254

1、「鉄が欲しくても、九州に意地悪されて手に入らなかった」
2、「鉄はあれば便利だが、当時の畿内で、それほど需要が無かった」

昔は1の考えが主流だったろうが、実際は2と考える。
東国ではもっと鉄は無かったが、何度も指摘されるように、
人口密度は東国の方が多い。

東国の人口が多いということは、九州と比べて生活に不自由で無いということに他ならない。



256 :日本@名無史さん:2006/10/29(日) 17:01:18
庄内の頃の話が多いな。
むしろ、畿内王権の画期は布留0だろ。
箸墓とホケノの間には明らかな差異がある。

庄内の初めに大和川水系の首長連合が誕生し、三輪山の神官をオウに選定。
マキムクに都を築く。
布留0に、何代か後のマキムク王が、淀川水系や吉備、東瀬戸内、東海、筑紫に
共立され倭国王となる。箸墓に埋葬され、ここに初期ヤマト政権が誕生した。

257 :日本@名無史さん:2006/10/29(日) 17:11:49
水運は琵琶湖と繋がる淀川の方が盛んだったはずなのに、
どうして大和川に王権ができたんだろうね?

若狭湾と琵琶湖は繋がってないから、淀川は重要じゃなかったのかな?


258 :日本@名無史さん:2006/10/29(日) 17:26:46
>>257
淀川にも王権が出来てたでしょ、おそらく。
椿井大塚山とかがあるんだし。

畿内と一口で言っても、大和川水系、淀川水系、紀ノ川水系の三つに
分けて考えるべきだろう。
この三つの勢力の離合集散が以後、ヤマト政権の歴史となっていく。

259 :日本@名無史さん:2006/10/29(日) 18:00:29
>>258
こんな感じ?

大和川水系→三輪勢力
紀ノ川水系→葛城勢力

淀川水系は、どんな勢力だろう?


260 :日本@名無史さん:2006/10/29(日) 18:08:29
奈良盆地に拡がる湿地帯を開墾するという一大プロジェクトが
後世言われるところの「ヤマト政権」の実態。
各地のオウが共同してこのプロジェクトを運営したようである。
各地から技術者、労働力、鉄器が集められ、大規模人工灌漑を行なう中、
東洋的専制国家が生まれた。

各地から大量に集まった労働力を扶養するため、東海や東瀬戸内などから
壺に入れられた保存食料が搬入されたようである。

この同じようなプロジェクトは後年、河内潟で繰り返されることとなる。

261 :日本@名無史さん:2006/10/29(日) 18:12:15
淀川水系の古い豪族は、和邇氏かな?

262 :日本@名無史さん:2006/10/29(日) 18:14:26
>>260
かなり強引な主張だけどw、国家の成り立ちとしてはそうだろうね。

筑紫の王権が、大陸との交易で富裕化した商人層だったのとは違い、
大和の王権は、基本的に内陸部の農業国家、灌漑工事を主導した
リーダーだったとは思う。

263 :日本@名無史さん:2006/10/29(日) 20:11:16

☆☆☆ニートウニョウニョ時間にレスしていると狙われるよ!☆☆☆


ニートウニョウニョ時間=ニートばかり活躍する時間(暫定)

毎日24:00〜日の出
平日9:00〜12:00
平日13:00〜17:00





264 :日本@名無史さん:2006/10/29(日) 20:18:56
淀川水系を利用してたのは、越・美濃・尾張なんじゃなかろうか?
その勢力を背景に、後に、継体天皇が擁立される。

孝昭天皇の皇后・世襲足媛は尾張系だから、
その頃から淀川水系が、奈良の開拓に参画してたということだろう。

265 :サガミハラハラ:2006/10/30(月) 12:46:28
>>262 筑紫の王権が富裕化した商人層というが、普通商人は都市に居住するものであるが、
その都市の場所と邪馬台国との関係は?

266 :日本@名無史さん:2006/10/30(月) 14:20:33
>>265
質問の意図が分からない。
大和が内陸部の農業国家で、筑紫が海商国家であったという主張に、
反論があるの?

267 :日本@名無史さん:2006/10/30(月) 14:21:10
先に板違いお詫び致します

既に皆さんご存じかもしれませんが
【鴻上】2ちゃんで一度調べて見て下さい
※ご返答は要求致しません

268 :サガミハラハラ:2006/10/30(月) 15:45:09
筑紫に海商国家があったことには異存ありませんが、あなたは王権といっています。
その王権が邪馬台国のことなのか、だとすればその場所はということです。
また筑紫の王権の筑紫とは、筑紫一国を支配する王がいたのか、諸(王)国が存在したのかということもお尋ねします。

269 :日本@名無史さん:2006/10/30(月) 20:24:47
>>268
邪馬台国の話をすると荒れるからなw
俺は畿内説だし。

当時の倭国の状況からして、クニやオウとか言っても、実際は拠点集落の
首長の連合政権だろうし、筑紫もそうだったと思うよ。
倭人伝でも多くの国名が列挙されてるしな。

対外交易路を掌握していた玄海灘沿岸部の伊都国・奴国が盟主となって、
広形銅矛を共通の祭器として緩やかな連合体制をとっていたのだろう。

270 :日本@名無史さん:2006/10/30(月) 21:41:50
>>268
このスレは、邪馬台国の所在を探すスレではない。

邪馬台国を語りたいなら、他へ行け。

271 :太国:2006/10/30(月) 23:19:47
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272 :サガミハラハラ:2006/10/31(火) 07:59:38
畿内王権の成立を論ずるにおいて、邪馬台国の存在はきわめて重要だと思いますが。


273 :日本@名無史さん:2006/10/31(火) 08:24:43
>>272
倭人伝(邪馬台国)<考古学(ヤマト王権)というのが、このスレ。
倭人伝恣意解釈、妄想垂れ流し、考古学に対する誹謗中傷など、
このスレの住人は飽々してるんだよ。

274 :日本@名無史さん:2006/10/31(火) 09:27:25
>>272

「九州の邪馬台国に対抗して、畿内王権ができました」

これで、満足したろ。他のスレへ逝け。

275 :太国:2006/10/31(火) 09:41:51
>>271
ニセ犬王!

276 :日本@名無史さん:2006/10/31(火) 10:01:57
畿内王権を考える上で、国府遺跡や城山古墳って面白そう。


277 :日本@名無史さん:2006/11/01(水) 23:38:19
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278 :日本@名無史さん:2006/11/04(土) 23:25:45
畿内王権の成り立ちについて、外部主導説の人はどれ位いるの?
古くは筑紫、吉備。今は東海、東四国あたりか。
ホケノとか、完全に阿波の墓制だし、阿波出身の人が埋葬されてるのか、
とも思う。

279 :日本@名無史さん:2006/11/04(土) 23:37:52
畿内王権とはいえ、その実、有力豪族の連合政権。
おそらく大王位の持ち回りがあったのだろう。
阿波のオウがマキムクで即位、大王だった時期があってもおかしくない。

280 :サガミハラハラ:2006/11/05(日) 15:49:42
持ち回りでないという文献はあっても、持ち回りであったという文献はありません。
阿波のオウ云々はあったらおかしいです。

281 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 16:48:57
今時、万世一系とか流行らないよ。もしくは大和中心史観ですか?
ホケノの阿波の影響の強さから、被葬者が阿波出身の人では?って普通に言われてるし。
例えば桜井茶臼山、メスリ山は大王墓に相応しい規模だが、
柳本の造墓集団とは別系統とされている。
時代は下るが、吉備の造山とかも、明らかな大王墓だろうし。

282 :太国:2006/11/05(日) 16:54:29
神武天皇から分断のない流行だ。天津神定めたまひし・・・。

283 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 17:05:35
>>282

「流行」かw

血統が違っても「万世一系」と唱えてりゃ問題はないっーことだね。

太にしてはまともなことを言うじゃないかw


284 ::日本@名無史さん :2006/11/05(日) 17:37:07
>>274
ちがうよ。
「九州から山口あたりにかけてあった朝鮮勢力に対抗して畿内に邪馬台国が
出来ました」だよ。西国ってのは外国だったの。

285 ::日本@名無史さん :2006/11/05(日) 17:42:04
だから中国地方のある地域までは朝鮮式の城郭が今もはっきり残ってる。
明らかに違う勢力だったんだよ。日本じゃなかったの。


286 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 17:49:33
寺沢が言ってたように、庄内の初めに外部勢力の畿内土着が始まったのだろう。
最初はマキムクの大王に直接仕えるために、兵を率いて来ていた地域の首長たちが、
やがて畿内の有力豪族となった。
あとは、何故、大和のマキムクに、そのような大王権力が生まれたか?
もしくは何らかの時代の要請があったのか?だ。

287 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 18:09:19
>>286
昔は畿内王権の成立を、先進で強大な筑紫に対抗するためと
されてたよな。
ただ、筑紫を過大評価していた、というのが昨今の風潮。

俺自身は、前に書いたが、《大和王権》とは奈良盆地開拓プロジェクト
だったんじゃないかと考えている。

288 ::日本@名無史さん :2006/11/05(日) 18:17:33
ヒミコはポリネシアン、曽我氏も蝦夷も同民族。沖縄人やアイヌといっしょ。
その頃から既に対馬を中心に同心円状の朝鮮文化圏が形成されていた。東の
縄文人文化圏とぶつかる地点が畿内か摂津あたり。瀬戸内海が地中海みたいなもん。
九州の南部まで中心舞台だったら、顔の濃い連中はとっくに淘汰されてるから。


289 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 18:32:55
良かったな、おめでとう。
ついでに中国も説得してくれんか、未だに万里の長城があるつもりだ
故地はシベリアだと教えてくれ。

290 ::日本@名無史さん :2006/11/05(日) 19:06:42
>>289
288を否定してみて。

291 :日本@名無史さん:2006/11/05(日) 19:21:54
>>287
大和王権=開拓プロジェクトというのは面白い発想。

しかしまあ、普通に、瀬戸内海交易路の安全を保障する権威として、
大和王権の存在が要請されたと思うがな。

東瀬戸内での広域的権威の模索は、楯築の頃から始まっており、
別に奈良盆地が最初じゃない。
瀬戸内海に集中する高地性集落の分布を見る限り、瀬戸内海沿岸部は、
政治的混乱の時期が繰り返しあったらしい。
それを収める手段として、三輪山祭祀、太陽信仰の神官が共立され、
大和王権が誕生した、と。

292 :日本@名無史さん:2006/11/07(火) 00:13:53



期待されて生まれて
ニートとして死ぬのか


社会にとって、ニートは要らない物なんだね。
掃いて捨てても、何も困らないんだね。






293 :日本@名無史さん:2006/11/08(水) 02:02:30
いや
捨て場に困るわけだが

294 :日本@名無史さん:2006/11/13(月) 21:05:27
>>1
スレ立てたんだから、盛り上げてくれよ。

295 :日本@名無史さん:2006/11/13(月) 21:43:35
いつの間にかこんなスレが・・・・

で、ここ再利用でいいの?

296 :日本@名無史さん:2006/11/13(月) 23:44:39
九州が来るとウザイからsage進行でよろしく。

297 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 08:03:42
sage進行というが、見たところ進行してるようにはみえない
ゴミスレが一つ増えただけ

298 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 08:35:46
結局、邪馬台国絡めないとスレが盛り上がらないことを、露呈したわけだな。
1はそのことを真摯に受けとめた方がいい。

考古学では大体結論が出てるし、あとはどうやって実年代(倭人伝)と
擦り寄せていくかの作業。
C14とか年輪の成果待ちの状態。
結果的に庄内開始が二世紀半頃まで遡るとは思うが。
布留0が250年頃で箸中山が卑弥呼の墓。那珂八幡が奴国、赤塚が不弥国、浦間茶臼山が投馬国など、
倭人伝の記述の国々を比定していくことも可能。

299 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 09:23:11
>>298
>結局、邪馬台国絡めないとスレが盛り上がらないことを、露呈したわけだな。

スレが盛り上がる=電波を呼び込むでは困る。
現状で結構。

電波は「かまって君」だから、真面目な話をするには、閑散としていたくらいが丁度いい。

>倭人伝の記述の国々を比定していくことも可能。
他の倭人伝スレでやれ。


300 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 11:08:11
>>298-299
畿内王権の成立とその前後の過程において特に重要なのは成立に至る過程であり
>>298のような論述を排除することはできない。ただ、議論が九州で停滞するのは
趣旨に反するというのはわかる。が、吉備、投馬国は不可欠だ。

301 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 11:53:59
韓半島からの渡来人が増大した時期に初めて畿内は国家の体をなしたね
動かせない真実から目を背けるな


302 :サガミハラハラ:2006/11/14(火) 12:02:05
国家の体をなしたのは、崇神天皇の時代です。
ですからハツクニシラススメラミコトとよばれるのです。

303 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 12:35:20
>>302

五世紀後半〜六世紀初頭

304 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 12:39:08
列島で、国家体制が整ったのは『宋時代』
倭王武が上表し、初めて『倭国』と認められた。
だから『倭国伝』

305 :太国:2006/11/14(火) 12:51:30
新年元旦の意味が神武のハツクニで、さあこれから仕事が始まるぞとその年
初出勤の正月三が日後〜7日過ぎの活動開始が崇神のハツクニの時代のことだ。

306 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 14:00:31
>>299
実際スレが閑散としているのは1の責任。

307 :サガミハラハラ:2006/11/14(火) 14:03:41
崇神天皇の時代は3世紀末期です。

308 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 15:04:29
>>306

そらみろ。九州を呼び込むだけじゃないか。
賑やかなスレが好きなら、他の邪馬台国スレに逝け。

309 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 15:08:50
247年-248年頃卑弥呼、モモソヒメが死んでから相当在位したことであろうから
3世紀中葉の初代天皇。

310 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 15:52:25
初代天皇は 神武
(カムヤマトイワレビコ)

311 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 16:31:59
初代はハツクニシラススメラミコト

312 :太国:2006/11/14(火) 16:48:49
崇神の時代は3世紀ころです。

313 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 21:38:17
>>308
サゲ進行ならサゲ進行で構わないけど、1には立てたスレをそれなりに
盛り上げる義務があると思いますが。
その力量が無いならスレを立てるなと。

314 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 22:03:37
>>313

盛り上げれば、九州説を呼び込んで荒れるだけです。
現状認識ができないのですか?

暇つぶしがしたいなら1を煽ってないで、他の邪馬台国スレで遊んでくればいいでしょう?

315 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 22:28:20
その前に邪馬台国、畿内王権がらみの擦れがどれだけ林立してるか自覚してくれ。

316 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 22:51:09
乱立してるスレは、全部九州説に乗っ取られて機能してないだろ?

317 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 23:19:08
九州説つーか、太国にだな。

318 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 23:30:52
そうそう。邪馬台国スレ乱立させるのは馬鹿馬鹿しいこと。
以後注意してくれ。

319 :日本@名無史さん:2006/11/14(火) 23:59:53
>>316
スレを立ててはのっとられ、新スレを立てるの悪循環。学習しろよ。

320 :日本@名無史さん:2006/11/15(水) 10:48:54
>>319

おまえは、何様なんだ?
そんなに畿内王権の話がしたければ、おまえが何か情報を提供しろよ。

過去に九州説厳禁のルールでスレ立てしても、九州はルールを破って押しかけてきただろ。
どういう学習をしろと言うのか、教えてもらいたい。

よし、わかった、悪循環にならないスレ立てについて話をしようじゃないか。


321 :日本@名無史さん:2006/11/15(水) 21:53:10
スレ運営能力のない、学識のない1は、スレを立てないこと。
間違えて立ててしまった場合は、そのスレを消費するまで、
他のスレを立てない

322 :日本@名無史さん:2006/11/15(水) 21:57:37
>>321

新手の荒し認定。
畿内王権スレをどうしても妨害したいらしい。

323 :日本@名無史さん:2006/11/15(水) 22:44:52
>>322
進行が完全にストップしているスレを、どうやったら妨害出来るんだ?w

324 :日本@名無史さん:2006/11/26(日) 15:55:33
葛城について考えて見ます。

奈良盆地の東端を、三輪一族の勢力と例えるなら、
西側を支配していたのは、葛城一族だったでしょう。

葛城山麓には、高天と呼ばれる地があり、高天彦神社があります。
祭神はタカミムスビです。
葛城氏の祖神であります。

全国で、「高天」と名前のある由緒ある地名はここだけです。
記紀神話の「高天原」の呼称の由来になったことは明白です。
近くにある香具山も、高天原から降ったされています。
記紀神話の舞台は、大和を中心とし、葛城氏によって伝承されてきた神話と言えます。



325 :日本@名無史さん:2006/11/26(日) 16:17:15
古墳時代初期の奈良盆地東端では、
東大寺山古墳群、大和古墳群、柳本古墳群、纏向古墳群と、
4群の古墳群がつくられました。

これは、当初、奈良盆地で勢力を持っていた豪族が、
少なくとも4グループあったことを示唆しています。

丁度、その山麓には、石上神宮、大和神社、檜原神社、大神神社と有力な神社が4つあります。


326 :日本@名無史さん:2006/11/26(日) 16:24:43
>>325
南の方に茶臼山、メスリ山なんてのもあるよ

327 :日本@名無史さん:2006/11/26(日) 17:05:32
葛城地方にはどうして古墳群が無いのでしょうか?

古代の人々は、転々を都を移動させていました。
そう考えると、葛城の人々が、纏向へ移って、北へ勢力を伸ばしていったとも思えます。
大和で最初に勢力を持ったのは紀の川水系の人ということになります。

328 :日本@名無史さん:2006/11/26(日) 17:18:07
葛城から、纏向へ王家が移動したなら、
葛城が高天原と呼ばれ、神々の故郷とされるのも頷けます。

329 :日本@名無史さん:2006/11/26(日) 17:25:04
銅鐸が多く発掘されるのは、
阿波・摂津と、大阪湾周辺です。
国生み神話でも淡路島が早く生まれるので、
記紀神話の成立もこの頃、この地域と見てよいでしょう。


330 :日本@名無史さん:2006/11/26(日) 17:30:03
奈良盆地からは銅鐸がほとんど出ないので、
弥生時代後期まで寒村ばかりで未開拓だったのでしょう。
そこに、葛城から開拓が始まったのだと思われます。
すでに銅鐸文化を捨てた人々によって。

331 :日本@名無史さん:2006/11/26(日) 17:37:40
面白いことに、近畿で銅鐸がよく出土する地域と、古墳がよく作られた地域は一致していません。

顕著なのは阿波・淡路島で、銅鐸、同剣はよく出るのに、古墳は作られませんでした。
一方、奈良では、銅鐸が出ないかわりに古墳が多く作られました。

阿波の人々が銅鐸を作るのをやめて、奈良で古墳を作り始めたと考えたくなります。
そのへんどうですか?


332 :日本@名無史さん:2007/01/06(土) 18:30:39


333 :日本@名無史さん:2007/01/07(日) 03:17:39
太国ってメチャクチャだなw

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