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【シベリア抑留】ソ連軍による拉致強制労働 part3

1 :日本@名無史さん:2006/10/03(火) 17:15:12
 ●ウイリアム・ニンモ(米国の研究者)著ー「検証ーシベリア抑留」
 ・「1945年8月ソ連の管理下にあった日本人の人数は、272万6千人、確認済みの死者
 は25万4千人、行方不明・推定死亡・その他は9万3千名で、事実上、約34万人の日本
 人がソ連によって殺された」
 ●シーボルト(対日理事会の米代表)
 ・夥しい数の日本人捕虜がシベリアで虐殺されたとして、日本側の資料を用い、次の数字
 をあげている。1945年だけで、27万2349人が死んだ。1945年から1949年までの
 4年間で、ソ連での日本人捕虜の死亡者は、実に37万4041人にのぼる。
 37万人を超える日本人捕虜がシベリアで殺された。死亡原因は疾病、野外留置、衣服の
 不足、栄養失調、極寒時の強制行進、過酷な労働とされている。広島、長崎の原爆を
 上回る我が同胞が、まさにスターリンによって虐殺された
 ●今立鉄雄氏ー「日本しんぶんー日本人捕虜に対するソ連の政策」
 ・「終戦時、ソ連の占領した満州、樺太、千島には軍民あわせ約2百72万6千人の日本人
 がいたが、このうち約107万人が終戦後、僅か9ヶ月間にソ連の為、シベリアに送られた。
 推定ながら、シベリアの野に失った40万人の人々とその遺族の胸中を思いやっている」


★過去スレ、関連スレ

【シベリア抑留】ソ連軍による拉致強制労働の実態
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1060569789/ ~181   @日本史
http://mimizun.com/cgi/dattohtml.pl?http://mimizun.com:81/log/2ch/history/academy3.2ch.net/history/kako/1060/10605/1060569789.dat
【関東軍】ソ連の強制連行【シベリア抑留】2
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1147157338/ ~192       @軍事
http://mimizun.com/cgi/dattohtml.pl?http://mimizun.com:81/log/2ch/army/hobby7.2ch.net/army/kako/1147/11471/1147157338.dat

2 :日本@名無史さん:2006/10/03(火) 17:15:59
■関連サイト
村山常雄のシベリア抑留中死亡者名簿
http://yokuryu.huu.cc/
北斗七星は大きかった
http://www.ne.jp/asahi/home/hirakawa/hokuto-top04.html
今見るシベリア強制抑留の真実 : 群馬県議会議員 中村紀雄
http://homepage3.nifty.com/kengi-nakamura/siberia/
『異国の丘』とソ連・日本共産党(2)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/siberia2.htm
劇団四季 ステージガイド 異国の丘
http://www.shiki.gr.jp/applause/ikoku/index.html
ウクライナ人捕虜から見た日本人捕虜
http://www.mii.kurume-u.ac.jp/~abe/jaus8.html
ys 櫻井よし子webサイト!  「 忘れるな、ロシア人の蛮行 」 「 ロシアにだけは言われたくない 」
http://blog.yoshiko-sakurai.jp/archives/2005/11/post_396.html
http://blog.yoshiko-sakurai.jp/archives/2005/12/post_398.html
ETV特集 知られざる悲劇 「第2部・北朝鮮に送られたシベリア抑留者」
http://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2005/1022.html

3 :日本@名無史さん:2006/10/03(火) 17:18:54
 ●スターリンの罪はいくら告発しても告発しきれない。悪質かつ最大の戦争犯罪人は
  スターリンである。
 ●許せぬ日本人墓地破壊命令
 ●ソ連による抑留日本人105万人、虐殺40万人の衝撃
 ●満州で無法の限りを尽くしたソ連軍
 ●在満法人を襲った生き地獄


 ●アルハンゲリスキーの解明
 ・マリクがモロトフに宛てた文書では、「1946年12月4日付け政府決定に従い、ソ連から
 の日本人の本国帰還が緒に就いた。本国帰還該当者105万2,467人のうち既に
 10万  1,075人が送還された」
 ・1947年3月5日付けの対日理事会でビジョン米代表が、日本捕虜帰国の現状に言及し、
 ソ連領内にまだ105万301人の日本人が残留していると述べたところ、1947年3月27
 日付けのマリクからモロトフ宛ての書簡では、ビジョンに反論するため「1947年3月5日
 現在ソ連内にいた軍人及び民間人の日本人は総計約70万人」としたのである。折りしも
 東西冷戦が本格化した時期で、以後、鉄のカーテンに阻まれ、抑留者の数、死者の数と
 も曖昧にされていく。
 なぜ、こんな隠蔽工作をしたのかといえば、1945年から1947年にかけて大量の日本人
 がシベリアの地で死亡したからだ。とくに1945年から46年にかけての冬、シベリア全土
 を異常な寒気が襲い、日本人抑留者の命を次々と奪った。防寒服も防寒用の靴もなく、
 布テントに収容され、しかも食料も十分に与えられなかった日本人捕虜たちはひとたまり
 もなくシベリアの冬将軍の餌食をなった。

4 :日本@名無史さん:2006/10/03(火) 17:20:00
 ●アルハンゲリスキー著 「シベリアの原爆」 邦題「プリンス近衛殺人事件」
 ・シベリアでのソ連の犯罪を告発したもの。
 ・ヒトラーの悪行さえかすんでしまう、スターリンの悪行を白日の下に晒すことになった。
 ・日本人捕虜の大量死亡を隠し、国際世論をかわすためにクレムリンが日本人の埋葬地
  さえ後に破壊したという聞くに絶えない事実が明らかにされた。
 ●アルハンゲリスキー氏とは
 ・1929年生れ、70年代には政府機関紙「イズべスチャ」の副編集長に就任した花形ジャ
  ーナリストで、ソ連ジャーナリスト同盟議長、ソ日協会副会長などの要職も務めた輝かし
  経歴の持ち主。この経歴を見てもわかる通り、アルハンゲリスキー氏はソ連政府・ソ連
  共産党からの信任も厚く、現役記者時代にはクレムリンの奥深くまで取材を自由に許さ
  れ、ブレジネフやフルシチョフの謦咳に接する機会を何度も持っていた。いうなれば、ソ
  連体制内で功なり名を遂げた人物。この老ジャーナリストが、なぜ、故国の恥部を晒し、
  日本人も及ばないほど激しく追求し、弾劾・告発するに至ったか。その答えは、彼の少
  年時代に遡る。アルハンゲリスキー氏は、少年時代からソビエトの共産主義体制や
  共産党の教義に内心で疑問を抱いていた。ソ連の現体制に懐疑的な考えを抱きながら、
  アルハンゲリスキー氏が少年兵として独ソ戦に加わったのは13歳の時だった。・・・・
  独ソ戦は彼の家族も奪った。父親、兄弟のほとんど全員を失い、遺骨はおろか、消息
  までも一切わからない。記憶を取り戻したアルハンゲリスキー氏が親兄弟の行方を知
  りたい一心で、国防省関係の文書保管所に入ったのが、そもそもの始まりである。
  肉親の消息は杳として知れなかったが、数々の機密文書に触れるうちに、ソ連の圧制に
  苛まれ、圧殺された近衛文隆氏に関する機密文書に遭遇し、日本兵のシベリア抑留問
  題に横たわる暗部に触れた。

5 :日本@名無史さん:2006/10/03(火) 17:22:38
■関連著書
『 プリンス近衛殺人事件』 V.A. アルハンゲリスキー (著) 新潮社
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/410540301X/qid%3D1060583650/250-1422702-8180237
・抑留者の実数は百万以上
・シベリアの“ヒロシマ”と三十七万人の犠牲者

大戦終結後、ソ連は大量の日本人を強制抑留し、シベリアの奴隷とした。その中に、
五摂家筆頭近衛家、元首相近衛文麿の嫡子、眉目秀麗のプリンス、近衛文隆がいた。
果てしなく続く「尋問」という名の苛烈な洗脳。ソ連首脳部はいったい何を目差していたのか。
シベリア抑留の真実とは。ソ連崩壊後、ロシア人ジャーナリストにより奇跡的に入手された
膨大な新史料による衝撃のノンフィクション。

抑留者の実数は百万以上

サスペンス小説の様なタイトルだが、膨大な資料に基づく実話であり、原爆犠牲者数を
遙かに上回る、民間人を含めて200万人以上という日本人シベリア抑留の実体を明らかに
した第1級の資料である。近衛文麿の嫡男にして、細川護煕元首相の叔父にあたる、
主人公近衛文隆がいかに逮捕拘留され、極寒の収容所でどのような扱いを受けたのかを
たどりつつ当時のソ連や軍部の体制を暴露、弾劾する書である。

 ●アルハンゲリスキー著 「シベリアの原爆」 邦題「プリンス近衛殺人事件」
 ・シベリアでのソ連の犯罪を告発したもの。
 ・ヒトラーの悪行さえかすんでしまう、スターリンの悪行を白日の下に晒すことになった。
 ・日本人捕虜の大量死亡を隠し、国際世論をかわすためにクレムリンが日本人の埋葬地
  さえ後に破壊したという聞くに絶えない事実が明らかにされた。

『対日工作の回想』 イワン コワレンコ (著), 清田 彰 (翻訳), 加藤 昭 文藝春秋
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4163522603/qid%3D1131346012/sr%3D1-1/ref%3Dsr%5F1%5F2%5F1/250-6513278-4755410

6 :日本@名無史さん:2006/10/03(火) 18:03:09
抑留者名簿をHPで公開へ
厚労省、4万人分

 第二次大戦後に旧ソ連やモンゴルに抑留されたまま死亡した軍人・軍属ら約4万2千人の
名簿について、厚生労働省は21日までに、同省ホームページ(HP)で公開する作業に入った。
年度内にも実現する見通し。
 名簿は1991年から同省や各都道府県で閲覧できるようになっているが、自治体によっては
個人情報保護法や条例を理由に「遺族以外の閲覧は認めない」と拒んだり、名簿を倉庫に
保管して窓口対応ができないなどのケースがある。

(日経06・06・21夕刊)

7 :日本@名無史さん:2006/10/03(火) 18:04:06
6万人を超える犠牲者

◆ ソ連の東洋アカデミーのキリチェンコ研究員は、シベリア抑留について「64万人を抑留
し、そのうち6万4000人が死亡した」と述べている。
一方、昭和30年6月17日の外務省発表は、終戦当時に満州、北朝鮮、千島、南樺太に
居住していた軍民合わせて272万6000人のうち57万5000人がソ連軍によってシベリア、
外蒙古、中央アジアに移送されたとしている。
これとは別に留守業務部の資料では54万1500人が移送されたとなっていて、正確な
抑留者の人数は今もって分からない。
◆ しかし、昭和21年12月19日に締結された「日本人引揚に関する米ソ協定」によって
開始された抑留者の送還は、昭和25年4月22日にソ連側から47万1000人の送還を
もって完了したと発表された。
実際には昭和29年3月までに1231人、昭和30年4月に88人、そして昭和31年12月26
日に最後の引揚者1025人が帰国したので引揚者の総数は47万3000人余りとなった。

◆ 外務省発表を根拠にすれば、未帰還者は10万2000人、留守業務部の資料を根拠に
すれば未帰還者は6万8500人になる。この数字は現地からの逃亡・行方不明、戦犯と
して中国に引き渡された数を含んでいるから、抑留中に死亡した数は6万人を下らないと
判断するのが妥当と思われる。

8 :日本@名無史さん:2006/10/03(火) 18:04:53
【戦争】日本人捕虜帰還で米ソが激論=シベリア抑留問題に新資料
http://news5.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1066222850/

第2次世界大戦後、60数万人の日本軍将兵が旧ソ連各地で強制労働に服した
シベリア抑留問題をめぐって、戦後米ソ両国が交わした外交交渉の全容が、解禁
されたソ連公文書で明らかになった。
ロシアの日本専門家、エレナ・カタソノワ東洋学研究所研究員がこのほど出版
した「ソ連における日本人捕虜−大国のゲーム」で公表した。米国が終始日本人
捕虜の早期帰還を要求したのに対し、抑留者を「労働力」として重視するソ連が
帰国引き延ばしを図った交渉の舞台裏がソ連側資料で描かれている。
同書によれば、1945年9月初めの米ソ外相会談で、当時のモロトフ・ソ連
外相は「米国はなぜ日本人捕虜を帰国させるのか。労働力として利用しては
どうか」と持ち掛けた。
抑留問題は46年2月に東京で発足した連合国側の占領政策調整機関、対日
理事会で激しい論争になり、米側は長期抑留はポツダム宣言違反と非難。
ソ連代表は在日朝鮮人の帰還が先決と主張、移送船の燃料不足を挙げて問題を
先送りした。50年2月の理事会で、米側は日本人捕虜の現状に関する情報
機関作成の報告書を提出。ソ連が資料の正確さに衝撃を受けたことも分かった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20031015-00000872-jij-int

日本人捕虜帰還で米ソが激論=シベリア抑留問題に新資料

第2次世界大戦後、60数万人の日本軍将兵が旧ソ連各地で強制労働に服した
シベリア抑留問題をめぐって、戦後米ソ両国が交わした外交交渉の全容が、
解禁されたソ連公文書で明らかになった。
http://www.jiji.com/cgi-bin/content.cgi?content=031015144605X872&genre=int

大戦当時、米露ともに「田中上奏文」が本物だと思いこんでたのだが、
米が捏造だと東京裁判の証拠収集の時点で気付いたのに対し、
ソ連=ロシアは今日ですら、研究者のほとんどが今だに本物だと信じ込んでるらしい。

●謀略文書・田中上奏文  http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-44-4.html

9 :日本@名無史さん:2006/10/03(火) 18:05:36
スターリンらは、忠臣蔵のイメージなのか、日本人というのは復讐心に富んだ民族であり、
大戦時の不法行為への復讐を復興後やるに違いないと偏見を持っており、
日本軍人を大量に捕虜にして強制労働させ、衰弱死させて、その力を決定的に割こうと
いう国際法にも人道にも反する野蛮な計画を立てていた。だから、米よ、お前等もなぜ
そうしないのか?という見当違いのソ連の疑問につながっている。
この田舎者・鬼畜民族の発想は常軌を逸しているね。ドイツや満州での鬼畜強姦作戦も
同じ発想に基づくサディスティックな衝動だった。

“スターリンが対日参戦を決意した日”
  ―ソ連の戦後対日政策はここから始まった
日露関係疎遠の遠因・スターリンの歪んだ日本観は、三冊の本から形作られた

横手慎二  『中央公論』03・10月号 http://www.chuko.co.jp/koron/back/200310.html

10 :日本@名無史さん:2006/10/03(火) 18:07:41
【ロシア】日本人5268人、北朝鮮に残留=大半が死亡か−シベリア抑留新資料[08/27]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1156633286/
 【モスクワ26日時事】第二次世界大戦後の旧ソ連による日本軍将兵のシベリア抑留で、ソ連領
連行後、病気などを理由に朝鮮半島北部に移送された日本人のうち5268人が北朝鮮領内にその
まま残留したとみられることが、ロシア国防省中央公文書館に保管されている機密資料で明らか
になった。シベリア抑留者のうち北朝鮮移送者の実態はこれまで謎だった。
 ロシア政府は昨年、1946年5〜7月にソ連から朝鮮北部に送られた日本人2万7671人の名簿を
厚生労働省に提供。死亡者名簿や帰還者リストは見つかっていなかったが、このうち2万2403人
が日本に送還されたことが沿海地方軍管区や内務省の資料で判明した。
 沿海地方軍管区のフォミン捕虜送還部長は47年6月23日付文書で、「46年11月から47年4月に
かけて、旧日本軍将校400人、下級将校・兵士2万2003人を朝鮮北部から日本に送還した」とし、
北朝鮮からの民間人を含めた送還作業終了を報告した。

 残留した5268人の多くは傷病者で、病気などで死亡したとみられる。北朝鮮移送者は
沿海地方ハサン地区のポシェットから元山に送られ、元山の第4、第5収容所に収容されていた。
 ソ連のスターリンは46年4月、シベリア抑留者のうち、「労働力」とみなされない抑留者を日本に
帰還させるとの内務省の提案を承認。3万人以上がポシェットに送られたが、到着までに2700人が
死亡したといわれる。

11 :日本@名無史さん:2006/10/03(火) 18:09:54
【日本/モンゴル】小泉総理 モンゴル抑留日本人慰霊碑に献花 [08/11]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1155302713/
モンゴルには、戦後、旧ソビエト軍によってシベリアで抑留された日本人のうち、
およそ1万4000人が移送されて都市の建設に従事し、
厳しい労働や食糧不足でおよそ1600人が亡くなりました。



「抑留日本人 ウクライナで800人死亡? 公表の4倍、元将校推計」

旧ソ連による抑留問題を研究するウクライナ内務省の退役将校が9日までに産経新聞の
インタビューに応じ、第二次世界大戦後、シベリアや極東などに抑留された旧日本軍人らが、
旧ソ連の南部ウクライナでも、多数死亡していた可能性が高いことを明らかにした。
同国での日本人死亡者数は、日本政府も旧ソ連政府からの情報を得て一部は把握しているが、
同将校は、実際にはその数倍の数になるだろうと述べ、詳細な調査の必要性を強調した。

引用元:産経新聞 (平成18(2006)年6月10日[土])
http://www.sankei.co.jp/news/morning/10iti001.htm

12 :日本@名無史さん:2006/10/03(火) 18:10:40
【シベリア抑留】 元ウクライナ人捕虜から入手した日本人捕虜についての情報

「チェルニフチ市のヴァシリ・ミハイロヴィチ・ザクレフスキー氏の証言」
私たちはここから鉄道建設のために作業大隊で強制的に連れて行かれた。ここでは一日に
2〜3人の捕虜がまるで野ウサギのように射殺されていた。死体は頭を金槌で割られ、
埋める前に掘った穴の中でもう一度機関銃で撃たれた。そして墓地は有刺鉄線で囲まれて
おり、見張り台でソ連兵が監視していた。

「チェルニフチ市のウィポブィ氏の証言」
2〜3日後、同じ所に20〜25人の日本人捕虜が輸送されてきた。日本人を見たのはこれが
初めてだった。彼らはほとんど皆、金歯があった。この日からものすごい苦痛の叫び声を毎晩
聞くようになった。ソ連兵たちが日本人を殴りつけた上、金に換えるために金歯を折って取り
出していたのだということが後になって分かった。この行為は暗闇の中で行われた。金歯を
抜き取った後にソ連兵は電気を点灯した。赤い共産党サディストの拷問を受けた血だらけの
日本人が私たちの目に入った。そこから私たちは貨車でドゥディンカ経由ノリリスク収容所へ
連行された。その時日本人は一緒に連行されなかった。

『異国の丘』とソ連・日本共産党(1)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/siberia.htm

13 :日本@名無史さん:2006/10/03(火) 18:11:13
シベリア抑留の事実を後世に・今治 (平成16年6月11日・09:15)

第2次世界大戦後の旧ソ連による日本人のシベリア抑留の関係資料を集めた「シベリア抑留関係展示会」が
今治市で開かれています。今治市旭町1丁目の今治市河野美術館で開かれている展示会には、シベリア
抑留の体験を描いた絵や関係資料などおよそ450点が展示されています。この展示会は、シベリアに捕虜
として連行され、6万人以上もの犠牲者を出した旧ソ連の日本人に対するシベリア抑留の事実を風化させる
ことなく後世に伝え、平和の尊さを訴えようと開かれたものです。会場を訪れた人たちは展示品の一つ一つを
通して、抑留生活の過酷さなどを実感していました。このシベリア抑留関係展示会は今月14日まで、今治市
河野美術館で開かれています。

http://210.255.178.111/rnb_news/FMPro?-db=rnb%5fnews.fp5&-format=detail.html&-lay=main&-sortfield=update&-sortorder=descend&-sortfield=level&-sortorder=descend&-sortfield=timer&-sortorder=descend&-max=12&-recid=12585240&-findall=
引用元 RNB 南海放送

動画
rtsp://stream.rnbc.co.jp/rnbweb/news/dat1/news2004061103.rm

【国内】シベリア抑留の事実を後世に − 愛媛・今治で展示会[06/11]
http://news17.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1086958860/           @東アジアnews+

14 :日本@名無史さん:2006/10/03(火) 18:11:58
読谷山村民 「戦時記録」上巻 第二章 読谷山村民の戦争体験 第五節 海外での戦争体験
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec05/cont00/docu196.htm
 シベリアへ強制連行された人々は、日本兵の捕虜がほとんどであるが、そのほかに、
満蒙開拓団員としてソ満国境近くに入植していた農民、義勇軍兵、「満州国」の官吏、
「満鉄(南満州鉄道株式会社)」や「満業(満州重工業開発株式会社)」、
「満拓(満州拓殖公社)」などの国策会社職員、さらには従軍看護婦、軍関係の事務職員
であった婦女子も含まれていた。

15 :日本@名無史さん:2006/10/03(火) 18:12:39
劇団四季 ステージガイド 異国の丘
http://www.shiki.gr.jp/applause/ikoku/siberia.html

・・・終戦の6日前、ソ連は日ソ中立条約を破って侵攻を始め、9月3日の停戦までに、
無抵抗の関東軍を武装解除し、市民たちを蹂躙(じゅうりん)し、捕虜としたあげく、
貨物列車に乗せてシベリアに移送してしまった。そして「抑留」と称して、厳しい強制労働
を課したのである。その数は60万人とも65万人とも、あるいはそれ以上とも言われている。
 ソ連は、当初から戦後の経済復興のために、日本軍兵士を労働力として使う計画だった
という。満州国に莫大な資本を投下して築き上げた重工業プラントや機械設備を解体して
持ち去り、それを抑留兵士の無償の強制労働で建設したのである。森林を伐採し、鉄道を
敷設し、病院や公共施設を建造する工事にもかり出された。・・・

 抑留兵士たちは、ソ連から「すみやかな帰還」を約束されていると信じていた。シベリアへ
移送される列車の中でも、ダモイ(帰国)の船が出るナホトカへ向かっていると思い込む者
が多かったが、実際は逆向きの奥地へ、北や西へと移動していたのであった。

 シベリアは冬はマイナス60度にもなり、反対に夏は38度の熱暑という寒暖の差が激しい
気候。ラーゲリ(収容所)のほとんどは暖房設備も行き届かず、連行された夏服のまま
防寒着も不足していた。不潔な環境で様々な病気が流行したが、医療設備も不完全で、
十分な治療を受けることはできなかった。
 最初の冬が越せず、6万人が死亡したといわれるのも当然であった。続出する死亡者を
埋葬するための作業隊が作られ、遺体は白樺の根元に埋められた。

16 :日本@名無史さん:2006/10/03(火) 18:13:32
 まず、兵士たちの振る舞いからしてソ連軍はおよそ解放軍とは似ても似つかないものでした。
 「占領軍として北朝鮮に乗りこんできたソ連の評判はかんばしくなかった。かれらは、
みさかいない略奪や強姦をほしいままにした。旧日本軍が朝鮮のいたるところにつくった
防空壕の中から女の悲鳴が聞こえ、朝鮮人たちは『ああ、またか』と耳をおおってその場を
足早に立ち去るというのが日常茶飯事であった。助けに駆けつけて射殺された者もいた」
(萩原『朝鮮戦争――金日成とマッカーサーの謀略』、文芸春秋社、五九頁)。
 また、ソ連は旧日本工場の機械類などを大量にソ連に運び去りました。
 「清津では、日本製鉄所その他の工場の設備機械等の一部を運び去り、日本高周波城津工場
では、工場運営に必要な程度を残して、工作機械や部分品、製品を運び、佐川日鉄鉱業所から
倉庫にあった機械器具、事業用品を運んだ。日本高周波城津工場で撤去をおこなうとき、
気概のある工場長(双浦人民委員会長・金采俊氏)は、『これ以上運ぶなら私を殺してからやって
くれ』とソ連兵の前に立ちふさがり、その搬出をくいとめたと伝えられている」
(森田芳夫『朝鮮終戦の記録』、同前より重引、六一頁)、等々。
 しかし何より深刻な結果をもたらしたのは、ソ連軍による二十万トンのコメの供出命令でした。
二十万トンというのは、当時の北朝鮮の年間産米高の四分の一に相当する莫大な量です。
 しかも、「当時ソ連軍が何人駐留していたか、公式の統計はない。十三万人という説も二十万人
という説もある。しかし仮に最大二十万人いたとしても、一人一日七百グラム(当時の朝鮮人の
配給量、三合)食うとして、二十万人ではせいぜい年間五万一千トンの消費である。その四倍もの
二十万トンも取り上げた目的は明白である。本国への搬出である。ソ連国民に食わせるために
朝鮮人を犠牲にしたのである。ソ連軍は解放の恩人どころか、ただの略奪者にすぎなかった」
(同前、六四頁)。
http://www.workers-net.org/wk80item.html

17 :日本@名無史さん:2006/10/03(火) 18:14:20
民主運動とは

さて、昭和22年になると収容所内で「民主運動」というものが台頭してきた。民主運動は
当初、旧軍隊組織に対する反発から始まり、次第に反動闘争(共産主義ソ連一辺倒)と
いう大きなうねりとなっていった。

民主運動を主導したのはソ連政治部将校で、その手段として「日本新聞」が大きな役割を
果たした。日本新聞とは、ハバロフスクで発行されていた日本語新聞で、”ソ連軍が日本人
捕虜に与える新聞”(第一面に記載)という性格をもっていた。

民主運動の目的

ソ連当局にとって民主運動のねらいは、1)日本人捕虜に共産主義の考え方を叩き込む
こと、2)前職者の告発、そして、3)捕虜を労働にかりたてること、にあったと思われる。
ここで前職者とは、参謀、特に情報参謀、特務機関、憲兵隊、警察などの職を一度でも
経験した者のことをいうそうである。”反動”すなわち軍国主義、ファシズム思想をもつ者
という意味であろうか。

アクチーブが中心になって反動を批判攻撃するために、しばしば激しい”吊し上げ”が全員
参加で行われた。ここで反動とは、前職者、軍国主義者に限らず、共産主義ソ連の反対者
全般と言うことになるが、反動がほとんどいなくなった後では、アクチーブ自身の地位安泰
のために、ささいな言いがかりをつけて反動を無理やり作り出すといった状況が見られた。

反動は永久に帰国させない、というおどしをかけられ、事実帰国を遅らされる者が相次いだ。
こうして多くの者は、次々と自己批判をして”ダモイ(帰国)用民主主義者”となっていった。

反動から民主主義者へ転向した証しを示すには積極的な活動をする必要があった。まだ
残る反動を吊し上げて罵詈雑言を浴びせること、あるいは前職者の密告、そしてでっち上
げまで行われた。

シベリア抑留(団塊の世代一代記)
http://www.akimasa21.net/itidaiki/sibir.htm

18 :日本@名無史さん:2006/10/03(火) 18:15:25
◆  満州から送られた抑留者は千人規模の部隊編成で収容所に着き、収容所の人員は
千五百人規模が基準になっている。
 やがて本格的な冬がやってきた。イルクーツクはソ連全土のなかでも屈指の寒冷地で、
一月の平均気温は零下二〇度まで下がる。厳寒の冬期には零下三〇度から四〇度近く
まで下がることもあった。ほとんどの兵士は夏の軍服を着用していたので、シベリアの寒
さが身にしみて堪えた。
◆  寒さと飢えに苦しみながら、千五百人の日本人捕虜は重労働を課せられた。イルクー
ツク第一収容所だけで、九十七人が栄養失調で死亡している。遺体はゴザに乗せられて、
丘の向こうの凍土に掘られた共同墓地に埋められた。シベリア全土の収容所で、このよ
うな悲劇が繰り広げられていた。栄養失調は、エネルギーの収支が赤字になるとそれを
補うために身体の成分を消費して、体重が減少し、やがて全身の脱力感が現れ、末期に
は昏睡状態になって死亡する。身長の高い者ほどエネルギーの消費が多いので、死亡率
が高かった。望郷の思いを抱きながら、シベリアの土となった人たちを思うと言葉も発する
ことも出来ない。

◆  捕虜たちを苦しめたのは、寒さと飢えだけでない。ソ連全土の収容所に吹き荒れた
「シベリア民主運動」という思想教育の嵐があった。この運動に日本人捕虜の一部が加担
し、同胞の上に権力を振るうことになる。ソ連政治将校と一緒に収容所を回る日本人オルグ
は、最初は予備士官学校出の幹部候補生が多かったと言う。
 一般の兵士には、初めて聞く社会主義の理論は、難解で取り付き難かったのであろう。
もとっも幹部候補生たちの社会主義の理解度は、兵士たちと五十歩百歩で、やがて兵士
の中から筋金入りのマルクス主義者が生まれるに従って淘汰されていく。

19 :18:2006/10/03(火) 18:18:55
◆  生かじりの行き過ぎた洗脳によって、軍隊方式のオルグたちは、戸惑う同胞たちに
「反ソ分子」の烙印を押し、理不尽な「つるし上げ」大会に引き出すことも発生した。なか
には頬ヒゲを生やしていただけの理由で「資本主義の残滓が抜けきらない」とオルグや
アクチブ(活動家)から罵倒され、酷寒の最中に丸裸にされて営倉に入れられ、ソ連政治
将校に救出された例もある。長期にわたった抑留は、日本人の人間性まで破壊した。

怨念を超えたシベリアの旅
古澤 襄
http://www.kajika.net/furusawa/991006.htm

2006.08.21 Monday
組織人間の次ぎに誰が来るのか
八月はクーラーのきいた書斎でシベリアに抑留された日本人の記録を丹念に読み返す習慣が
ついて半世紀が過ぎた。最初の一〇年間は抑留から帰国した人たちの記録を集めたり、
直接会って帰国話を聞いてメモをとったりした。
最近の一〇年間はシベリアに二度、墓参の旅行をしている。六年前に発刊した
「怨念を超えたシベリアの旅」は最初の墓参旅行の後に書いたものだが、
抑留記の生々しい実態には及びもつかない。

杜父魚文庫ブログ | 組織人間の次ぎに誰が来るのか
http://blog.kajika.net/?eid=338097
組織人間の次は誰が  古澤 襄
http://www.melma.com/backnumber_108241_3320481/

怨念を超えたシベリアの旅 1999/10/06 杜父魚文庫
http://www.kajika.net/furusawa.htm

20 :日本@名無史さん:2006/10/03(火) 18:19:25
『雪原にひとり囚われて―シベリア抑留10年の記録』
坂間文子 講談社
http://www.fukkan.com/vote.php3?no=34561
 日本兵のシベリア抑留体験記は数多いが、民間人でしかも女性の抑留体験記は非常に珍しい。
 これは、旧満州・大連のソ連領事館で日本語を教えていたことから終戦後にスパイ嫌疑をかけられて
シベリアに連行され、ラーゲリと流刑地で10年抑留された日本人女性・坂間文子さんが著した体験記である。
 ソ連の恐怖の収容所生活が赤裸々に描かれている。

 厳冬のシベリアの地。不当なスパイ容疑で囚われた病弱な女性が、一切の弁明も許されず
無法・理不尽な裁判を受けた。坂間さんは決して無実の罪を認めなかったため、ラーゲリから流刑地へと、
10年抑留されることとなる。
 いつ帰国できるのかもわからない絶望の中、坂間さんは苛烈な虐待に耐え、たくましく生き延びた。
厳しい生活の中でも、囚人たちとの交流、ロシア語の勉強、趣味の刺繍を流刑地での生活の糧にしたこと等、
つらい境遇の中に喜びを見出そうとした記述もあり、読んでいて救われる。
 帰国がかなったのはスターリンの死後であった。

 この本は著者が帰国して20年後の昭和50年に出版されたが、現在絶版。
 その後同じ著者により「生きながらえて夢」(日本図書刊行会)が1997年に出版されているが、
これは帰国後の人生を中心に書かれており、シベリア抑留体験の描写は簡単なものにとどまっている。
 元のこの本の方が、壮絶な抑留体験が迫力をもって詳細に書かれているので、おすすめである。

21 :日本@名無史さん:2006/10/03(火) 18:21:00
坂間文子著 『雪原にひとり囚われて―シベリア抑留10年の記録』
http://f3.aaa.livedoor.jp/~asapy/siberia.htm
 この本は、シベリアに抑留された日本人女性・坂間文子さんの体験記です。男性のシベリア抑留者は
万単位でいましたが、女性の抑留体験者は非常に珍しいといえます(全部で30数人だったそうです)。
坂間さんが体験した、ソ連の収容所生活の様子が赤裸々に描かれています。
 著者の坂間文子(旧姓・赤羽)さんは、明治42(1909)年、旧満州(現在の中国東北部)の大連に生まれ、
大連神明高等女学校・大連語学校英文科を卒業。病弱なため独身のまま、英語の個人教授をして
家計を助けていました。
 昭和18(1943)年、大連のソ連領事館の日本語教師となったのですが、昭和20(1945)年の終戦に
よって運命が一転します。領事館の日本語教師という経歴がスパイ嫌疑につながり、進駐してきた
ソ連軍に国事犯容疑で逮捕されてしまったのです。
 未決監獄で取り調べを受けたものの、身に覚えのない容疑を認めるわけにはいきませんでした。
145センチ30キロそこそこの小柄な坂間さんは、ふるえながら大男の検事の尋問に抵抗し続けました。
しかし同年12月、貨車に詰め込まれてシベリアに送られました。
 そして翌21年6月、裁判もないまま「五年の刑」を言い渡されました。当時36歳。なすすべもなく、
カザフ共和国北部のラーゲリに護送されました。シベリアの寒さに倒れ、ラーゲリ内の病院に
二年入院。ろくな治療も受けられず、高熱で左耳の聴力を失いました。そうしてどうにか釈放の
年・昭和25年を迎えました。
 ところが、次に坂間さんを待ち受けていたのは、流刑でした。監獄には入らなくてよいものの、
シベリアの寒村にしばりつけられ、厳しいノルマを果たさなければなりませんでした。虚弱体質
だった坂間さんに、木材の伐採などの肉体労働ができるはずもなく、日々の糧を求め、こじき
同然の姿で村の公共便所の掃除婦もしました。
 坂間さんが帰国できたのはスターリン死去後の昭和30年4月、46歳の時でした。
 坂間さんは帰国後、商社の兼松でロシア語通訳をしておられました。縁あって、50歳で結婚
されました。1997年時点で88歳で東京都国分寺市にお住まいであったことまでは判明して
いますが、その後の消息が分かりません。

22 :日本@名無史さん:2006/10/03(火) 18:21:47
シ ベ リ ア、 苦 闘 の 記 録
佐藤友松   〜自分史より〜
http://members.at.infoseek.co.jp/koidetyu/siberia-tobira.htm


◆新日曜美術館[再]  '04 4月25日(日) 20:00〜21:00 NHK教育 

シベリヤ抑留体験を描いた画家・香月泰男
▽戦後故郷で格闘した27年、逃れられぬ悲惨な記憶
加賀乙彦 安井雄一郎
【司会】はな 山根基世
▽45アートシーン・志村ふくみのつむぎ織り

日経日曜「美の美」
香月泰男 「シベリアの祈り(上・下)」 掲載。

香月泰男(かづき・やすお)画集 “生命(いのち)の賛歌”
http://www.shogakukan.co.jp/kazuki/


◆日経新聞06年08月 「私の履歴書」小堀宗慶(こぼりそうけい) <遠州茶道宗家>
シベリア抑留時代の話を記す。

23 :日本@名無史さん:2006/10/03(火) 18:22:21
母は来ました 今日も来た
この岸壁に 今日も来た
とどかぬ願いと 知りながら
もしやもしやに もしやもしやに
ひかされて

また引揚船が帰って来たに、今度もあの子は帰らない……
この岸壁で待っているわしの姿が見えんのか……
港の名前は舞鶴なのに何故飛んで来てはくれぬのじゃ……。
帰れないなら大きな声で……
お願い……
せめて、せめて一言……

「岸壁の母」       藤田まさと作詞・平川浪竜作曲・室町京之介台詞
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/ganpekinohaha.html

24 :日本@名無史さん:2006/10/03(火) 18:25:51
★関連スレ

ソ連軍が満州やドイツで行なった強姦、輪姦【5】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1136346996/      @世界史

25 :日本@名無史さん:2006/10/03(火) 18:38:48
今のロシア人にモンゴルの血が流れてる?
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1025879631/ ~801
http://mimizun.com/cgi/dattohtml.pl?http://mimizun.com:81/log/2ch/whis/academy3.2ch.net/whis/kako/1025/10258/1025879631.dat


26 :日本@名無史さん:2006/10/03(火) 19:45:13
糞共産ソ連シネ

27 :日本@名無史さん:2006/10/04(水) 12:11:00
★関連スレ

シベリア抑留と日本共産党
http://money4.2ch.net/test/read.cgi/kyousan/1091112700/l100   @共産党

28 :日本@名無史さん:2006/10/04(水) 13:20:07
1.国後島は1945年8月の
  ソ連の不法非道を示すメモリアル
http://www.page.sannet.ne.jp/mhvmhv/iken.htm


29 :日本@名無史さん:2006/10/08(日) 15:50:18
まあ今も人権が無い国だからいたし方あるまい。

30 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 19:34:33


     :::::::::::::::::::::::::ヽ
  /:::::::::::::::::::::::::::::::::::\
 / ::::::::: /| ||:::::::::::::::::::::::ヽ    恋も二度目なら  すこしは器用に
(((((((  | ||(((::::::::::::::::::::i    甘いささやきに  こたえたい...
 )::/  ̄ 、  ̄` \:::::::::::::::l      前髪をすこし  なおすフリをして
 |::|´ ゚̄./   ゚̄` |::::::::::::::|      うつむくだけなんてぇ...  歩道にのびた
 |::l ´´ ( _ .、``  .|:::::::::::::::\      貴方の影を  動かぬように止めたい
.丿:ヽ  :─-    丿::::::::::::::::::|     
彡:::::::\ ` _ 彡:::::::::::::::::::::/   抱きあげてぇ  時間ごと  からだごと
 ヽ::::::::::: ̄ i__l彡:::::::::::::ノ      わたしを  さらって欲しぃ....  ♪
     ̄ /|/!ヽ/ |\ ̄           切なさが  クロスするさよならに....
     />.| /。| ̄    \         追いかけられるの.....   イヤょ...
    /| \|//.__ l⌒i
    | |   |  | | |  |  メグミ





31 :日本@名無史さん:2006/10/17(火) 19:35:22
日本近代史
http://academy4.2ch.net/history2/

32 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 12:45:27
「侵攻してきたソ連軍は一兵卒にいたるまで、出逢った日本軍人にこういった。
『日本人ヤポンスキーと独乙(ママ)人ゲルマンスキーとウラルで握手して、ソ同盟を半分コにしようとしたんだろう』そう教育され、固く信じ込んでいた彼ら」
(三田和夫著『迎えにきたジープ 奪われた平和』(二十世紀社、昭和30年)p.19)



33 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 01:18:21
シベリア抑留 風化させるな
体験画家、東京で作品展
「極寒の埋葬」など88点        日経06・10・18 夕刊

 シベリアに抑留された経験を描く東京都在住の画家の作品展が20日まで都内で開かれている。
戦友の遺体を埋葬するなど過酷な体験を表現した油彩画を紹介し、同じ抑留体験者が生死の
境界線を生きた状況を説明している。19日で日ソ共同宣言から50年。関係者は「歴史の節目に
もう一度戦争の悲惨さと向き合ってほしい」と話す。
 東京都大田区の勇崎作衛さん(83)。1943年に徴兵され、旧満州(中国東北部)陸軍病院に
衛生兵として勤務。終戦後、バイカル湖近くのウランデ収容所などで3年間の過酷な抑留生活を
経験したという。
 51年から記憶を頼りにスケッチや油絵を描き始め、65歳から本格的な創作をスタート。93年に
初画集を出版した。絵画展は凍土に戦友を埋める様子を描いた「極寒の埋葬」など88点を展示。
ソ連兵に射殺される戦友の姿や極寒の地での労働状況が描かれた作品が並ぶ。
 全身が衰弱し、病室で寝たきりの生活を送るが、「シベリアの体験を多くの人に伝えたいと絵筆
を取ったが、まだ描き切れていない。健康が回復したらまた絵を描きたい」と話す。
 会場には同じ抑留体験者の平塚光雄さん(79)らが語り部となり、当時を“再現”。
(略
 主催する「千代田・人権ネットワーク」代表の有光健さん(55)は「シベリア抑留は大規模な人権侵害
にもかかわらず、国内の認識は低い。日ソ共同宣言から50年を機会にもう一度、戦争の実態を
考えてもらいたいと話している。
 絵画展「日ソ共同宣言50年・シベリア抑留絵画展-勇崎作衛のシベリア抑留体験」は千代田区立
九段社会教育会館・九段ギャラリーで。入場無料。

34 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 01:20:03
>>33

関連

抑留体験油絵展:悲惨な事実伝えたい 大田の勇崎さん、涙流し描いた88点 /東京
http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/tokyo/news/20061017ddlk13040370000c.html

NNNドキュメント「八十八枚のシベリア」 2005年11月27日(日)
http://www.ntv.co.jp/document/main/20051127.html
ドキュメント'05▽零下40度…リンチ、無感動“日本に帰りたい…”▽88枚の油絵が語るシベリア抑留
チャンネル: 35ch : 中京テレビ  放送日時: 11月27日(日) 25:05-25:35  Gコード: 4919867
http://72.14.235.104/search?q=cache:hG0TIEvy0AQJ:tv.starcat.co.jp/channel/tvprogram/0407200511272505.html

http://72.14.235.104/search?q=cache:BH9V_EqaGPoJ:061196246067.cidr.odn.ne.jp/kazumi-amitie/mobile%3Fdate%3D20051128

シベリア抑留絵画(勇崎作衛)
http://www13.ocn.ne.jp/~toko-ji/shiberia.htm
勇崎 作衛
http://www2s.biglobe.ne.jp/~k-s/table-yuuzaki.htm

35 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 09:13:18
>>32
ロシア語で日本人をヤポンスキーとは言わないし、
同様にドイツ人をゲルマンスキーと言わない件について

36 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 16:48:02
つ 酷使様のオナニー

37 :日本@名無史さん:2006/10/20(金) 17:54:55
>>35
著者の三田和夫氏には、おそらくそう聞こえたか、通訳が未熟だったのでは?

そういう風に振り仮名が書いてあることは確か。

38 :日本@名無史さん:2006/10/26(木) 12:45:46
うちのおじいちゃん抑留されたんだけど、これって珍しいの?

39 :日本@名無史さん:2006/10/29(日) 22:41:38
終戦時、ソ連の占領した満州、樺太、千島には軍民あわせ約272万6千人の日本人がいたが、このうち約107万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられたと見られている。
アメリカの研究者ウイリアム・ニンモ著「検証ーシベリア抑留」によれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという。
また1945年から1949年までの4年間だけで、ソ連での日本人捕虜の死亡者は、37万4041人にのぼるという調査結果もある。

シベリア抑留 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99

40 :日本@名無史さん:2006/11/17(金) 00:19:43
露助視ね。

41 :日本@名無史さん:2006/11/17(金) 08:22:11
うちの祖父は軍属で樺太に派遣され、8月14日に引き上げたそうだ
終戦の混乱で帰宅が遅れ、家族が心配していたところある日の真夜中に帰ってきたらしい
祖母は深夜に目覚めたら枕元に祖父が立っていたので、死んで夢枕に立ったのかと思ったそうだ
祖父は帰宅まで8月16日のソ連侵攻を知らず、その後シベリア抑留があったことを知ったときには
正直肝が冷えたと言っていた

42 :日本@名無史さん:2006/11/20(月) 01:26:15
良スレage

43 :日本@名無史さん:2006/11/20(月) 05:30:06
気になったけど結構身近に経験者が居たりするもんなのか?

44 :日本@名無史さん:2006/11/20(月) 21:07:49
俺が東京で一人暮らしをしていた時に住んでいたアパートの向かいにあった酒屋のじーさんがシベリア抑留経験者だった。

そこには8年位住んでいたから、じーさんともすっかり仲良くなって、
俺の部屋が雨漏りして如何しようも無い時に、じーさんが泊めてくれた。(じーさんは一人暮らし)
それでその時にシベリアでの話を聞いた。

じーさんは記憶力が良いらしく、何年何月何日何時にロシア軍が来たとかすべて覚えていた。
俺が聞いて覚えてる範囲だと、

・じーさんが所属していた部隊は1500人位で、全員連れて行かれたが、半年で半分以上が栄養失調で死んだ。
・食事は1回にパン1個とジャガイモ1個だけ。
・朝起きると、隣で寝ていたヤツが死んでるというのは当たり前のようにあった。
・それで、看守に死んだやつのことを死んだとは言わずに、「こいつは調子悪いから休ませくれ」と言うと
 その人(死んだ人)は作業は休みとなるが、その人の分の食事はでたそうで、
 その死んだ人の分の食事を分けて食べてなんとか飢えをしのいだ。
・凄い寒いから、死体がなかなか腐敗しないからこの手は結構使えたってじーさんは言っていた。
・じーさん曰く「だから俺の命は運命もあると思うが、あのときの仲間に分けてもらったとも思っている」

俺は2年位前に引越しをして実家に戻ったのだが、この話を聞いたのは3年位前で、
じーさんは大正14年生まれだったかな。
ちなみにそのじーさんは身長は180センチ近くあって、腰も曲がってなく、
ひとりで酒屋を切り盛りしていて、朝早くに市場に仕入れに行き、ビール瓶のケースとかも軽々と運んでいた。
もし、戦争が無くて、こういう人がスポーツか何かやっていたら凄い選手になったのかな、とも思う。


45 :日本@名無史さん:2006/11/21(火) 01:07:11
age

46 :日本@名無史さん:2006/11/21(火) 01:28:35
ソ連兵から言わせたら、祖国に攻め込んだナチスがやった事を
「そのまま」やり返してやった位の認識だった。
まぁ実際、攻め込んだ街で住人を皆殺しにしたりとかしていたからねぇ。
そりゃ、復讐に燃えるわな。

逆に、五木寛之は平壌で終戦を迎え、ソ連軍の統治下で
難民生活したそうだが、子供達に同情したソ連軍の兵隊や
朝鮮人が、餅や黒パン・芋をくれたそうな。
それを 日 本 人 の 大 人 が 奪 い 取 っ て い っ た と。
飢えた大人程恐ろしい者はない事を、幼い頃の五木は思い知ったそうな。

47 :日本@名無史さん:2006/11/21(火) 02:45:54
先に乱暴を働いておいて、統治になり、心に余裕があるときには、ソ連軍の兵隊や朝鮮人が子供たちにものをめぐんだ。

そういう人もいるのだ、と受け取っておくかw

48 :日本@名無史さん:2006/11/22(水) 07:28:05
保守

49 :日本@名無史さん:2006/11/23(木) 18:19:45
良スレage

50 :日本@名無史さん:2006/11/23(木) 18:26:09
物に余裕があると無いの差ということなのだろうな…
豊かとか飢えというのは心のありかたまで変えるのだな

51 :日本@名無史さん:2006/11/27(月) 12:59:26
遙かなる約束〜50年の時を越えた運命の愛〜
http://wwwz.fujitv.co.jp/yakusoku/index2.html

アンビリバボーとこのドラマ見てシベリア抑留に少し興味持った

52 :日本@名無史さん:2006/12/03(日) 10:27:22
ヒドイ話だよね!!

みんなはどう思う?

53 :日本@名無史さん:2006/12/03(日) 22:34:08
瀬島龍三の罪はいかに??

54 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 03:35:49
【政治】「国のために戦ったのに…」 シベリア抑留者、補償また絶望的…特別給付の野党案否決
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1165504184/

55 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 08:20:23
シベリア抑留の賠償請求権は、鳩山が放棄したし、国内で日本政府に対す
る賠償請求には、自民党政府は一切耳を傾けてこなかった
やっとなんかしたかと思えば、平和祈念事業特別基金っていう外郭団体作っ
て、抑留者には10万円と銀杯やるだけ。19人中14人が天下りで、その退職
金は役員一人1300万円w
まあ、なんでも利権になる国ですねw

以下参考
小池晃君
     資料を配付いたしましたが、退職金出ているのは常勤の理事長と理事
だけです。その常勤者で見ると、十名中九名が天下りであります。官庁を辞
めるときに退職金を受け、基金を退職するときにまた退職金を受ける。総額は
一億二千二百二十八万円、平均して千三百万円だと。
     一方で、平和祈念事業で抑留者に対して行われたのは書状、銀杯に
加えて十万円の慰労金のみです。で、今それを半分崩して記念品配るという
話になっていて、抑留者の皆さんからばかにするなという声が上がっているんで
すね。一方では十万円の支給で決着済みで、正にこの事業を食い物にする
かのように天下りの役人がこれだけ入って、一人千三百万円の退職金出てい
る。こんな組織に費やすお金があるんだったら、すべてシベリア抑留者に回せと
いう声が当事者の皆さんから出ている。私、これ当然の声だというふうに思うん
ですよ。
http://www.a-koike.gr.jp/hilight/2005/gijiroku/2005_03_22.html

56 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 11:44:46
シベリア抑留者:補償また絶望的 特別給付の野党案否決
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/kokkai/news/20061208k0000m040097000c.html

 旧ソ連のシベリアなどに戦後抑留され強制労働させられた旧日本兵たちが求めていた未払い賃金は、
補償されないことがほぼ確実になった。7日の衆院総務委員会で、
抑留期間に応じ特別給付金を支給するとした野党3党提出の法案が否決されたためだ。
「国のために戦ったのに、見捨てられたまま死んでいくのか」。抑留経験者らからは落胆の声が上がった。

 民主、共産、社民の野党案は、1人当たり30万〜200万円を支給する内容だった。
一方、補償はせず、10万円の旅行券の支給を想定した慰労品贈呈の与党案は、
この日の委員会で可決され、今国会で成立する公算が大きくなった。

 傍聴席には関東各地から約30人が詰めかけた。東京都板橋区の野口富久三さん(83)は
抑留中に病気になり、46年にソ連支配下の朝鮮北部に送られた経験を持つだけに
「国に何度も捨てられた」との強い思いがある。「むなしい。国になおざなりにされていいのか」と唇をかんだ。

抑留経験者への補償は56年の日ソ共同宣言でソ連への請求権が放棄されたうえ、
ソ連側から労働証明書が発行されないため、日本政府からも補償されなかった。

(中略)

しかし、基金が官僚の天下り先になっているとの批判から、自民・公明の与党両党が
基金を廃止する法案を昨年提出。与党は、法案成立を前提に取り崩した基金の
出資金400億円の約半額を原資として、抑留者に10万円相当の旅行券を支給することで合意していた。

57 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 23:05:32
>>1
これが本当の強制連行。 ↓


シベリア抑留、北朝鮮に2万7千人移送…露が資料提供 [2005/04]
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/korea/1112358394/
 モスクワの日本大使館は31日、ロシア軍事古文書館(モスクワ)から同大使館にこのほど、
第二次大戦後にシベリアで抑留された日本軍将兵らのうち、当時のソ連から北朝鮮に
移送された人に関する資料が提供された、と発表した。
 シベリア抑留者が北朝鮮に移送されたことが公式に確認されたのは初めて。
 資料の正確な内容は現時点では不明だが、同軍事古文書館の説明によると、
ロシア語で 書かれた約2万7000人の名簿が含まれていた。


[シベリア抑留]「『北朝鮮移送』の全容解明を」 [2005/04]
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/korea/1113662380/
 第2次大戦後、旧ソ連・シベリアに抑留された日本軍将兵らのうち2万7000人が、
北朝鮮に移送されていたことが、ロシア側から日本政府に提供された名簿で判明した。
病気やけが、栄養失調で労働力とみなされなくなった人たちだという。
 当時、そうした傷病者は、治療や帰国の名目で、北朝鮮や満州(現中国東北部)の収容所、
病院へ分散して送り返された。その数は約4万3000人にのぼると推定されているが、
これまで実態の解明は進んでいなかった。
 今回、移送の事実が公式に確認されたことの意味は大きい。名簿には氏名、生年、階級が
記されている。どこの収容所から、だれが移送されたかを特定することができる。
 日本に帰還した人の名簿や証言、ロシア側から提供されている名簿など
と突き合わせることで、“北朝鮮抑留”の実態が徐々に明らかになるのではないか。


【関東軍】ソ連の強制連行【シベリア抑留】
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/army/1108798951/
http://p2.chbox.jp/read.php?host=hobby7.2ch.net&bbs=army&key=1108798951&ls=all

58 :日本@名無史さん:2006/12/08(金) 23:41:17
ttp://www.tokyo-np.co.jp/00/sya/20061208/mng_____sya_____009.shtml
『シベリア抑留基金』廃止 衆院委、法案可決

シベリア抑留者らに慰労事業をしている独立行政法人「平和祈念事業特別基金」(東京・西新宿)を解散する法案が
七日、衆院総務委員会で可決された。今後は、資本金四百億円の半分程度を取り崩し、生存者に慰労品を贈呈する事業が実施される。
法案を提出した自民党の宮路和明議員は「今回の事業で戦後処理問題は最終決着したい」と明言、
戦後補償問題の幕引きを図る与党の姿勢を鮮明にした。

与党側は、抑留経験者に十万円、恩給の受給資格のない元軍人らに五万円相当の慰労品、
中国などからの引き揚げ者には銀杯を同基金から贈呈する方針を明らかにした。
来年四月から二年間申請を受けつけ、二〇一〇年九月までに基金は解散する。

慰労品は旅行券が有力視されてきたが、「八十歳を超えた年寄りにどこへ行けというのか」という批判が多く、
与党側は食事券なども選択肢に入れる考えも示した。

民主、共産、社民の野党三党も基金を廃止、四百億円を国庫に返納した上で、
元抑留者(約十万人)に三十万円から二百万円の特別給付金を支給する法案を提出していたが否決された。

同基金は一九八八年に発足。軍人恩給の受給資格がない抑留者約十八万人に十万円の国債と銀杯、
それ以外の抑留者には銀杯と総理大臣の感謝状などを贈ってきた。

新宿の高層ビルにある事務所の家賃が月一千万円近く、
常勤役員が「天下り」ポストになっている−などの批判もあり廃止論が高まっていた。

基金が運営する「平和祈念展示資料館」の資料の保管などの事業は一般会計から支出して続けていくという。

59 :日本@名無史さん:2006/12/11(月) 09:38:19
世間からはすっかり忘れ去られ、
自民党には見事に見捨てられて
そもそも寿命のほうもほぼ尽きてしまった抑留者の皆様

60 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 00:56:58
【戦争】シベリア抑留補償問題に幕、基金解散【政治】
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1166109120/

シベリア抑留補償問題に幕、基金解散15日決定
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20061214i116.htm
・・・今後は、基金の資本金約400億円の半額を取り崩し、抑留体験者らに10万円の旅行券などを贈り、
残りは国庫に返納する。
 民主、共産、社民の野党3党は、抑留期間に応じて30万〜200万円の特別給付金を支給する法案
を提出したが、否決された。

 厚生労働省によると、抑留中の死亡者は約5万5000人とされるが、遺骨が収集されたのは
約1万8000人分で、DNA鑑定により身元が判明したのは約360人しかいない。

61 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 01:37:16
579 :海の人 ◆STEELmK8LQ :2006/12/08(金) 08:43:27 桜 ID:??? ?2BP(1076)
 全抑協って、もともと斎藤派と言う名前で、創始者がKGBのカヴァから色々な資料や資金の
提供をうけて作った組織だから、そのへんも割り引いて考えるべきなのでは。

 あと全抑協が81年に起こした同様の趣旨の訴訟は、最高裁まで争って棄却されてるから
そもそも公の措置として金を出したりする根拠が全くない、というのも。

ttp://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-09-19/0919_faq.html

 最終的には、この辺り↑を読むと、結局日共が推し進めてきた

  ソヴェトの負債を、日本につけかえる

式の、いつもの活動の一環ということが見えてくるかと。

62 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 15:26:10
シベリア抑留、引き揚げ船「興安丸」帰港から半世紀
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20061224i302.htm
 戦後、旧ソ連によってシベリアに抑留されていた日本人のうち、最後まで残された人たち計1025人
を乗せた引き揚げ船「興安丸(こうあんまる)」が京都・舞鶴港に着いてから、26日でちょうど半世紀。
舞鶴市では同日、抑留体験者や抑留中に亡くなった人の遺族らが集まり、記念集会が開かれる。
(略
 記念集会は、抑留体験者でつくる全国抑留者補償協議会(東京)などが主催し、海上追悼式や
フォーラムなどが行われる。
(略

63 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:40:56
【暮らし】シベリア抑留、風化させない 舞鶴で引揚終了50年記念し集会
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1167132986/

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