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【モンゴル】 元寇 2 【高麗】〜神風は運?実力?〜

1 :日本@名無史さん:2006/09/23(土) 00:58:40
引き続きまたーり語りましょう

前スレ
元寇に勝ったのは運ですか?実力ですか?
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1060607305/

2 :日本@名無史さん:2006/09/23(土) 01:05:45
744 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2006/01/09(月) 06:05:15
だから第一回目の襲来を撃退したのは100%武士団の奮闘によるものだって何度も言わすな。
九州武士団との交戦で不利を悟り撤退を決定して引き上げる途中で嵐に遭遇したにすぎん。
洋上で防塁と睨み合いしてた所を嵐に丸ごとやられた第二回目なら天佑神助のおかげといえるが
それにしたところで嵐がくるまで敵を陸に上がらせなかった武士団の奮闘のほうをまず評価するべき。

3 :日本@名無史さん:2006/09/23(土) 01:51:38
関連スレ

元寇における高麗兵の残虐行為について
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1128253450/

4 :日本@名無史さん:2006/09/25(月) 10:42:26
朝青龍、18回目の優勝。まだ、まだ26才。

優勝回数記録、
大鵬32、千代の富士31、北の湖24、貴乃花22
さあ、偉大なる蒙古の末裔はどこまで記録を伸ばすのでしょうか
神風が吹いて記録を食い止めるのかな・・
 

5 :日本@名無史さん:2006/09/25(月) 12:32:57
神風は6分が天運、残り4分が人運。
旧宋で元が出陣準備に手間取り、越南進出に失敗。日本が迎撃準備を整える時間
を稼げたのが天運、水際戦で台風シーズンまで持ち堪えたのが人運。

6 :日本@名無史さん:2006/09/25(月) 20:04:51
越南進出云々は完全に弘安の役の後の出来事だろ

7 :日本@名無史さん:2006/10/01(日) 11:09:37
文永の役では、原因不明の撤退(『矢が尽きた』)の帰路で、大風で難破。
弘安の役では、上陸戦に失敗し一ヶ月以上海の上で身動きできずにいたところで
台風。難破。


どちらも、風雨は最後のおまけなわけだが。
文永の役にいたっては、蒙古軍が洋上で難破したことを日本人はかなり後になってから知っている。




8 :日本@名無史さん:2006/10/01(日) 12:09:35
やっぱりこの時代の船っていうのは、まだまだ未熟だったってことだね。
日本側の船もせいぜい10〜20人程度しか乗れないような小船だったろうし・・・
元や高麗側の船はどうだったのかは知らないが、風雨に強くて100人以上乗れるような
大型船はまだ作れなかったんじゃない?
だったら、数は少なくても陸地で陣地を築いて迎え撃つ側が有利だっただろう。

9 :日本@名無史さん:2006/10/01(日) 16:21:06
伊予河野水軍の活躍も忘れないでね

10 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 17:50:40
その当時は河野家当主もバリバリの海の侍だったの?

11 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 20:57:46
仮に弘安の役で、
台風が来ず、江南の軍が合流して
元軍が九州に上陸していたらどうなっていたの?

12 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 21:10:39
上陸できない。
博多で撃退されて終わり。
そもそも、江南の軍が合流してから、1ヶ月近くも上陸できなかったから
台風が来たんだろ。

13 :日本@名無史さん:2006/10/18(水) 21:11:39
江南軍も長い海上生活で弱りきってるしなぁ。
司令官とか病死してなかったっけ?
数の上では優勢でも一度に上陸を行える訳もないし、
東路軍と同様に水際で防がれ、夜襲で打撃を受け、
食料も船も人間も腐って自滅するだけだと思う。

14 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 17:05:53
>>12はそもそも台風が来なかったらの
仮定の議論に「1ヶ月近くも上陸できなかったから
台風が来たんだろ。 」は不適切な論理だな。
それはそれでいいとして。

たとえ上陸できても、現地の勢力に内通を持ちかけたりして
協力などの計略がなされていない状況では、
地の利も得ないので、大軍でも非常に不利な戦局なる。
また元軍側の使用する武器などの補給は現地では調達できないので、
半島からわざわざ持って来ざるを得ないが、そのコストが膨大。
何より、江南軍が九州に到着した時点で、
幕府からの3万の軍勢の増援が、すでに山口に到着しているので、
数の上でもそれなりに対抗できる。

15 :12:2006/10/19(木) 17:38:23
>>14
台風が来たから上陸できなかったわけじゃないだろ。
現実にそれまで1ヶ月近くも上陸できなかったんだから。
仮に台風が来なくても上陸できないと考えるのが普通じゃん。

16 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 17:53:51
元寇は日本が実力で防いだ。元も高麗の口車に乗らなければ法則が発動しなかったのに。

17 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 19:33:16
>現実にそれまで1ヶ月近くも上陸できなかったんだから。
>仮に台風が来なくても上陸できないと考えるのが普通じゃん。

クルクルパーでつか?

18 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 20:15:40
>>13
そうやろうとして帝国陸軍は大東亞戦争でやられたんだろ。

19 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 20:41:30
>>17
わかり易く説明してやるぞ。
上陸作戦で時間の経過と共に攻撃側に有利になる要素なんか無いだろ。
1ヵ月間上陸しようとしてできなかった部隊が、2ヶ月、3ヶ月と粘ったところで、
状況が好転して上陸可能になるなんてことは無いんだよ。

20 :日本@名無史さん:2006/10/19(木) 21:12:16
こいつ     ∩_
 最高にアホ {{{ ヽ
       〈⊃ }
  ∩___∩ | |
  |ノ   ヽ| |
  / ●  ● | /
 |  (_●_)ミ/
 彡、  |∪| /
`/ __ ヽノ /
(___)  /


21 :日本@名無史さん:2006/10/24(火) 11:49:43
モンゴルが仮に上陸出来たとしても風土病と数ヶ月に及ぶ海上戦での疲れから士気が維持出来ずに撤退だな。

22 :日本@名無史さん:2006/10/26(木) 12:06:05
【草原の英雄】成吉思汗【蒼き狼】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1161619855/

23 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 15:15:13
ベトナム戦争で、
敵を迎え撃つ側のベトナムは、
あのフランスも、そしてあの最強のアメリカも撃退したから
よって、ベトナムこそ真の世界最強だ

24 :某研究者:2006/11/24(金) 14:52:03
http://tinyangel.jog.buttobi.net/Arm/Bow.html
>グリップ位置 : 洋弓は弓の中心、和弓は下から約1/3のあたり。
>これにより和弓は自然と弓なりに矢が飛び、そのため射程が伸びます。
>実はロングボウも上向きに発射すれば射程は伸びるのですが、狙いと異なる的へ向けて発射することになるので、その分精度が落ちます。
>和弓は狙いをつけたまま射程を伸ばせるのですが、距離の調整は使用者の経験に左右されるため、命中させるのが難しくなります。

中遠距離の精度は日本の弓の方が上と言う
事かも知れぬが
狙撃が基本なら近距離から射撃をして居たと言う
事は無いのかだが
(モンゴル軍が負けたのは遠距離での弓の精度差と言う事も
 有るのかも知れぬし
 遠距離からの強化弓の矢なら大鎧でも止まる訳だろうか
 モンゴル軍も揺れる船上からの射撃が
 命中しなかった為にやられたと言う
 意見も有るだろうが
 船側の防弾装備と言うのも
 有るかも知れぬし
 上陸時に遮蔽物の無い侭可也弓で撃たれたのが
 敗走の原因かも知れぬが)


>矢の放ち方 : 洋弓は、矢をセットする部分が窪んでいる、あるいは弓身に穴が空いており、矢は弓の中心を通るように設計されています。

此れは古いロングボウには
見た所無いし
モンゴルの弓にも無い様に見えるが

25 :某研究者:2006/11/24(金) 14:54:09
http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/kyuba.html
どの程度の距離かは不明だが
フライパンが貫かれているが
大鎧もモンゴル弓に対しては
無力だったと言う事は無いのかだが
矢がボドキン状では無いので余り威力は
無いのかも知れぬが


http://ihbaa.org/goods.html
http://www.kismeta.com/diGrasse/BowPolish.htm
トルコ・モンゴルの弓は構造はほぼ同じだが
モンゴルの弓も600m等
飛ぶのだろうか


http://www.warbirds.jp/ansq_old/C1000503.html
>また満州兵の弓は極めて速射がきいたのですが、射程は劣り600メートルは飛んだトルコ弓(インド軍-アクバル)に比べるとかなり貧弱です。

と有るが
モンゴル軍の弓と満州兵の弓と言うのは
同様の物では無いのかだが

26 :某研究者:2006/11/24(金) 14:55:14
大鎧の場合はしころや袖の部分で
矢は止まっていたかも知れぬが
当世具足ではしころの部分で何とか止まると言う
程度かも知れぬが
此れが出て来たのは銃の時代であるから
矢に対する防御は捨てて
軽量化したと言う事だろうか

室町初期の胴丸なら
大型の袖が付いて居る物も多いし
此れは矢に対する防御力は
有ったと言う事だろうか
(槍や弓も横に構えて使用するので
 横方向の防御力が必要である
 訳だろうか)


http://bunkazai.ysn21.jp/sonota/meisyou/gusoku.htm
胴丸の袖は
大鎧の袖と大きさは
変わらない訳だろうか

27 :某研究者:2006/11/24(金) 14:55:48
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87
>前回の文永の役での元の戦力を分析し、日本は元軍より射程距離の長い弓矢を開発して使用した。

と有るが
弓の形状がモンゴル的に変化した訳では
無いだろうし
こんな事は可能なのか
どうかだが


http://www.fletcher-family.co.uk/C13th%20Fletchers.htm
西欧の弓の形状はモンゴル弓とは
全く異なる訳だろうし
外側への反りと言うのは無い訳だろうか

28 :某研究者:2006/11/24(金) 14:58:24
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/06/014/genpei/bugu/bu_kougeki.html
日本の弓も物に拠っては中央部も外側に湾曲して居る
物も有るが
モンゴルの弓程では無い訳だろうか


>伏竹弓は弦を外しても湾曲している。 しかし、伏竹弓の弦を外した状態での反りは裏反りといい、この湾曲のままに弦を掛けるのではなく、弓を押し撓めて逆の湾曲を作って弦を掛ける。 だからよけいに強い弓となるのである。

伏竹弓の場合は丸木弓やロングボウ等と異なり
モンゴルの弓同様に外側への湾曲は有る訳だろうか
(日本の場合は夏場は熱で膠が溶けるから
 丸木弓も併用していたと言うが
 モンゴル側の弓は膠は
 溶けなかったのかどうかだが)


http://www.0986.jp/yumi/reksi.html
蒙古襲来時は三枚打弓だったと言う事だろうが
射程を延ばす為の改良と言うのは何なのだろうか

29 :某研究者:2006/11/24(金) 15:40:48
http://makimo.to/2ch/academy4_history/1060/1060607305.html
モンゴルの矢は長射程だが軽い為に武士の鎧を容易に貫く事が出来なかった。
船の上からだと弓による狙撃はまず不可能で結果大量に消費する一斉射撃を
繰り返して弓矢の欠乏を招いたとか。
逆に日本の矢は短射程だが重量が有り、硬く鋭い矢じりは、射程内なら皮の鎧を
貫く事が出来た。上陸してくる敵を狙撃する事で効率よく殺せた事とか。


弓は日本のほうが射程も殺傷力も遥かに上
さらに、『弓馬の道』『海道一の弓取り』という言葉が示すように
武士の主戦兵器が弓であり、熟達していた
隊列を組んで整然と前進してくる元軍に対して
長大な射程を生かして後方の指揮官を弓で倒す
作戦を取っていた模様


日本側も射程を延ばす為に
モンゴルの矢と同様に軽い矢を
使用したと言う事かも知れぬし
弓の威力が足りなければ
モンゴルより軽い矢を使用したと言う
可能性も有るかも知れぬし
モンゴル兵の鎧は軟皮や綿なので
軽量な矢でも貫通したと言う
事かも知れぬが

30 :某研究者:2006/11/24(金) 15:42:29
>一方、金や宋、中央アジアの城塞や都市国家を攻める際には
>長弓と呼ばれる大きな弓を使っていて
>こちらは城壁越しの攻撃が可能なように遠距離戦を
>得意としていた
>(蒙古騎兵の得意技『草原での待ち伏せ』にも使われた)
>蒙古騎兵は、騎射で短弓、歩射で長弓を使い分けていた


此れは軽い矢を使っても可也威力が有ったと言う事は
無いのかだろうし
船上から使用される弓はこのタイプだったと言う
事かも知れぬが
此れをアウトレンジする為に日本の弓が可也
軽い矢を使用したと言う事は無いのかだが

31 :某研究者:2006/11/24(金) 16:41:38
>三十三間堂では仰角を制約される事も知らずに和弓の飛距離が短いなんてほざいてた奴がいたのか。

まあしかしモンゴル弓の外側の湾曲等を考えれば
短いからと言って飛距離が無いとするのは
どうなのかだろうし
角・腱と竹と言うのは何れが良い素材なのか
どうかだが

32 :某研究者:2006/11/24(金) 17:11:10
http://www.town.morimachi.shizuoka.jp/kankou/choshi/choshi-27.html
日本の鏃もロングボウのボドキンの様に
可也細い物も有るが
http://sussen.com/shopsite_sc/store/html/product129.html
上のボドキンと比べて貫通力は
どうなのだろうか
(モンゴルにもこの種の鏃は
 有ったのだろうか)

33 :日本@名無史さん:2006/11/26(日) 22:12:55
朝青龍、今年を締めくくる形で
15戦全勝で19回目の優勝。おめでとー
あの独特な気迫、凄みは、
過去の横綱にはないタイプで、
文字ばかりの文献からは読み取れない偉大なるモンゴル帝国のリアルな
インスピレーションを与えてくれる。ああ素晴らしきかな
鬼のような火の朝青龍に、しなやかで大きな包容力の水の白鵬、
いろんな猛将のタイプがいたんだろな〜

34 :日本@名無史さん:2006/12/03(日) 01:25:00
そもそも、博多に拘る理由もなかったような。
たとえば、博多に上陸すると見せかけておいて、
熊本や鹿児島あたりに上陸してしまったら
九州はとんでもないことになっていた気がする。

35 :日本@名無史さん:2006/12/03(日) 08:52:50
元軍が博多に拘った理由は、そこに大宰府があるから。
当時の大宰府は日本の外交と国防の最前線機関。
フビライが何度日本に使者を送っても、大宰府で足止めされて京都や鎌倉に
国書を届けることができなかった。
そもそも、4万程度の元軍では最初から九州全土の征圧なんか不可能だし。

36 :日本@名無史さん:2006/12/03(日) 09:58:56
>>35
文永の役ではその理由も一応成り立つけど・・・・

弘安の役の場合、家財道具を満載していた南宋軍主体の
江南軍はなんだかんだで10万もいたんだから、距離の近い鹿児島当たりに
上陸、側面を東路軍が支援していたら、九州南部を勢力圏に納められた可能性
はあるかと。

こうなると九州の御家人たちは自分の領地が危うくなってしまい、
統制がとれなくなった可能性もある。

37 :日本@名無史さん:2006/12/03(日) 10:19:10
>>36
弘安の役については、「元史・日本伝」にはっきりと攻撃目標が大宰府だった
と書かれているよ。

それに、江南軍は数が多いだけで、戦闘力は東路軍に劣る。
あくまで東路軍が戦局を切り開いた後に支配体制を固めるための部隊だから。
暴風雨に遭った後、東路軍に鷹島に置き去りにされた江南軍10万は、日本軍の
たった3〜4日の攻撃で全滅してしまった。

38 :日本@名無史さん:2006/12/04(月) 23:31:24
そもそも防御する方が有利で
しかも海上からだから日本はかなり楽な戦いになるよね

39 :日本@名無史さん:2006/12/04(月) 23:39:50
>>37
わざわざ防衛拠点をついていくというのが、ちょっと不自然ではあるな。
ノルマンディー作戦じゃないが、トーチカの密集しているところは普通
避けると思うけど。

40 :日本@名無史さん:2006/12/04(月) 23:40:45
wikiによると、
>『元史』は、モンゴル色を中国から一刻も早く一掃したいという
初代皇帝・洪武帝の思惑によって、
実質編纂期間が数ヶ月と限られるなど杜撰極まりないものであり、
洪武帝の死後には早くも改訂論が現れる始末であった。

日本で語れる元寇って、
とてもモンゴルにとって公平でないような言い伝えばっかりのような気がして。
一度も聞いたことのないモンゴル側からの言い分を聞いてみたいものだ

41 :日本@名無史さん:2006/12/05(火) 04:32:56
神風は日蓮の神話に深く係わり合っているので、史実と違っても日蓮系狂信者は決して認めない。普通、日本の近海に何ヶ月もいれば、台風に限らず嵐に遭うのに彼らは神風が吹いたと信じている。そのこと理解して書きましょう。

42 :日本@名無史さん:2006/12/05(火) 08:59:58
>>40
『元史』は編纂期間が短いため少々荒削りな部分が多いが、その分原典の史料
をそのまま流用したりして、かえって研究に好都合な部分もある。
歴史史料の信憑性を考える時、その史料の同時代性って重要な基準だろ。
つまり、当時の生の記録では、元寇は元軍の完敗だったということ。


43 :日本@名無史さん:2006/12/05(火) 18:01:51
ベトナム・ジャワ含めて大元ウルスの海上侵攻は完敗

44 :日本@名無史さん:2006/12/05(火) 18:56:17
   元軍の軍船ってどんな船だったん?

45 :日本@名無史さん:2006/12/05(火) 19:30:54
>史料の同時代性って重要な基準だろ

近すぎても冷静さの欠けたものになるよ。
例えば小泉政権の評価を大手メディアにしろ現時点で冷静に下してるだろうか。
一例としてwikiで「朝日新聞」を引くと、
中立的な観点で書けとあるのに、つばぜり合いは日常茶飯事で、
それぞれの立場に近い内容に書き換えようとする。
もうあれからウン十年たった第二次世界大戦の総括を、
日本は冷静に客観的に見つめる事ができてるだろうか。
日本はアジア各地を侵略した、いや侵略ではない解放だ!、
従軍慰安婦、731部隊、あった、嫌ない、だの論争は絶えない。
実際に起こった史実でも
こんな基本的なことですら表記に際してもまとまらないんだから。
少なくともその時代に共に生きた世代は
どうしても主観や思い込みが入るから

46 :日本@名無史さん:2006/12/06(水) 01:01:15
>>43
ベトナムでもジャワでも、モンゴル軍はその国の首都征服を達成している。
九州にまったく拠点を築けぬまま、水際で為す術もなく鎌倉軍に敗れ去った日本の場合とは比較にならない。

あと、樺太に海上侵攻したモンゴル軍は、アイヌを蹴散らして全土の制圧に成功している。

47 :日本@名無史さん:2006/12/06(水) 02:07:07
>>45
第二次世界大戦の冷静で客観的な総括なんて、これから何千年たってもできないよ。
歴史上の出来事の評価や意味付けなんて、永遠に議論が続いていくものだから。
元寇についても基本的に同じ。
ただ、従軍慰安婦、731部隊などについて、何が事実なのかを調べる際、最も重要なのは
やっぱり同時代資料なんだよね。

『元史』の杜撰さを改めるため、1919年に『新元史』が完成したんだけど、その記述が
どんなに完成度が高くても、13世紀末の元寇について『元史』より『新元史』の方が
歴史資料として参考になると考える研究者はいない。
それに、モンゴル軍の他の東アジア諸国への侵攻を調べる際、その中心になっている
資料は『元史』だろ。
例えば、モンゴルと南宋の戦いについては、『元史』+『宋史』だし、高麗侵攻については
『元史』+『高麗史』。
樺太のアイヌみたいに侵攻された国に十分な文献が存在しないため、『元史』の記述からしか
調べることができない場合だってある。
『元史』『高麗史』と日本側の資料である『鎌倉年代記』や『帝王編年記』をもとに元寇を
語るのは当然であって、日本の場合だけ『元史』に問題があるとか言い出すのは、逆に日本に
不公平なんじゃないの?

48 :日本@名無史さん:2006/12/06(水) 18:57:32
いちばん公平なのは、
日蒙それぞれのその道の第一人者が一堂に集まって
両者の解釈に齟齬がないか話を詰めてみることだな。
全然違う話だが、
日本のモンゴル帝国史研究で有名な杉山先生の本は野心的で面白いけど、
自分らに近いモンゴロイドを中心とした世界システム的発想は、
欧米の研究者から言わせれば間違いなく
ちょっと、ちょっとちょっと!だろ

49 :日本@名無史さん:2006/12/07(木) 00:27:42
>>48
その場合問題なのは日本側の立場を代弁する研究者がいないこと。
欧米の研究者から言わせれば「ちょっと、ちょっとちょっと!」な杉山先生から
見ても異様に感じる程、日本史の研究者たちは朝鮮よりに偏っているから。

50 :日本@名無史さん:2006/12/07(木) 22:27:39
>日本側の立場を代弁する研究者がいないこと

それを言ったらお終いでしょ。いろんな意味で

51 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 14:50:51
この場合、世界システム論や杉山御大の話だろ。
別に朝鮮よりとかは関係ないと思うが。
つーか、ここにまで朝鮮を持ち出すのか。呆れた。

52 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 16:41:35
その杉山が、元寇の際の高麗王朝の関わりについて、戦後の日本史研究者の説明に
不信感を持ってるんだよ。

曰く『蒙古襲来については、戦前・戦後の二重のタブーにさえぎられ、なにが、いつ、
いったいどうなったのか、筋みちの立った事実確認が定かになされていない』

曰く『日本が蒙古襲来という「巨大な外圧」を撃退できたのは、朝鮮半島・中国大陸・
東南アジア各地の諸民族・諸国民の「モンゴルの圧政」に対する抵抗・反乱・連帯が
あったからだという議論がなされる。ただし、実証や事実の検討となると、
どうしょうもなく危うい面が多い』

曰く『これまで無条件に善玉・英雄とされた高麗国の反モンゴル勢力の三別抄についても、
本当のところはモンゴルに直接臣従しようとする動きもあり、これまでいわれてきたように
一筋縄ではいかない』

曰く『遼東方面から朝鮮半島に展開する諸軍は、高麗王朝もふくめて、遠征の成功後は
自分たち権益を主張できる将来の新領土として日本列島を眺めていたこと、−これらは
モンゴル帝国の歴史を研究するものには「常識」といっていい』

朝鮮関係のタブーが戦後の日本史研究を歪めている一因であるのは確かだろ?
元寇は朝鮮が日本を侵略した出来事なんだから、タブーの最たるものじゃん。

53 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 19:54:12
三別抄を無条件に善玉にした議論なんて、日本史であっても少なくとも
最近では皆無に近いだろ。結果論として、三別抄の抵抗が日本に時間的
猶予を与えた、という記述は多く見られるけど、それはそれで事実だしな。

大体、三別抄の自壊については、内部分裂(具体的には裴仲孫の背信)が
きっかけで急速に勢力を弱めた、ってのはまさしく通説だ。
日本史の研究者である村井章介が『北条時宗と蒙古襲来』で引用してる
くらいだからね。全然タブーでも何でもない。あなたが知らないだけです。

もし、それが最近になって書かれたものなら、杉山氏お得意のチョンボだな。

だから、朝鮮よりもへったくれもないのです。

54 :日本@名無史さん:2006/12/10(日) 21:01:18
なんか面白いことになってきたな。
やっぱり歴史だけは自分とこの国だけで自己完結させるもんじゃないな
歴史なんて自己満足でオッケーなら別だけど。
象牙の塔にこもって、ひきこもる時代は終わりにして
周辺関係国の学者が軒並み集まって
けんけんがくがく議論しないといけない時代に入ったなこりゃ

55 :日本@名無史さん:2006/12/11(月) 15:22:44
>>53
三別抄のモンゴルに直接臣従しようとする動きを、あくまで裴仲孫の背信だったことにしようとする通説自体が、
まさに「三別抄を無条件に善玉・英雄とする議論」そのものじゃん・・・

56 :日本@名無史さん:2006/12/11(月) 17:38:49
そもそも、村井章介が朝鮮よりの暴論を展開し、日本史を歪めている一人だろ。

【北条時宗と蒙古襲来】P128
『したがって、日本との戦争を避けることが、李蔵用以来の高麗の基本方針であり、
外交交渉で正面から日本遠征中止を訴えるほか、使者を抱きこんで日本国使を
仕立てるなどの工作もいとわなかった。
 もちろん高麗の一部には、対日戦に勝利して有利な地位を確保しようとする
思惑もあり、忠烈王が、一ニ七八年に「日本は一島夷のみ、・・・願わくば更に
船を造り穀を積み、罪を声らして討を致さん」と元にもとめたり、一二九二年に、
三度目の日本征伐への助力を元使に申し出る、といった行動をした背景には、
そうした動向があるかもしれない』

忠烈王は高麗国王で、李蔵用は高麗の一役人。
何で李蔵用が「高麗の基本方針」で、忠烈王が「高麗の一部」なんだよ?
常識的に考えれば、忠烈王が高麗国王として元に再三日本侵略を求めたんだから
それが「高麗の基本方針」で、李蔵用はあくまでも「高麗の一部」とするべきだろ。
>>53はこの文章を読んで何の疑問も抱かなかったのか?

朝鮮が絡むと、こういう滅茶苦茶な理屈も堂々とまかり通るのが、戦後の日本史研究の現状。

57 ::2006/12/12(火) 22:05:58
>>55
なぜ「あくまで」と付けるのかが不思議。
頭目の裴仲孫自身が身の安全を担保に、自分の地位をより有利な形で保持しようとした
ことが自壊のきっかけになったことは事実。
そして、そのことをしった三別抄の他の部隊から反発を買い、殺されたのも事実。
こんなことをやってる組織の話を書いて、何で三別抄本体は別で、「善玉」として
描いているんだと考えるの?論理的整合性がありません。
もしあなたの論理でいくならば、村井氏が
「でもでも三別抄本体は別で、正義の抵抗組織であった!レジスタンスばんじゃーい」
とか書いてないといけない。当たり前だが、そんな記事はない。他の著述でも知る限りない。

>>56
三別抄の話から外れまくってますな。(ニガワラ そんなに必死になんなくてもいいのに…
ま、いいけどね。ではちょっと詳しめに。

まず、あなたの意見の欠点の一つに、時間軸を考慮に入れていないことがある。
忠烈王は1273年に三別抄を鎮圧し、1274年に即位。その言葉は1278年。
対して李蔵用が猿芝居をうったのは1261年。

素直に見れば、三別抄の壊滅を受けて忠烈王が即位した後、高麗の外交姿勢に変化があったと
考えるのが自然だろう。
彼は皇太子時代に元で生活しており、さらに后も元からもらうなど、当時の高麗の最親元派だ。
彼の力の源泉は元以外にない。こういう人物がある時期に件の発言をしたからと言って、
それまでのいきさつをひっくるめた高麗全体の傾向に当てはめるべきものかどうなのか。
私は、否定的な立場を取らざるを得ない。

58 ::2006/12/12(火) 22:06:36
では、李蔵用に代表される戦争回避派についてだが、こちらが高麗外交の本筋だった
と言えるのだろうか?少なくとも、史料から見る限り、哀れをもよおすほどに何度も
「頼むから諦めてくれ」と懇願している様が書かれている。
1261年の李蔵用・黒的の猿芝居の上「貧しい国に過ぎぬので、攻めぬが吉」というような
報告書まで作成、1269年には同じメンバーが対馬島までで引き返し、
その後、女真人の趙良弼が交渉を引き継いだが、1271年に守護所の人間を「使者」に
仕立て上げるなどしている(勿論失敗)。これには恐らく、鎮西探題の協力があったものと
考えられるが、何度も「とにかく使者を送って欲しい」とのべつづけている高麗側の使者の
態度を勘案するならば、彼らも一枚かんでいた可能性が高い。
江戸幕府と朝鮮王朝との間に入った対馬藩の行動を思い起こせば、それほど奇異なことでも
あるまい。

よって、村井氏の言ってることは、間違っていない。事例からするならば、圧倒的に戦争を
回避しようとする行動が目立つからだ。
より正確に言うならば、忠烈王が実験を握るまで、また実際に戦闘状態にはいるまでは
特に戦争の回避を望んでいた、というべきではあるが、少なくともあなたが思っている
ようにメチャクチャな理屈ではない。

59 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 00:25:39
「元寇で助かったのは朝鮮人のおかげ」・・受験業界ピンチ!三大予備校の講座に工作員
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/dqnplus/1166010386/

60 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 15:41:47
>>57-58
三別抄のモンゴルに直接臣従しようとする動きは裴仲孫の背信で、それが自壊のきっかけに
なったなんてことを「事実」「事実」と書いているが、そんなもの定説でも何でもないぞ。

あと、時間軸を考慮に入れれば、「李蔵用に代表される戦争回避派」なんてものは、1268年に
李蔵用がクビライから『朕、宋と日本とを討たんと欲するのみ』と告げられた時点で終了だ。
李蔵用自身、1269年の元宗廃位事件にかかわり罷免されてるし。

時間軸を考慮に入れれば、「三別抄の壊滅を受けて忠烈王が即位した後、高麗の外交姿勢に変化があった」
というのも間違いだな。
忠烈王の皇太子時代、1272年の段階で既にクビライに対して日本侵略を進言している。

重ねて言うが、忠烈王は高麗国王で、李蔵用は高麗の一役人に過ぎない。
「皇太子時代に元で生活しており、さらに后も元からもらう」なんてことは、現実に忠烈王が
高麗国王として実権を握り、そのもとで 文永の役と弘安の役がおこなわれた以上どうでもいいこと。
日本との戦争を避けようとする行動なんか高麗のごく一部で、圧倒的に目立つのは対日戦に勝利して
有利な地位を確保しようとする行動じゃん。

61 :日本@名無史さん:2006/12/15(金) 15:45:45
村井章介は、まだまだ他にもおかしなことを書いてるぞ。

【北条時宗と蒙古襲来】P118
『先にあげた諸例のなかで、予定された戦争は「異国征伐(発向)」「高麗征伐(発向)」と
呼ばれている。攻撃目標は本源地であるモンゴルではなく、朝鮮半島だった。ここには、
戦役に疲れた高麗の弱みにつけこんだ冒険的侵略主義以外のものは認めがたい』

この文章の中で、「戦役」という言葉が指しているのは文永の役。
文永の役って、あきらかに日本が侵略戦争の被害者だよな・・・
対馬、壱岐、松浦、博多では何の罪もない日本人の多くが、侵攻してきた高麗と元の兵士に
よって殺されたんだぞ。
鎌倉幕府がそれに対して、報復を考えるのは当然だろーが。
何で日本の方が「侵略主義」のレッテル貼られて、批判されてるんだよ?
加害者の高麗が日本を侵略して疲れているから、被害者の日本が報復しようとするのは
「弱みにつけこんだ冒険的侵略主義」・・・

「朝鮮より」なんていう生半可なレベルじゃないぞ。
村井章介のやってることは、「歴史研究」とは名ばかりで、単なる朝鮮のプロパガンダじゃん。

62 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 16:51:03
文永の役に参加した劉復享の部隊は女真族だったて本当?

63 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 17:23:33
>>62
杉山は『モンゴル帝国の興亡』の中で「山東出身の女真武将で、それなりに
名の通った劉復享」って書いてるよ。

64 ::2006/12/17(日) 17:30:00
>>60
なんだ、まだ意味のない反論してるの?仕方ないなぁ・・・・
まず裴仲孫についてだが、これ高麗史に載ってることなんだから、定説
云々以前の問題でしょう。裴仲孫の名前が出てこないだけで、仲間割れから
力が弱まったなんてことは多くの概説書にも書かれていること。
大丈夫?

それと、時間軸についてだけど、
高麗国王がどうおもっていたかということと、高麗の臣下がどう思っていたか、
また時間の経過の仲でどのように変化していったかは全く別の事柄。
そこがあなたはわかっていませんね。それとあなた、ご自身で李蔵用の
元宗廃立事件から親元派忠烈王に至る権力の変遷を認めた発言しても、
反論になってませんよ。(苦笑
さらに「「皇太子時代に元で生活しており、〜文永の役と弘安の役がおこなわれた
以上どうでもいいこと。」と言っていますけど、これ全然どうでもいいことじゃ
ないですから。ていうかあなた、権力の変遷過程を上で述べてるんですから
この文章、自己矛盾ですね。
こういう矛盾が出てくるのは「高麗の忠烈王のある時点での判断が
歴史的な評価の全て」という、あなたの非常に特殊な観念(思考ではなく、
これはもう観念の部類)に起因してるんですね。
自分でも分かんなくなってきてしまっている。
(それにしても三別抄の話、どこに飛んだんですかね)

65 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 17:53:24
>>61
なるほど、あなたが村井章介が大嫌いと言うことはよ〜くわかりました。
しかもどうも「「歴史研究」とは名ばかりで、単なる朝鮮のプロパガンダじゃん。」
などという感想を抱いている当たり、政治的な反発心からでしたか。いやはや。
この当たりになってくると、コメントしていいかどうかも悩むんだが・・・

三別抄の話に関係ない上、今までの高麗の話とも関係がないからなぁ。
あなたの得意技は、話をずらしていくことですか?こういうのを得意技に
するひとって時々いますね。話を延々とずらしていって、相手が疲弊するのを待つってやり方。

ハッキリ言えば、あなたの深読みのしすぎです。
冒険的侵略主義というところが思想的にひっかかるのでしょうが、あなたが言うところの
「やられたからやり返してやる」という報復行為そのものが「冒険的」で思慮に欠けるもの
だ、と言っているにすぎません。その後、「攻撃と防御の両面から作戦遂行することは
無理があり、・・・防御を固める方向が選択されたのであろう。」と語っていますよね。
冒険的で無意味な侵略行為だからやめたっちゅーことです。

P119の海軍編成のところで村井氏も若干触れていますが、異国征伐用に
徴用した舟というのは、瀬戸内海などでの近海、内海での運用を主体としたもので、
外洋での運用は考慮の外にある。これを使って高麗に渡っていく、という事自体無理が
ある、つまり冒険的なわけですしね。


66 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 18:00:27
>>62
劉復享は女真かもしれんが
率いてた兵が女真だったかどうかはしらない

67 :日本@名無史さん:2006/12/17(日) 18:27:48
>49あたりからざっと読むと、
村井氏批判をしてる人は、この日本史板の邪馬台国論争でいうとこの
畿内説の人と同じ臭いがしてならない・・
大きな視点で客観的に読み取ろうとするより、主導権争いに近い、
最初から結論ありきで主観や思い入れが強すぎる

68 :日本@名無史さん:2006/12/18(月) 08:55:36
弘安の役は元軍を上陸させず征服を失敗させたので日本の勝ちでいいと思う
文永の役はどうなんだろ、偵察だという話もあるし
高麗あたりはかなりやる気があったらしいが

69 :日本@名無史さん:2006/12/21(木) 14:31:56
>>64
資料に裴仲孫の名前が出てこないのなら、裴仲孫が三別抄の他の部隊から反発を買い、
殺されたのも事実、と断定することはできないのでは?

70 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 13:06:04
>>69
概説書に具体的な人名が書かれてないだけ、ってことだと思われ。

71 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 14:22:37
【草原の英雄】成吉思汗【蒼き狼】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1161619855/


72 :日本@名無史さん:2006/12/23(土) 17:17:42
文永11年及び弘安4年、日本大自衛戦争

73 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 03:08:00
>>70
裴仲孫がどういう運命となったかについては、それを記した文献が無いため、本当のことはわからない。
単純に>>64がそのことを知らず、事実と思い込んでいただけ。

74 :日本@名無史さん:2006/12/24(日) 12:53:54
世界史板住人だが…
元史には仲間割れというか、裴仲孫が寝返ろうとしていたことは書かれていたな。
「本紀第七 世祖」のあたり。

その後どうなったかはともかく、仲間割れしていた可能性は高いだろう。

75 :日本@名無史さん:2006/12/26(火) 21:16:15
なんだかgehaみたいな展開。

煮詰まっているのなら別の視点で見るのはどう?
ここにいる人、つい先日に出たともいえる「パックスモンゴリカ」とか
読んだかいな。
あの本に書かれている日本侵攻の書き方は興味深かったよ

76 :日本@名無史さん:2006/12/27(水) 10:50:58
>>74
世祖本紀のは、単に裴仲孫が元に直接臣従したいと申し出たっていう記事だべ。
「裴仲孫が三別抄を裏切って元に臣従しようとした」と「裴仲孫が三別抄を率いて元に臣従しようとした」
ではまったく意味が違うから。

77 :日本@名無史さん:2006/12/29(金) 23:46:18
ちょい質問なんだが、蒙古襲来のとき御家人は
日本の危機として対処したのかな?
なんつーか、当時の武士に日本っていう国の意識があったのかなと。
幕府の危機として戦ったのか、日本の危機なのか…。

78 :日本@名無史さん:2007/01/01(月) 18:15:13
>>77
御家人が奉公することを許されているのは鎌倉殿のみ。
元寇後の恩賞要求に対しても、幕府は「国のため」という論理で
否定したりはしていない。御恩と奉公の論理だけが貫徹している。
やっぱり幕府の危機、しかも全国政権としての意味ではなく、武門
の統率者の危機、と考えていたと思われる。

79 :日本@名無史さん:2007/01/02(火) 21:16:12
あげ

80 :日本@名無史さん:2007/01/03(水) 14:30:57
>>78
あれ? 元寇では御家人以外の武士も参戦したし、その結果として御家人以外への幕府統制も強くなって言ったのでは?

81 :日本@名無史さん:2007/01/05(金) 01:08:28
第2次の日本遠征で元は宋から接収した海軍力をほとんど失ったため、海防の弛緩を招来し、
元王朝の命取りの一因にもなった
14世紀の初頭から、広州、泉州、慶元の市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、
沿海地域の防衛問題が深刻になりつつある証拠である
元朝は日本商戦の武装化および日本の復讐を恐れて初期の中日貿易奨励方針から、
しだいに消極的な閉関主義への軌道修正を余儀なくされる

中国の歴史12 第5章 王勇

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